第38話「攫いに行く(言い方)」
「攫いに行く」
俺はそう言ってしまった。
セレナが耳まで真っ赤になった。「……言い方」
静まり返った玄関。
俺が放った「攫いに行く」という言葉の余韻が、石畳の空間にふわふわと漂っていた。
言ってから数秒後。
俺の頭の中で、急速に理性が仕事に復帰し始めた。
攫いに行く。
ただの無力なダンジョンマスター(仮)が、国を牛耳る巨大組織である神殿を相手に、一人で乗り込んで聖女を強奪すると口にしたのだ。
現場の作業工程表に組み込めば、間違いなく「死亡事故確定」で労働基準監督署から営業停止を食らうレベルの無謀な計画である。
「……あ、いや、今の言葉はだな。その、勢いというか……」
俺が慌てて取り繕おうとすると、セレナの様子がおかしいことに気がついた。
彼女は少し俯いたまま、ピタリと動きを止めている。
光を失っていたはずの青い瞳が、パチパチと瞬きを繰り返していた。
そして。
純白のドレスの首元から、耳の先にかけて。
信じられないほどのスピードで、みるみるうちに朱色に染まっていったのだ。
「セ、セレナ……?」
「…………言い方」
彼女の口から、蚊の鳴くような、細く震える声が漏れた。
「え?」
「攫いに行く、って……。それじゃあまるで、悪の魔王か、それとも……駆け落ちするみたいじゃないですか……」
セレナは両手で真っ赤になった顔を覆い隠し、その場にしゃがみ込んでしまった。
指の隙間から見える肌までが、ゆでダコのように赤い。
いつもの「笑顔」で相手を屈服させる最強の聖女の面影は、どこにもなかった。
「あ、ごめん。なんか変な言い回しになっちまった。俺が言いたかったのは、つまり、お前を守るってことで……」
「わかってます! わかってますけど……! 心臓が、すごくうるさいんです……!」
セレナは顔を覆ったまま、フルフルと首を横に振っている。
甘い石鹸の香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
彼女の反応があまりにも可愛すぎて、俺の顔まで一気に熱を持った。
なんだこの空間。さっきまでの殺伐とした空気はどこに行ったんだ。
「おほん」
突然、背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。
振り返ると、ジャージ姿のリースが、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
彼女の目は、完全に「見てはいけないものを見てしまった」という哀れみと、ほんの少しの呆れに満ちている。
「ユウ殿。お前のその熱い言葉、迷宮中に響き渡っていたぞ」
「なっ……!?」
「ちなみに、食堂で休憩していたオークどもは『マスターが聖女様を略奪婚するらしい!』と歓喜の雄叫びを上げていたし、ノアは『最高の切り抜き動画ができた!』と水晶玉を抱えて泣いていた」
終わった。
俺の社会的な体面と、ささやかな平穏が完全に崩壊した瞬間だった。
「リースの馬鹿! なんで止めてくれなかったんだよ!」
「止められるわけがないだろう。お前があまりにも男らしい顔で、ロマンチックな台詞を吐くから、私もつい聞き惚れてしまったのだ。……記録の魔道具で録音しておけばよかったと後悔している」
規律オタクの騎士が、なぜか少しだけ頬を染めながらサムズアップしてくる。
どうやら彼女の中の「乙女回路」にも、俺の言葉はクリティカルヒットしてしまったらしい。
『本日の報告。主人公による強引なプロポーズ(未遂)を検知。ホーム指数が計測不能なレベルで暴走中です』
足元のモップが、プルプルと震えながら容赦ない念話を叩き込んでくる。
ゴゴゴゴゴッ!!!
俺の宣言を祝福するかのように、迷宮全体が凄まじい地鳴りを上げた。
壁が動き、天井が高くなり、新しい部屋が次々と生えていく気配がする。
もはや実家どころか、豪邸を通り越して城郭にでもなりそうな勢いだ。
「違う! プロポーズじゃない! 家族を守るって意味で……!」
俺が必死に弁解しようとするが、顔を真っ赤にしたセレナは立ち上がり、俺の胸元にポスッと額を押し当ててきた。
「……待ってます」
「え?」
「神殿に連れ戻されそうになったら、絶対に、攫いに来てくださいね」
上目遣いで放たれたその言葉の破壊力に、俺のHPは一瞬でゼロになった。
俺は自分が吐いた言葉の重さと、恋愛という名の底なし沼の恐ろしさを、全身で味わうことになったのだった。




