第65話「神殿上層の本音が最悪」
神殿の男が言った。
「聖女は道具だ」
俺の中で何かが“ぷつん”と切れた。
マリアが玄関の上がり框にへたり込み、子どものように泣きじゃくっている。
その背中を、セレナが優しく撫でていた。
甘い花の香りと、マリアの嗚咽だけが、冷たい石畳の玄関に響いている。
大監査の群衆は、新しい聖女の予期せぬ崩壊に完全に言葉を失っていた。
スリッパを履いたままの騎士たちも、武器を下ろして顔を見合わせている。
このまま彼らが引き下がってくれれば、それで丸く収まるはずだった。
だが、権力に固執する者たちの執念は、そんなに甘いものではなかった。
「ええい、何をしている! マリア様をお連れしろ!」
群衆をかき分け、豪奢な金糸の法衣を着た初老の男が前に出てきた。
神殿の最高意思決定機関である、特務枢機卿の一人だ。
顔は脂ぎり、その目は権力欲と傲慢さで濁りきっていた。
彼から放たれる、きつい香の匂いが俺の鼻を突く。
胃の奥がムカムカとするような、不快な匂いだった。
「マリア様は疲労により正気を失っておられる! 偽りの聖女セレナの洗脳魔法だ! すぐにマリア様を回収し、この悪しき迷宮を更地にせよ!」
枢機卿が杖を振り上げ、ヒステリックに叫んだ。
その声に反応し、後方に控えていた精鋭部隊が再び剣を抜く。
チャキッ、という冷たい金属音が地下の空気を切り裂いた。
「待ってください」
マリアが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、枢機卿を睨みつけた。
「私は……もう神殿には帰りません。あんな息苦しい場所、もう嫌です……!」
彼女の悲痛な叫びに、枢機卿は鼻で笑った。
「馬鹿なことを言うな。お前たち聖女は、神殿の権威を保つための美しい道具だ。道具に個人の意思など必要ない。黙って祈り、民衆を従わせるための偶像であればそれでいいのだ!」
その言葉が、石壁に反響する。
聖女は道具。
彼らは、マリアも、そしてセレナのことも、ただの人形としてしか見ていなかった。
セレナの肩が、微かに震えるのが見えた。
かつて彼女も、その言葉で縛り付けられ、心を殺して生きてきたのだ。
ドクン。
俺の胸の奥で、嫌な音がした。
現場監督として、俺は理不尽な要求やパワハラには慣れているつもりだった。
だが、今のこの男の言葉は、俺の許容範囲を完全に超えていた。
「……ふざけんな」
俺は低い声で呟き、枢機卿の目の前へと歩み出た。
「なんだ、下賎の(仮)マスター風情が。貴様も異端として火あぶりにしてくれるわ」
「聖女は道具だ? ふざけるなよ。あいつらは、ちゃんと温かいご飯を食べて、笑って、怒って、ここで生きてる人間なんだよ!」
俺は拳を強く握り締めた。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走るが、そんなものはどうでもよかった。
「人の家族を道具呼ばわりする奴は、俺の実家の敷居を跨ぐな! 今すぐここから出て行け!」
俺の怒声が、迷宮全体を震わせた。
家主の怒りに呼応して、足元の石畳が微かに光を放ち始める。
「ええい、黙れ! 騎士団、やれ!」
枢機卿が杖を振り下ろした。
だが、彼らが踏み込もうとしたその時、俺の隣に純白のドレスが並んだ。
「家主さんの言う通りです」
セレナが、静かに、だが絶対的な威厳を持って前を向いた。
彼女の青い瞳に、迷いは一切なかった。
俺たちは今、神殿という巨大な敵を前に、完全に腹を括っていた。




