第37話「婚約儀式を仕掛けられる」
儀式用の指輪が運び込まれた。
セレナの目が死んだ。
俺は初めて、本気で怒った。
神殿による悪質なビラ撒きと、それに抗うセレナの「直筆の反論」配信から数日が過ぎた。
世論は真っ二つに割れていた。
神殿の権威を信じる者たちと、迷宮の温かい日常を配信で見てしまった者たち。
だが、神殿の上層部にとっては、世論などどうでもよかったらしい。
彼らはついに、なりふり構わぬ実力行使に打って出たのだ。
その日の午後。
迷宮の玄関に、突如として眩い光の陣が浮かび上がった。
転移魔法だ。
光の中から現れたのは、重武装の神殿騎士たちに囲まれた、数人の高位神官。
そして彼らの手には、白銀の盆に載せられた豪奢な指輪と、禍々しい魔力を放つ誓約書が握られていた。
「聖女セレナ様。神の意志により、これよりこの場にて『聖婚の儀』を執り行います」
先頭に立った神官が、冷酷な声で宣言した。
迷宮の玄関という他人の家の中で、勝手に儀式を始めようとしている。
「……は?」
俺が間の抜けた声を出すより早く、神官たちは素早い動きで玄関の敷石に魔法陣を描き始めた。
周囲の空気が急速に重くなり、息をするのも苦しくなるような圧迫感が空間を支配する。
「お前ら、勝手に人の家で何を……!」
俺が止めに入ろうとすると、屈強な騎士二人がかりで槍を突きつけられ、行く手を阻まれた。
「退がれ、下賎の者。これは神聖なる儀式だ。これより聖女様は、指輪の力によって強制的に神殿の管理下へと還る」
神官の言葉に、俺は背筋が凍りついた。
指輪に仕込まれた強制転移と、契約の魔法。
対象者の意思に関係なく、強制的に神殿へと連れ去り、自由を奪うための呪いのような代物だ。
奥の台所から、エプロン姿のセレナが異変に気づいて歩み出てきた。
「なんの騒ぎですか……」
彼女の青い瞳が、白銀の盆に載せられた指輪と、床に描かれた魔法陣を捉える。
その瞬間。
セレナの顔から、いつものふんわりとした笑顔が完全に消え失せた。
「……また、それですか」
低く、ひび割れたような声。
透明感のある瞳は、一切の光を失い、真っ暗な泥のように濁っていた。
「聖女様。さあ、こちらへ。神の御許へお戻りください」
神官が指輪を高く掲げる。
指輪から放たれる青白い光が、セレナの体を縛るように見えない糸を伸ばしていくのが見えた。
彼女の肩が、微かに震えている。
「使命……聖婚……。私は……道具じゃない……」
セレナがポツリと漏らした言葉。
それは、彼女が心の奥底に隠していた、神殿に対する深い絶望と拒絶だった。
彼女は今、完全に「地雷」を踏み抜かれていた。
自分の意志を無視され、役割だけを押し付けられる恐怖。
帰る場所を奪われる絶望。
彼女の震える肩を見た瞬間。
俺の胸の奥で、何かがプツンと音を立てて切れた。
今まで、胃を痛めながらも平和的解決を望んでいた現場監督の理性が、完全に吹き飛んだのだ。
「……ふざけんな」
俺の低い声が、静まり返った玄関に響いた。
「え?」
神官が間抜けな顔でこちらを振り向く。
「人の家に土足で上がり込んで、うちの住人に嫌がらせしてんじゃねえよ!!」
俺は突きつけられていた槍の柄を素手で掴み、強引に払い除けた。
手のひらの皮が破れ、血が滲むが、痛みなど全く感じない。
そのまま魔法陣の真ん中へと踏み込み、白銀の盆を蹴り飛ばした。
ガシャァァン!!
豪奢な指輪が、甲高い音を立てて玄関の隅へと転がっていく。
「き、貴様! 神聖な儀式になんということを!」
「儀式だか何だか知らねえが、ここは俺の家だ! うちの敷居を跨ぎたいなら、まず靴を脱げ! そして出直してこい!」
俺の怒声に、神官も騎士たちも完全に気圧され、後ずさった。
ただの(仮)マスターであるはずの俺から、なぜか得体の知れない圧力が放たれていたらしい。
『家主様の怒りに呼応し、迷宮の防衛システムを起動します。不法侵入者を排除します』
足元からモップの冷酷な念話が響いた瞬間。
玄関の床が波打つように動き、神官と騎士たちを強制的に入り口の外へと押し流した。
バタンッ!!
重い扉が、彼らを拒絶するように勢いよく閉まる。
静寂が戻った玄関。
俺は肩で息をしながら、立ち尽くすセレナの方を振り返った。
彼女はまだ、光を失った目で俺を見つめている。
神殿への恐怖が、まだ彼女の心を縛り付けているのだ。
「セレナ」
俺は彼女に歩み寄り、その震える両肩を強く掴んだ。
「もうあんな奴らの言いなりにはさせない。もし神殿が無理やりお前を連れ戻そうとするなら……」
俺は、絶対に言ってはいけない、現場監督としてはあるまじき無計画な言葉を口にしてしまった。
「俺が神殿ごとぶっ壊して、お前を攫いに行くから」
俺の言葉が、冷たい地下の空気に力強く響き渡った。




