第61話「大監査:実家が満員」
玄関に人が並びすぎて、靴が迷子になった。
神殿、ギルド、貴族、野次馬。
セレナが笑う。「いらっしゃいませ。実家です」
昨夜の「了解です」という俺の絶望的なクソリプの代償は、翌朝の食卓にきっちりと現れていた。
「おはようございます、家主さん。朝ごはんです(にこ)」
エプロン姿のセレナが、完璧な笑顔で俺の前に皿を置いた。
だが、その皿に乗っているのは、塩漬けにされた鮭、塩昆布が大量に乗ったご飯、そして塩分濃度が海水を越えているであろう味噌汁だった。
完全なる『塩対応』である。
「あ、あの……セレナさん? これ、ちょっと塩分が高すぎないか……?」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女はふわりと小首を傾げた。
「そうですか? 家主さんはシステムの話がお好きですから、迷宮の塩分濃度管理システムを体感していただこうと思いまして(にこ)」
青い瞳の奥が全く笑っていない。
絶対零度の空気がダイニングテーブルを支配している。
「ゆ、ユウ殿……お前、本当に何をどう間違えたら、あの温厚な聖女様をここまで怒らせることができるのだ……」
ジャージ姿のリースが、自分の普通の朝食(美味しそうな卵焼き)を食べながら、哀れみの目を向けてくる。
俺が塩鮭をかじり、あまりのしょっぱさに白湯を大量に胃に流し込んでいた、その時だった。
ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!!
玄関のチャイムが、かつてないほどのけたたましい音で鳴り響いた。
一度や二度ではない。誰かが連続でボタンを連打しているような、乱暴な鳴り方だ。
「なんだ、朝から……」
俺が立ち上がろうとすると、外のゴミ出しに行っていたノアが、顔を真っ青にして飛び込んできた。
「家、家主! やばい! 外がとんでもないことになってるぞ!」
「とんでもないことって、何がだ?」
俺が玄関の扉を開けた瞬間、目の前の光景に絶句した。
迷宮の外、地上の入口付近に、人、人、人の波が押し寄せていたのだ。
神殿の白い法衣を着た神官たち、重武装の騎士団、ギルドの腕章をつけた監査官の集団。
さらには、きらびやかな衣装を着た貴族らしき一団や、噂を聞きつけて集まった大勢の野次馬まで。
数百人はいるであろう群衆が、俺の迷宮を取り囲んでいた。
「未登録迷宮の主よ! ギルドとの合同による『大監査』を実施する! 速やかに内部を公開せよ!」
拡声の魔道具を使った声が、ビリビリと空気を震わせた。
「大監査……!? 本登録されたばかりなのに、どういうことだ!」
俺が叫ぶと、先頭に立っていた神殿の高位神官が冷笑を浮かべた。
「本登録されたからといって、内部の安全性が完全に証明されたわけではない。我々は、聖女様が滞在するにふさわしい環境かどうか、総力を挙げて査察を行う義務があるのだ!」
要するに、理屈をこねた総がかりの嫌がらせだ。
紙飛行機で書類を返送された意趣返しに、物理的な人海戦術で迷宮の平穏を破壊しに来たのだ。
「中へ入れ! 徹底的に調べ上げろ!」
神官の号令と共に、大勢の兵士や監査官たちが、土足のまま玄関へと雪崩れ込んでこようとした。
ドガァァン! と扉が押し開かれそうになる。
だが、その波の前に、純白のドレスに割烹着姿のセレナが、スッと立ち塞がった。
「いらっしゃいませ。実家です」
彼女は完璧な、そして絶対零度の笑顔を浮かべて、群衆を見下ろした。
「ですが、玄関は家の顔です。泥靴で上がることは、この私が許しません(にこ)」
その圧倒的な笑顔圧に、先頭の兵士たちの足が空中でピタリと止まる。
「く、靴を脱げだと……!? 我々は大監査の権限を……」
「脱いでください。そして、つま先を外に向けて揃えること。スリッパの数には限りがあるので、順番に並んでくださいね」
セレナの言葉は、法や権力よりも重い『実家ルール』の強制力を持っていた。
結果として、玄関には数百足の靴が山積みになり、大監査団は靴を脱ぐためだけに行列を作るという、前代未聞の事態に陥ったのである。
「おい、俺のブーツがないぞ!」
「押すな! 聖女様に怒られるだろうが!」
玄関の上がり框を越える前に、監査団はすでに靴の迷子とスリッパの奪い合いで自滅しつつあった。
俺の塩分過多の胃痛は、群衆の喧騒によってさらに加速していくのだった。




