第73話「リース別棟独立(猫部屋が先)」
リースが宣言した。「私は独立する」
その直後、最初に作った部屋が“猫部屋”だった。
セレナが微笑む。「規律とは」
ギルドでの戸籍騒動から一夜明けた、迷宮の朝。
ダイニングテーブルには、いつものように温かい朝食が並んでいた。
焼き魚の香ばしい匂いと、大根の味噌汁から立ち上る湯気。
だが、その食卓を囲む空気は、かつてないほどに甘酸っぱく、そして気まずかった。
俺は昨日のギルド窓口での「俺の戸籍に入れます」という公開プロポーズまがいの発言のせいで、セレナの顔を直視できずにいた。
対するセレナも、純白のドレスの上に割烹着といういつもの姿だが、耳の先まで真っ赤に染まったまま、無言で焼き魚を箸でほぐしている。
パチパチとコンロの火が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
そんな限界ギリギリの空気の中、ジャージ姿のリースが突然バンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
「私は独立する!」
凛とした声が、石壁に響き渡る。
「ど、独立って……お前、神殿には戻らないって決めたじゃないか」
俺が驚いて顔を上げると、リースは腕を組み、そっぽを向いた。
「神殿に戻るわけではない! この迷宮の敷地内に、私個人の別棟を建てるのだ! お前たちのその……新婚夫婦のような甘い空気に当てられていては、私の騎士としての規律が鈍ってしまうからな!」
リースの顔も、なぜか茹でダコのように赤い。
どうやら彼女も、俺たちの気まずい空気に耐えきれなくなったらしい。
「いや、まだ新婚じゃないし! それに別棟なんて、どうやって建てるんだよ」
「この迷宮は、住人の『生活感』で拡張するシステムなのだろう? 私が騎士としての強固な意志と規律を念じれば、屈強な砦のような別棟が生えるはずだ!」
リースはそう宣言すると、玄関の外に広がる地下の空洞へと飛び出していった。
俺とセレナも、心配になってその後を追う。
広場の中央に立ったリースは、目を閉じ、両手を胸の前で強く握り締めた。
「我が意志は鋼! 規律は命綱! いざ、我が防衛の城をここに現出させよ!」
彼女が気合と共に叫んだ、その瞬間。
ゴゴゴゴゴッ!!
地鳴りが響き、空洞の地面が隆起し始めた。
光の粒子が舞い散り、真新しい木材が組み上がっていく。
木の爽やかな香りと、新しい漆喰の匂いが空気を満たした。
数分後、そこにはこぢんまりとした、だがしっかりとした造りの木造平屋が完成していた。
「よし! 見ろユウ殿、セレナ様! これが私の意志の結晶だ!」
リースが自慢げに胸を張り、真新しい扉を勢いよく開け放つ。
俺たちは恐る恐る、その『砦』の中を覗き込んだ。
「……なんだ、これ」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
そこに広がっていたのは、武器庫でも修練場でもなかった。
壁一面に設置された、巨大で複雑なキャットタワー。
床にはふかふかの丸いクッションがいくつも転がり、窓辺には日向ぼっこ用のハンモック。
部屋の隅には、高級なマタタビの香りが漂う爪とぎタワーがそびえ立っている。
人間の生活スペースは、部屋の隅に置かれた寝袋一つだけだった。
「……規律、とは?」
セレナが首を傾げ、ふわりと微笑みながら呟いた。
「ち、違う! これは猫という俊敏な獣の動きを観察し、自己の鍛錬に取り入れるための……!」
リースが必死に言い訳を試みるが、すでに手遅れだった。
「にゃーん」
「みゃあ」
迷宮内に住み着いていた野良猫や、魔物から変化した猫たちが、マタタビの匂いに釣られて次々と別棟に集まってきたのだ。
「あっ……だめだ、こっちに来るな……私は騎士……」
リースは数秒だけ抵抗したが、足元にすり寄る茶トラの猫に触れた瞬間。
「……にゃ」
彼女は完全に人格を溶かし、ふかふかの絨毯の上に猫たちと共に崩れ落ちてしまった。
『本日の報告。清掃対象エリアに、不毛な獣の毛が大量に発生する部屋が追加されました。私の業務を増やす愚行、万死に値します』
足元から、モップの氷のように冷たい念話が響いた。
リースの独立計画は、ただの巨大な猫カフェの誕生という形で幕を閉じたのだった。




