第34話「台所密室:二人きり」
セレナが言った。「手伝ってください」
台所の扉が閉まる。
扉の外で、リースが直立不動になった。
猫のおかげでリースの謎の不機嫌は収まったものの、迷宮の空気はどこかふわふわとしていた。
夕食の角煮が完成し、あとは味が染み込むのを待つだけという時間。
俺はリビングのソファに深く腰掛け、胃薬代わりの白湯を飲んでいた。
「家主さん」
台所から、セレナの静かな声が聞こえた。
振り返ると、彼女がエプロン姿のまま、少しだけ真剣な顔でこちらを見ている。
「どうした?」
「少し、手伝ってください」
手伝い? 料理はもう終わったはずだ。
不思議に思いながら立ち上がり、台所へと向かう。
俺が台所に入った瞬間。
バタンッ。
セレナが背後に手を伸ばし、台所のスイングドアをきっちりと閉めたのだ。
「え……?」
カチャリ、と内側から鍵をかける音まで聞こえた。
ダンジョンの台所に鍵なんてあったか? と考える間もなく、狭い空間に二人きりという状況が完成してしまった。
換気扇が回る低い音だけが、静かな台所に響いている。
甘辛い角煮の匂いと、セレナから漂う甘い花の香りが混ざり合い、空気がやけに濃密に感じられた。
「セレナ? 鍵なんかかけて、どうしたんだ」
俺が少しだけ後ずさると、彼女はゆっくりと距離を詰めてきた。
純白のドレスの裾が床を擦る微かな音。
「家主さん」
彼女は俺の目の前で立ち止まり、ふわりと微笑んだ。
いつもの「(にこ)」という圧力のある笑顔ではない。
少しだけ頬を染め、潤んだ青い瞳で俺を見上げている。
「さっき、リースさんが怒っていましたよね」
「あ、ああ……なんか機嫌が悪かったみたいだな」
「私、少しだけ嫌だったんです」
セレナの声は小さく、微かに震えていた。
彼女が俺のジャージの袖口を、そっと指先で摘む。
「家主さんが、他の女の人を心配そうに見るのが……嫌でした」
ドクン。
心臓が警鐘のように大きく鳴った。
近い。彼女の吐息が届きそうな距離だ。
「えっと……あれは、ただの同居人としての心配で……」
俺の言い訳は、彼女の柔らかな指先によって唇を塞がれて途切れた。
「わかっています。でも、実家に帰ってきたら、私だけを見ていてほしいんです」
セレナはそう言うと、俺の胸板にそっと額を押し当ててきた。
彼女の体温が、ジャージ越しにじんわりと伝わってくる。
俺の両腕はどうしていいかわからず、空中で不自然に彷徨っていた。
「……セレナ」
俺が彼女の背中に手を回そうとした、その時だった。
ドンッ!!
背後のドアから、鈍い衝撃音が響いた。
「な、なんだ!?」
俺が驚いて振り返ると、ドアの向こうからかすかな息遣いが聞こえてくる。
『……密室……二人きり……いったい何を……』
リースの声だった。
どうやら、閉ざされた扉の外で、彼女が直立不動のまま聞き耳を立てているらしい。
そして、動揺のあまりドアに頭をぶつけたのだ。
「おい、リース! お前そこで何してるんだ!」
俺が叫ぶと、ドアの向こうでガチャガチャと金属音が鳴った。
『な、何もしていない! 私はただ、壁の強度を調査していただけだ! 決して、中が気になって張り付いていたわけではない!』
声が裏返っている。
完全に動揺している証拠だ。
俺が頭を抱えようとすると、胸元に顔を埋めていたセレナが、小さくくすくすと笑い始めた。
「ふふっ……邪魔が入っちゃいましたね」
彼女は名残惜しそうに身を離し、内鍵を開けた。
「でも、私の気持ちは伝わりましたよね?」
セレナが上目遣いで微笑む。
その圧倒的な可愛さに、俺の顔は耳の先まで沸騰していた。
嫉妬と密室のハプニング。
俺の胃痛の原因は、恐怖から別のものへと完全に移行しつつあった。




