第28話「実家ルールで撃退」
婚約者(自称)が言った。「迎えに来た」
セレナが言った。「靴下、替えあります?」
なぜか彼は客間に案内された。
「私は君を迎えに来たのだ! さあ、私の手を取って……!」
アルベルトは芝居がかった身振りのまま、上がり框の手前で粘っていた。
彼の革靴は、かろうじて床板には触れていない。
対するセレナは、エプロン姿のまま腕を組み、アルベルトの足元をじっと見つめていた。
「迎えに来たと言いますが、アルベルトさん」
「あ、ああ! なんだい?」
「靴下、替えあります?」
「……は?」
アルベルトの顔に、純粋な疑問符が浮かんだ。
愛の告白と救出劇の真っ最中に、突然飛び出した「靴下」という単語。
彼の高貴な脳みそは、その状況を処理しきれずにフリーズしている。
「今日は外、雨が降っていましたよね。革靴の隙間から水が染みて、靴下が濡れているはずです。そんな足で実家に上がられると、床が汚れます」
セレナの指摘は、暮らしている者の目線そのものだった。
「なっ……! 濡れてなどいない! これは最高級の魔獣の革で作られた……」
「濡れてます(にこ)」
有無を言わさぬ笑顔。
アルベルトは押し黙り、恐る恐る自分の足元に視線を落とした。
確かに、来る途中の水たまりを踏んだせいで、革靴の端が少しだけ濡れて変色している。
「靴を脱いで、そこのスリッパに履き替えてください。濡れた靴下は脱いで、洗濯カゴへ」
「わ、私が靴下を脱ぐ……?」
「はい。それから、手を洗ってうがいをしてください。洗面所は廊下の突き当たりです」
セレナの指示は、完全に「外遊びから帰ってきた近所の子供」へのそれだった。
アルベルトは混乱の極みに達していた。
剣を抜いて戦うわけでもなく、魔法で撃退されるわけでもない。
ただひたすらに「生活のルール」を押し付けられている。
彼は抗えなかった。
圧倒的な聖女のオーラと、実家という空間が持つ奇妙な安心感に呑み込まれたのだ。
コロン。
高級な革靴が脱ぎ捨てられ、アルベルトは大人しく用意されたスリッパをつっかけた。
「あの、靴下は……」
「洗濯カゴへ。あ、ついでにお茶が入っているので、客間で待っていてください」
セレナが手際よくお盆にほうじ茶とかりんとうを乗せ、彼に持たせる。
アルベルトはお盆を両手で受け取り、フラフラとした足取りで、言われた通り客間へと向かっていった。
「……いいのか、あんな扱いして」
俺が受付カウンターから顔を出すと、セレナは小さく息を吐いた。
「はい。ああいうタイプは、ペースを乱されると弱いんです。それに……」
彼女は少しだけ視線を逸らし、頬を微かに染めた。
「私の帰る場所は、ここですから。他の誰かに迎えに来られても、困ります」
その言葉に、俺の胸がドクンと大きく跳ねた。
彼女から漂う甘い匂いが、俺の思考を狂わせていく。
『本日の報告。厄介な親戚の押し掛けを検知。客間にて鎮圧完了。なお、主人の顔が赤いです。記録します』
足元から、モップの容赦ない念話が響いた。
「うるさい! 俺は赤くなってない!」
俺が叫ぶと、奥の客間から「ほうじ茶……美味い……」というアルベルトの消え入るような声が聞こえてきた。
結局、彼は自称婚約者からただの「お泊まりの厄介な親戚」にランクダウンし、この迷宮の居心地の良さに完全に毒気を抜かれてしまうのだった。




