第69話「婚約者(自称)再登場:空気が読めない」
玄関に、またあの爽やかが立っていた。
「迎えに来た」
セレナが笑顔で答えた。「帰ってください」
大監査の嵐が去り、迷宮に平和が戻った。
だが、俺とセレナの間には、俺の『了解です』発言に端を発する塩対応の空気がまだ残っていた。
朝ごはんはしょっぱいし、掃除の時は妙に冷たい。
俺がようやく自分の恋心を自覚したというのに、アプローチする隙すら与えてもらえない状況だ。
そんな気まずい昼下がり。
玄関のチャイムが、またしても空気を読まずに鳴り響いた。
「はーい、今出ます」
セレナがエプロン姿のまま、小走りで玄関へ向かう。
俺も嫌な予感がして、その後を追った。
重い木製の扉が開くと、そこには見覚えのあるプラチナブロンドの男が立っていた。
神殿の筆頭騎士団長の息子であり、セレナの婚約者(自称)のアルベルトだ。
「待たせたね、愛しのセレナ! 先日の大監査の混乱に乗じて、君を救出しに来た!」
アルベルトは芝居がかった手つきで前髪をかき上げ、キメ顔を作っている。
どうやら彼は、大監査の結末(神殿側がただいま結界で弾き飛ばされたこと)を知らされていないらしい。
相変わらず、最高に空気が読めない男だ。
「……迎えに来た」
彼が甘い声で手を差し出した、その瞬間。
「帰ってください(にこ)」
セレナが、ノータイムで答えた。
しかも、今までで一番冷たい、絶対零度の笑顔だった。
「え?」
アルベルトのキメ顔が、空中でフリーズする。
「前回もお伝えしましたが、私はあなたと婚約なんてしていません。それに、今は少し……機嫌が悪いんです」
セレナの言葉に、俺の胃がチクッと痛んだ。
機嫌が悪い原因は、百パーセント俺だ。
「そ、そんな冷たいことを言わないでくれ! 君は神殿の横暴に傷ついているのだろう? 私の胸に飛び込んでくれば……」
アルベルトが一歩踏み込もうとした。
その革靴が、玄関の上がり框を越えそうになる。
今までなら、俺は「またか」と呆れて見ているだけだった。
セレナが実家ルールで彼を撃退するのを、ただ待っているだけだった。
だが、今は違う。
俺の中で、ドス黒い嫉妬と独占欲が、明確に形を成していた。
こいつに、セレナの時間を一秒でも奪わせたくない。
彼女に触れさせるなんて、絶対に嫌だ。
「おい、お前」
俺は、セレナの前にスッと立ち塞がった。
「な、なんだ! (仮)マスター風情が、私とセレナの愛の語らいを邪魔する気か!」
「お前こそ、俺の家の玄関で勝手なことを喚くな。彼女は帰れって言ってるだろ」
俺はアルベルトを真っ直ぐに睨みつけた。
現場監督時代、工期を守らないクソ業者を威圧する時に使っていた、一番ドスの効いた声だ。
「ここは俺と彼女が暮らす、大切な『実家』だ。これ以上、彼女を困らせるなら……力ずくで叩き出すぞ」
俺の言葉に、アルベルトはビクッと肩を震わせた。
ただの一般人であるはずの俺から放たれる気迫に、完全に気圧されている。
「ひ、ひぃっ……! おぼえていろ! 神殿の力は必ず貴様らを……!」
アルベルトは顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐きながら逃げ帰っていった。
バタン、と玄関の扉が閉まる。
静まり返った玄関。
俺は少しだけ息を乱しながら、振り返った。
「あ、その……勝手に出しゃばって悪かった」
俺が頭を掻きながら言うと、セレナは目を丸くして俺を見つめていた。
彼女の青い瞳が、パチパチと瞬きをする。
「……家主さん」
「ごめん。でも、あいつがお前に馴れ馴れしくするのが、なんかすごく……嫌だったんだ」
俺が素直な気持ちを口にすると、セレナの顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。
純白のドレスの首元までが、朱色に染まっている。
「……ふふっ」
彼女は両手で顔を覆い、小さく笑い声を漏らした。
さっきまでの塩対応の空気は、完全に消え去っていた。
「……今日の夕ご飯、ハンバーグにしますね。お塩は少なめで」
セレナは上目遣いでそう言うと、逃げるように台所へと戻っていった。
甘い花の香りが、玄関にふわりと残る。
『本日の報告。主人公の独占欲による物理的排除を確認。少しはマシになりましたね』
足元のモップが念話を送ってくる。
俺の長く不器用な恋は、ようやく少しだけ前に進んだようだった。




