第33話「リース、嫉妬(自覚なし)」
セレナとユウが台所で笑っていた。
リースはなぜか胸がザワついた。
そこへ猫が来た。「にゃ」――リースが溶けた。
昼下がりの迷宮は、観光客のピークも過ぎて少し落ち着いた空気が流れていた。
俺は受付カウンターの業務をノアに任せ、台所でセレナの手伝いをしていた。
夕食の仕込みだ。今日のメニューは、商店街(迷宮内)で特売だった豚肉を使った角煮である。
「家主さん、お醤油をもう少し足してもらえますか?」
エプロン姿のセレナが、鍋をかき混ぜながらふわりと微笑む。
湯気と一緒に、甘辛い醤油と砂糖の匂いが鼻腔をくすぐった。
「おう、わかった。これくらいか?」
「はい、完璧です。ふふっ、なんだか本当に夫婦みたいですね」
セレナが小さな声で呟き、鍋の陰で少しだけ頬を染めた。
その無自覚な破壊力に、俺の心臓がドキンと跳ねる。
「ばっ、お前な……そういうこと急に言うなよ」
俺が慌てて視線を逸らすと、セレナは楽しそうにくすくすと笑った。
平和だ。ここは違法迷宮のはずなのに、ただの幸せな家庭の台所になってしまっている。
その時だった。
台所の入り口に、腕を組んで仁王立ちしている人影があった。
ジャージ姿のリースだ。
彼女はなぜか眉間に深いシワを寄せ、じっと俺たちを睨みつけていた。
「どうした、リース。お腹すいたのか?」
俺が声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らし、さらに険しい顔になった。
「空いてなどいない! 私はただ、警備主任として迷宮内の安全確認を見回っていただけだ!」
リースは早口でまくしたて、ドスドスと重い足取りで台所に入ってきた。
そして、俺とセレナの間を無理やり割って入り、鍋の中を覗き込む。
「……豚肉か。栄養価は高いが、脂質が多い。兵站としては保存の利く干し肉の方が……」
ブツブツと文句を言いながらも、彼女の青い瞳はどこか落ち着きがない。
俺とセレナの顔を交互に見比べ、そしてまた視線を逸らす。
「リースさん、味見してみますか?」
セレナが小皿に角煮の汁を少しだけすくい、ふーふーと冷ましてから差し出した。
「い、いらん! 私は任務中だ!」
リースは顔を真っ赤にして小皿を押し返した。
いつもなら喜んで味見(という名の買い食い)をする彼女が、今日は明らかにおかしい。
「おい、本当にどうしたんだよ。熱でもあるのか?」
俺が心配して手を伸ばそうとすると、リースはパチンと俺の手を弾いた。
「触るな! 私は……私はただ、お前たちが二人だけで楽しそうにしているのが、なぜか無性に腹立たしいだけだ!」
彼女の言葉に、俺は目を丸くした。
「は? なんで腹が立つんだよ」
「わからん! 私にも自分の感情が理解できん! 胸の奥がザワザワして、無性に剣を振りたい気分になるのだ!」
リースは頭を抱え、台所の隅でしゃがみ込んでしまった。
規律オタクの彼女にとって、言語化できない感情は恐怖に近いのだろう。
『本日の報告。リース様に嫉妬の兆候を検知。ただし本人は無自覚。面倒くさいですね』
足元からモップの容赦ない念話が響く。
嫉妬。その言葉に、俺の胃がキリッと痛んだ。
セレナは何も言わず、ただ静かに微笑んだまま鍋をかき混ぜている。
その笑顔の奥に、少しだけ冷たい圧が混じっているのを俺は見逃さなかった。
女性陣の間の見えない火花。現場監督の俺でも、この人間関係の修復工事は難易度が高すぎる。
その時だった。
「にゃーん」
廊下の奥にある猫部屋から、一匹の茶トラの子猫がトコトコと歩いてきた。
子猫は台所に入ると、しゃがみ込んでいるリースの足元にすり寄った。
「あっ……」
リースの青い瞳から、険しい光が完全に消え去った。
「にゃ」
子猫が小さく鳴き、リースのジャージの裾に前足をかける。
「……にゃ」
厳格な騎士の顔が、一瞬にしてだらしなく崩れ落ちた。
「かわいい……かわいいぞ……」
リースはさっきまでのイライラを完全に忘れ、子猫を抱き上げて頬ずりを始めた。
俺は深い深いため息をつき、再び角煮の鍋に向き直った。
この迷宮の平穏は、今日も猫によって辛うじて保たれたのだった。




