第39話「帰宅の誓い(ほぼ告白)」
セレナが小さく息を吸った。
「帰る場所は、ここじゃないんです」
俺はその意味を、まだ理解していなかった。
「攫いに行く」発言による迷宮の増築暴走がようやく収まった、その日の夜。
ダンジョンのリビングには、オレンジ色の温かい魔力灯の光が満ちていた。
ノアは配信の編集作業で自分の部屋(いつの間にか防音室になっていた)に引きこもり、リースは「夜間警備の巡回だ」と言って外へ出ている。
モップも迷宮の隅の汚れを求めて姿を消した。
広いリビングには、俺とセレナの二人きりだった。
ソファに隣同士で座り、食後のほうじ茶を飲んでいる。
二人とも、昼間の出来事を引きずっているのか、どこかぎこちない沈黙が続いていた。
「……あー、お茶、美味しいな」
俺が誤魔化すように呟くと、セレナは湯呑みを持ったまま、小さく頷いた。
彼女の横顔は、まだ少しだけ赤い。
純白のドレスの裾が、俺のジャージに触れるか触れないかの距離にある。
カチャリ、とセレナが湯呑みをテーブルに置いた。
そして、彼女は俺の方へと向き直り、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「家主さん」
「お、おう。どうした?」
「今日、神殿の人たちが来た時。私、本当に怖かったんです」
彼女の声は、静かで、微かに震えていた。
青い瞳の奥に、かつての孤独な聖女の姿が垣間見える。
「私はずっと、神殿の飾り物でした。誰かのために祈り、誰かのために微笑む。それが私の『使命』だと教えられてきました。でも、どこにも私の居場所はなかった」
セレナは、自分の首にかかっている青く光るコアの欠片――この迷宮の鍵を、そっと指先でなぞった。
「ここに迷い込んで、あなたが『玄関のルール』を作ってくれて。一緒にご飯を食べて、お布団を干して。……私、初めて『自分の場所』を見つけた気がしたんです」
彼女の言葉が、じんわりと胸に染み込んでくる。
俺は何も言わず、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。
「だから、絶対に帰りたくなかった。ここが私の実家だから。でも……」
セレナは小さく息を吸い込み、ふわりと、だがどこか切なげに微笑んだ。
「今日、あなたが『攫いに行く』と言ってくれた時、私、気付いたんです」
「気付いたって、何を?」
セレナは俺の袖口を、そっと指先で摘んだ。
彼女の体温が、布越しに伝わってくる。
「帰る場所は、ここじゃないんです」
「……え?」
「この迷宮が心地よいのは、温かいご飯があるからじゃない。広いお風呂があるからでもない。……あなたが、そこにいてくれるからです」
ドクン。
心臓が、今日一番の大きな音を立てて跳ねた。
「家主さんがいる場所が、私の帰る場所なんです。だから……私をずっと、あなたの隣に置いてください」
彼女の青い瞳が、潤んで光っている。
甘い石鹸の香りと、彼女の熱を帯びた吐息が、俺の理性を激しく揺さぶる。
これは、もはや完全に。
どう好意的に解釈しても、そういう意味の言葉にしか聞こえない。
だが。
俺の「現場監督」としての悲しき防衛本能と、絶望的なまでの鈍感さが、ここで最悪の形で発動してしまった。
「なるほど……」
俺は腕を組み、深く頷いた。
「つまり、この迷宮の『ホーム指数』の根源は、建物や設備という物理的な環境ではなく、俺という『管理者』への依存度が高い属人的なシステムだったということか」
「…………は?」
セレナの顔から、一瞬で表情が抜け落ちた。
摘まれていた俺の袖口から、指がスッと離れる。
「いや、盲点だったな。俺が現場を離れたら、この迷宮のシステム自体が崩壊する可能性があるってことだ。よし、明日から属人化を解消するためのマニュアル作成と、俺のバックアップ体制の構築を……」
「………………」
空気が、凍りついた。
セレナは無言のまま立ち上がり、テーブルの上の湯呑みを片付け始めた。
その動きは、恐ろしいほどに機械的で、冷たい。
「あ、あれ? セレナ?」
「おやすみなさい、家主さん(にこ)」
彼女は振り返り、完璧な、そして絶対零度の笑顔を向けてきた。
そのままスタスタと自分の寝室へと歩き去り、バタン! とわざとらしく大きな音を立てて扉を閉めた。
『本日の報告。主人公の致命的なシステムエラー(鈍感)により、好感度が一時的にマイナスに振り切れました。控えめに言って、最悪です』
モップの呆れ果てた念話が、静まり返ったリビングに響いた。
俺はソファに取り残され、自分が一体どんな致命的なミスを犯したのか、一晩中頭を抱えて悩むことになったのだった。




