第64話「偽聖女、実は家が欲しかった」
偽聖女が、ふいに泣いた。
「帰る場所が、なかっただけ」
セレナが言った。「じゃあ、帰りましょう」
大監査の混乱が続く迷宮の玄関に、再びあの眩い光の陣が浮かび上がった。
転移魔法の光の中から現れたのは、巨大な天蓋付きの神輿。
そして、その上に鎮座する、完璧な笑顔を張り付けた偽聖女・マリアだった。
「迷える者たちよ。騒ぎを収めなさい」
マリアが透き通るような声で宣言すると、混乱していた神官や騎士たちの動きがピタリと止まった。
彼女は神輿から優雅に降り立ち、純白の法衣の裾を揺らしながら、俺とセレナの前に歩み出てきた。
「セレナ様。あなたのワガママのせいで、これだけの人が迷惑を被っています。さあ、今度こそ神殿へ帰りましょう」
マリアの言葉には、有無を言わさぬ権威の響きがあった。
彼女は完璧な聖女としての役割を演じ切り、この場を力で制圧しようとしているのだ。
「私は帰りません。ここが私の家ですから」
セレナは真っ直ぐにマリアを見据え、静かに、だが力強く答えた。
「家、ですか。このような薄暗く、泥にまみれた迷宮が?」
マリアが鼻で笑う。
「ええ。ここは温かくて、ご飯が美味しくて、私の帰りを待っていてくれる人がいますから」
セレナの言葉に、マリアの完璧な笑顔が、ほんの少しだけピクリと引き攣った。
「……温かい、ご飯? 待っている人……?」
マリアの口から、無意識のようにつぶやきが漏れる。
俺は現場監督としての観察眼で、マリアの表情の微細な変化を見逃さなかった。
彼女の目は、完璧な聖女の演技の奥で、ひどく疲労し、どこか空虚な色を宿していたのだ。
「マリアさん、あなた、本当は……」
セレナが一歩前へ出る。
そして、マリアの足元を指差した。
「泥靴で上がらないでください、って言いましたよね?」
「……え?」
「ここは実家です。完璧な聖女を演じる必要なんてありません。肩の力を抜いて、靴を脱いでください」
セレナの声は、不思議なほど優しかった。
それは敵に向ける声ではなく、迷子になった近所の子供を諭すような、温かい響きだった。
「わ、私が靴を脱ぐ……? 冗談じゃないわ! 私は神殿に選ばれた、新しい聖女なのよ! 誰よりも完璧に祈り、誰よりも美しく……!」
マリアが声を荒らげる。
だが、その言葉には悲痛な響きが混じっていた。
「完璧じゃなきゃ、捨てられる……。私には、神殿の飾り物としての価値しかないんだから……!」
彼女の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
完璧な偽聖女のメッキが剥がれ落ちた瞬間だった。
彼女もまた、神殿という巨大な組織に使い潰され、本当の自分を押し殺して生きてきた被害者の一人だったのだ。
「帰る場所なんて……私には、なかっただけなのよ……!」
マリアはその場にへたり込み、両手で顔を覆って声を上げて泣き始めた。
周囲の神官や騎士たちは、新しい聖女の突然の崩壊に動揺し、どうしていいかわからずに立ち尽くしている。
セレナはゆっくりとマリアに近づき、その震える肩を優しく抱きしめた。
「じゃあ、帰りましょう」
「……え?」
「帰る場所がないなら、今日からここがあなたの実家です。客間、空いてますよ」
セレナがふわりと微笑む。
その笑顔は、どんな神の奇跡よりも温かく、マリアの凍りついた心を溶かしていった。
「う、うわああぁん……!」
マリアはセレナの胸に顔を押し付け、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
俺はため息をつきながら、玄関の下駄箱から新しいスリッパを取り出した。
厄介な敵対者すらも、実家の温もりで包み込んでしまう。
それが、俺の迷宮の最強の防衛システムであり、セレナという聖女の本当の力なのだ。
神殿が総力を挙げて仕掛けてきた「大監査」は、新しい聖女が実家の客間に泊まり込むという、誰も予想しなかった結末へと向かおうとしていた。




