第62話「監査官(筋肉狂)」
「強度検査!」
監査官が壁を殴り始めた。
モップが敬語で言った。「やめてください(真顔)」
大監査の群衆が、靴を脱ぐという地獄の試練を乗り越え、少しずつ迷宮内部へと侵入してきていた。
スリッパを履いた神官や騎士たちが、ノートを片手に重箱の隅をつつくように家の中を調べて回っている。
「天井の梁にホコリが! 減点だ!」
「障子の張り方が甘い! 神聖なる空間にふさわしくない!」
彼らは「大監査」という名目で、ただひたすらに実家の粗探しをしているだけだった。
俺は胃薬の瓶を握りしめながら、受付カウンターの裏でため息をついていた。
「ユウ殿、これは由々しき事態だ。防衛ラインが突破され、敵がリビングまで侵入しているぞ」
ジャージ姿のリースが、木刀を握りしめてソワソワしている。
彼女にとっては、これは家宅捜索ではなく完全に防衛戦らしい。
その時、リビングの奥の廊下から、ドガァァン! という凄まじい衝撃音が響いた。
「なんだ!?」
俺とリースが慌てて駆けつけると、そこには異様な光景が広がっていた。
神殿の法衣を無理やり引き裂いたような、タンクトップ姿の筋骨隆々の男が立っていたのだ。
丸太のような腕、鋼のように隆起した胸筋。
どう見ても神官には見えない。
「ふははは! 迷宮の壁とは、かくも脆弱なものか! 強度検査だ!」
筋肉狂の監査官が、拳を振り上げて壁の木材を殴りつけている。
ドガァァン!! ドガァァン!!
彼が殴るたびに、壁がミシミシと悲鳴のような音を立てて軋んだ。
迷宮の防衛システムが衝撃を吸収しているとはいえ、あまりの物理的な暴力に空間が揺れている。
「おい! 何してるんだ! 家を壊す気か!」
俺が叫ぶと、筋肉狂はニヤリと笑って汗ばんだ上腕二頭筋を見せつけてきた。
「私は異端審問会、物理監査部門の長だ! 神聖なる聖女様をお守りする空間が、私の拳ひとつで揺らぐようでは合格とは言えん! さあ、もっと耐えてみせろ!」
彼は完全に自分の筋肉を誇示したいだけだった。
理屈も何もない、ただの破壊工作だ。
「やめろ! それ以上やると、迷宮のホーム指数が……」
俺が止めに入ろうとした、その瞬間だった。
『……やめてください(真顔)』
廊下の床から、氷のように冷たく、そしてどこまでも平坦な念話が響いた。
青いスライムのモップが、筋肉狂の足元に這い寄っていた。
「ぬ? なんだこのスライムは。私の筋肉にひれ伏しに来たか!」
筋肉狂が自慢の胸筋をピクピクと動かして笑う。
『私は清掃管理責任者です。あなたが壁を殴るたびに、天井から微細なチリが落ちてきます。不潔です。そして、その暑苦しい汗の匂い。空間の汚染度が一気に跳ね上がりました』
モップの半透明の体が、怒りで赤黒く変色し始めている。
「チリだと? この輝く汗が汚染だと? 貴様、私の鍛え抜かれた肉体を愚弄するか!」
筋肉狂が拳を振り下ろそうとした、その時。
『汚物は、消毒します。そして、排除します(丁寧に)』
シュバァァッ!!
モップの体から、高圧洗浄機のような勢いで、強烈なアルコールと石鹸が混ざった液体が噴射された。
「ぶぁっ!? な、なんだこの刺激臭は……! 目が! 目がァァ!」
さらにモップは、筋肉狂の足元に洗剤を大量にばら撒き、床をツルツルに磨き上げた。
「ぬおおっ!? 足元が……滑るゥゥ!」
バランスを崩した筋肉狂は、そのまま仰向けに転倒した。
そして、モップが彼の背中に張り付き、ものすごいスピードで廊下を滑らせていく。
「わあああああっ!」
巨大な筋肉の塊が、洗剤の泡と共に廊下を滑走し、そのまま玄関の扉を突き破らんばかりの勢いで外へと放り出された。
バタンッ!
扉が閉まり、廊下には洗剤の爽やかなレモンの香りだけが残された。
「……丁寧な排除、完了しました」
モップがキュッキュと床を磨きながら、俺の足元に戻ってくる。
「お前、頼りになるけど、やり方がえげつないんだよ……」
俺はピカピカになった廊下の床を見つめながら、筋肉狂の無事をほんの少しだけ祈った。
大監査のドタバタは、まだまだ終わる気配を見せなかった。




