第53話「刻印再発:抱きしめ停止」
セレナが痛みに膝をついた。
考えるより先に、俺は抱きしめていた。
リースとノアが同時に叫んだ。「今の撮った!?」
ハインリヒ審査官から呆れ混じりの合格をもらい、リビングには安堵の空気が流れていた。
未登録の違法迷宮だった俺の家が、ついに正式なダンジョンとして認められる。
これで神殿も、大手を振って討伐に来ることはできなくなるはずだ。
「よし、これで一安心だな」
俺がほうじ茶をすすりながら大きく息を吐いた、その時だった。
「……あっ」
台所で夕食の準備をしていたセレナの口から、短い悲鳴が漏れた。
ガシャンッ。
彼女の手から包丁が滑り落ち、床に転がる。
セレナはその場に崩れ落ち、胸元を強く押さえて膝をついた。
「セレナ!?」
俺は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、彼女の元へと駆け寄った。
彼女の顔は蒼白になり、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。
純白のドレスの胸元、ちょうど神殿の聖女としての「刻印」が刻まれているあたりが、禍々しい赤い光を明滅させていた。
「痛い……っ。神殿が、無理やり……私を呼ばようと……」
セレナが苦しげに喘ぐ。
神殿の奴らめ。本登録の手続きが進んでいることに気づき、遠隔で呪いのような刻印を無理やり発動させているのだ。
空間が歪み、彼女の体を強引に転移させようとする魔力の渦が発生する。
冷たくて生臭い、役所と権力の匂いがする風が台所に吹き荒れた。
「行かせるかよ!」
俺は考えるより先に、床にうずくまるセレナを強く抱きしめていた。
彼女の華奢な体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。
ひんやりとした肌。甘い石鹸の香り。
小刻みに震える背中を、俺は必死にさすった。
「大丈夫だ。ここは俺の迷宮だ。誰にもお前を連れて行かせない」
俺がそう叫んだ瞬間、首から下げていたコアの欠片が青く輝き始めた。
同時に、俺の体温と「家主としての庇護」の意志が、セレナを包み込む。
シュウゥゥ……。
彼女の胸元で赤く明滅していた刻印が、ジュッと音を立てて鎮火した。
空間の歪みが消え去り、台所にいつもの温かい空気が戻ってくる。
「……家主、さん」
セレナが俺の腕の中で、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で視線が交差する。
彼女の青い瞳が揺れ、蒼白だった頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「あ……ご、ごめん! 痛がってたから、つい反射的に……!」
俺は自分が何をしたのかようやく理解し、慌てて腕を離そうとした。
だが、セレナの小さな両手が、俺のジャージの背中をギュッと掴んで離さない。
「だ、だめです。……もう少しだけ、こうしていてください。……安心、するので」
彼女は俺の胸元に顔を埋め、消え入るような声で呟いた。
ドクン、ドクンと、俺の心臓が壊れそうなほど大きく跳ねる。
近い。柔らかい。そして、果てしなく可愛い。
完全に時間が止まったかのような、二人だけの世界。
甘く濃密な空気が、台所を満たしていく。
だが、そんなラブコメ空間を切り裂くように、背後から二つの叫び声が響いた。
「ユウ殿! 今の尊い瞬間、記録の魔道具に収めたか!?」
「ばっちり配信のアーカイブに残したぜ! 同接十万人突破だァァ!」
振り返ると、ジャージ姿のリースが鼻息を荒くして立ち、ノアが水晶玉を抱えて狂喜乱舞していた。
「お前ら! いつから見てた!」
俺が顔を真っ赤にして叫ぶと、足元からモップが這い出してきた。
『本日の報告。主人公の無自覚な抱擁により、セレナ様の好感度が限界突破。床の汚れより甘酸っぱい空気をどうにかしてください。不快です』
「お前もかよ!」
俺の抗議は虚しく響き、セレナは俺の胸に顔を押し付けたまま、小さくくすくすと笑っていた。
胃痛と羞恥心で、俺のHPはまたしてもゴリゴリと削られていくのだった。




