第56話「仮が消える日」
画面の文字が書き換わった。
《ダンジョンマスター》――(仮)が消えた。
セレナが笑った。「おかえり、家主さん」
金色の紋章が指に刻まれた瞬間、迷宮全体をかつてないほどの温かい波動が包み込んだ。
それは地震のような荒々しい揺れではなく、春の陽だまりのような、優しく穏やかな脈動だった。
天井から降り注ぐ地下の光が、一段と柔らかくなる。
壁の木材が呼吸するように微かに膨らみ、空気中のカビやホコリの匂いが完全に浄化されていく。
ピコンッ。
無機質な電子音が鳴り、俺の目の前にシステムウィンドウが浮かび上がった。
そこには、今まで俺をずっと煽り続けていた文字が並んでいる。
だが、その一部が光の粒子となって崩れ落ちていくのが見えた。
《誓約を受理しました。空間の座標を現実世界に固定します》
《迷宮ランク:未登録 → 正規登録『実家迷宮』に変更されました》
《称号の更新:ダンジョンマスター(仮) → ダンジョンマスター》
(仮)が、消えた。
俺はポカンと口を開け、その文字を何度も見返した。
ただの違法建築の管理人から、正式な、そしてこの世界で唯一無二の『実家迷宮』の主になったのだ。
「……終わったのか」
俺が深い安堵の息を吐くと、ハインリヒ審査官がバインダーを閉じた。
「ああ。これでお前たちの迷宮は、ギルドと世界が認めた正規の空間だ。神殿とて、正式な迷宮に手出しすれば国際法違反となる。もう理不尽な討伐に怯える必要はない」
ハインリヒはそう言い残し、来た時とは打って変わって穏やかな足取りで、玄関から帰っていった。
(もちろん、自分の靴を綺麗に揃えてから出て行った)
静まり返ったリビング。
ノアは配信のエンディングを撮り終えて満足げに頷き、リースは感動のあまり壁に向かって敬礼している。
俺は左手の薬指に刻まれた金色の紋章を撫でた。
これが、俺がこの世界で手に入れた、本当の居場所の証。
「家主さん」
背後から、優しく澄んだ声がした。
振り返ると、純白のドレスにエプロン姿のセレナが立っていた。
彼女の薬指にも、俺と同じ金色の紋章が輝いている。
彼女はふわりと微笑み、少しだけ小首を傾げた。
「本当の家主さんに、なったんですね」
「ああ。色々と遠回りしたけど、これでようやく、心置きなくこの家を守れる」
俺が胸を張って答えると、セレナは嬉しそうに目を細め、一歩だけ距離を詰めてきた。
花の香りと、お出汁の温かい匂いが混ざり合う。
「じゃあ、本当の家主さんに、私からの挨拶です」
彼女は両手を前で重ね、慈愛と、ほんの少しの独占欲を込めた最高の笑顔で言った。
「おかえりなさい、家主さん(にこ)」
その言葉が、迷宮の奥底まで優しく響き渡る。
俺の胃の痛みは、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
ここが俺の帰る場所であり、彼女の帰る場所。
「……ただいま」
俺が小さく返事をすると、足元のモップが『床にホコリが落ちました。掃除します』と無粋な念話を送りながら、俺たちの足元をキュッキュと磨き始めた。
騒がしくて、理不尽で、でも最高に温かい実家の日常は、これからもずっと続いていくのだ。




