第54話「“ただいま”の本質(短く真面目)」
「ただいま」は、ただの挨拶じゃない。
帰る場所に“縫い直し”を入れる言葉だ。
だからこそ――誓いが必要だった。
セレナの刻印の痛みが完全に引いた後、俺たちは再びリビングのテーブルについた。
向かいには、バインダーを広げたハインリヒ審査官が座っている。
彼は先ほどの騒ぎを冷静に見つめ、モノクルの位置を直した。
「神殿の干渉を、ただの抱擁で弾き返すか。……呆れた空間だ」
ハインリヒは深いため息をつき、書類に最後のサインを書き込んだ。
「さて、審査は合格だ。だが、迷宮の本登録を完了させるには、もう一つだけ必要なプロセスがある」
「必要なプロセス?」
俺が首を傾げると、ハインリヒはバインダーから一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、複雑な魔法陣のような図形が描かれている。
「迷宮の主たる家主と、そこに住まう者との『契約の誓い』だ。未登録の空間を安定した現実の座標に固定するためには、強固な精神的結びつきが必要となる」
この世界は、巨大な『布』でできている。
ダンジョンとは、現実のほつれが固着してできた異常な空間だ。
俺の迷宮は、セレナの「ただいま」という言葉によって、そのほつれを強引に縫い合わせて拡張してきた。
「ただいま、という言葉は、帰る場所に自分の居場所を縫い留める強力な魔法のようなものだ」
ハインリヒが、意外にも真面目な声で語る。
「だが、それだけでは布はいつかほころびる。家主と住人が、互いの存在を認め合い、未来永劫この場所を守るという『誓い』を立てて初めて、迷宮は強固な『家』として世界に登録されるのだ」
俺は隣に座るセレナを見た。
彼女は両手を膝の上で重ね、静かに俺を見つめ返している。
彼女が神殿の道具ではなく、一人の人間として生きていくための場所。
俺がただの(仮)マスターから、本当の家主になるための儀式。
「わかりました。その誓い、やります」
俺が真っ直ぐに答えると、ハインリヒは満足そうに頷いた。
「よろしい。では、儀式の準備を始める。……リース君、そこにある祭壇用の布を用意してくれ」
「は、はいっ! ただちに!」
なぜかリースが一番緊張した面持ちで、部屋の隅から白い布を運んでくる。
「家主さん」
セレナが、テーブルの下でそっと俺の手を握ってきた。
彼女の指先は少しだけ冷たいが、確かな力強さがあった。
「私、もうどこにも行きませんから。……一緒に、誓ってください」
「ああ。俺たちの実家を、完成させよう」
俺が彼女の手を握り返すと、セレナの顔にふわりと柔らかな笑顔が咲いた。
それは、今までで一番優しく、温かい笑顔だった。
迷宮の空気が、儀式に向けてゆっくりと引き締まっていく。
俺は小さく深呼吸をし、これから始まる未知の契約に向けて覚悟を決めた。




