第32話「監査官(説教狂)襲来」
監査官は玄関で説教を始めた。
靴を脱ぐ前に説教を始めた。
セレナの笑顔が、少しだけ消えた。
セレナの書いた舐め腐った返信が神殿に届いた翌日。
迷宮の玄関に、かつてないほどの怒気を孕んだ足音が響いた。
「開けなさい! 神殿異端審問会、特務監査官である!」
バンバン! と木製の扉が壊れんばかりに叩かれる。
俺は胃薬を水なしで飲み込み、重い足取りで玄関へと向かった。
扉を開けると、そこには筋骨隆々の中年男が立っていた。
神官服というよりは鎧に近い法衣を着込み、手には分厚い教典のような本を握っている。
顔には深いシワが刻まれ、その目は怒りで血走っていた。
「貴様が悪しき迷宮の主か! 聖女様をたぶらかし、我が神殿を愚弄するとは万死に値する!」
男は玄関の上がり框の手前で立ち止まり、分厚い教典をバン! と叩いた。
「聞け! そもそも迷宮とは、神が人類に与えし試練の場! それを私物化し、あろうことか商店街などという俗悪な空間を形成するなど、神への冒涜である!」
男の説教が始まった。
彼は靴を脱ごうともせず、土足のまま上がり框のギリギリに立ち、唾を飛ばしながら延々と語り続ける。
「聖女様は神の使い! その純潔なる魂を、このようなカビ臭い地下で穢すことなど、歴史が許さぬ! 貴様らは即刻この空間を解体し、悔い改めるべきである!」
長い。声が大きい。そして、理屈っぽい。
俺は現場監督時代に遭遇した、一番タチの悪いクレーマーのおっさんを思い出していた。
「あの、監査官殿。お話はわかりますが、とりあえず……」
俺が口を挟もうとすると、男は「黙れ!」と一喝した。
「私の言葉は神の言葉である! 貴様のような下賎の者に口を挟む権利はない!」
その時だった。
奥のリビングから、エプロン姿のセレナが静かに歩み出てきた。
手には、掃除用のほうきを握っている。
「おお! 聖女様! このようなむさ苦しい姿に成り果てて……今すぐ私がお救いいたします!」
男が感動したように両手を広げた。
だが、セレナは無言のまま、監査官の足元をじっと見つめていた。
「聖女様……?」
「うるさいです」
低く、冷たい声。
いつもの柔らかな「(にこ)」という笑顔は、そこにはなかった。
青い瞳は絶対零度に冷え切り、見えない圧力が玄関の空間をミシミシと軋ませている。
「え……?」
「玄関で大声を出すのは、近所迷惑です。それに、靴を脱ぐ前に説教を始めるなんて、礼儀がなっていません」
セレナはほうきの柄を、トン、と石畳に突いた。
「ここは私の帰る場所です。私の実家で、私の家族に向かって、勝手な理屈を押し付けないでください」
怒りというよりは、静かな拒絶だった。
その瞬間、迷宮全体が震えた。
だが、いつもの増築を知らせる歓喜の震えではない。
空気が急速に冷え込み、壁の木材が悲鳴のような音を立てたのだ。
《ホーム指数が急激に低下しています》
《警告:空間の維持に支障をきたす恐れがあります》
システムウィンドウが赤く点滅する。
この迷宮は、セレナの安心感と生活感で成り立っている。
彼女が不快に感じ、空気が悪くなれば、迷宮そのものが崩壊の危機に陥るのだ。
「せ、聖女様……? なぜそのような恐ろしい顔を……」
監査官が怯んだように後ずさる。
『不潔な説教は、空気の汚れです。排除します(丁寧に)』
足元から現れたモップが、監査官の革靴にべちゃりと張り付き、そのまま彼を玄関の外へとものすごい勢いで滑らせて押し出した。
バタンッ!!
扉が閉まり、静寂が戻る。
「……ごめんなさい、家主さん。少し、怒ってしまいました」
セレナが小さく息を吐き、いつものふんわりとした笑顔に戻る。
それに合わせて、赤く点滅していたシステムウィンドウも消え、迷宮の空気も温かさを取り戻した。
俺は冷や汗を拭いながら、彼女の怒りのスイッチが「神殿の理屈」ではなく「実家の平和を乱すこと」にあるのだと、改めて痛感していた。




