第60話「告白未遂:理解が遅い男」
セレナが言った。「帰るの、あなたのところです」
俺は言った。「了解です(?)」
モップが記録した。《本日:主人公、鈍感》
神殿の婚約書類を紙飛行機にして返送した日の夜。
迷宮には、久しぶりに静かで穏やかな空気が流れていた。
ノアは配信の編集で部屋にこもり、リースは猫部屋で溶けている。
リビングには、俺とセレナの二人だけだった。
「神殿の奴ら、あの紙飛行機を見てどう思っただろうな」
俺がほうじ茶をすすりながら笑うと、向かいに座るセレナもくすくすと笑った。
「きっと、顔を真っ赤にして怒っているでしょうね。でも、もう何を言われても怖くありません」
彼女はそう言いながら、左手の薬指に刻まれた金色の紋章を愛おしそうに撫でた。
俺の左手にも、同じ紋章がある。
本登録の儀式で刻まれた、空間と魂のパス。
これが俺たちを守る、最強の盾だ。
「家主さんが、私を本当の住人として認めてくれたから。……ここが、私の本当の帰る場所になったから」
セレナは少しだけ俯き、頬をほんのりと桜色に染めた。
オレンジ色の魔力灯の光が、彼女の銀糸の髪を美しく照らしている。
甘い石鹸の香りがふわりと漂い、俺の心臓がまたしてもドキンと跳ねた。
「あのね、家主さん」
セレナが顔を上げ、潤んだ青い瞳で俺を見つめてきた。
その視線は、真っ直ぐで、誤魔化しがきかないほどに熱を帯びている。
「私、紙飛行機を飛ばした時、はっきりとわかったんです」
「わかったって……何を?」
俺が喉を鳴らして尋ねると、セレナは両手を膝の上でぎゅっと握り締めた。
「私がいちばん帰りたいのは、この迷宮じゃなくて。……帰るのは、あなたのところです」
静かなリビングに、彼女の透き通るような声が響いた。
あなたのところです。
その言葉の意味が、俺の脳内でグルグルと空回りを始める。
これは、つまり。その。
彼女は、俺という個人に対して、特別な感情を抱いているということなのか?
いや、待て。俺はただの元(仮)マスターで、彼女は国の聖女だぞ。
そんな釣り合わない話があるわけがない。
これはきっと、家主としての管理能力に対する絶大な信頼の証だ。そうに違いない。現場監督として、一番嬉しい評価じゃないか。
俺のポンコツな防衛本能と、悲しき職業病が、またしても最悪の結論を導き出した。
「……なるほど。了解です」
俺は深く頷き、真剣な顔で答えた。
「俺がこの迷宮のシステムそのものであり、俺の存在がホーム指数の安定に直結しているということだな。安心しろ、俺は絶対にこの現場を離れない。二十四時間体制で、お前の帰る場所を維持してみせる」
「…………」
セレナの顔から、一瞬で表情が抜け落ちた。
彼女の青い瞳が、信じられないものを見るように俺を凝視している。
「あ、あれ? どうした、セレナ?」
「……家主さんのバカ」
セレナはプイッと顔を背け、立ち上がってしまった。
「おやすみなさい。明日の朝ごはんは、塩対応にしますからね!」
バタンッ!
彼女は自分の寝室へと足早に向かい、勢いよく扉を閉めた。
『本日の報告。主人公の絶望的な理解力の低さにより、またしても告白イベントが不発。塩対応の明日に備え、胃薬の補充を推奨します』
足元から、モップの呆れ果てた念話が響いた。
「えっ? 俺、また何か間違えたか!?」
俺の叫び声は、誰もいなくなったリビングに虚しく響く。
恋の進行を確実にしようとしたセレナの勇気は、俺の絶望的な鈍感さの前に見事に打ち砕かれた。




