第27話「婚約者(自称)が来る」
玄関で爽やかな男が名乗った。
「セレナの婚約者だ」
セレナが即答した。「違います」
神殿の使者を「門限」で追い返した数日後。
俺の未登録迷宮は、相変わらず観光客と迷宮コンシェルジュ(元魔物たち)で賑わっていた。
俺は受付カウンターの奥で、迷宮の収支計算(主に観光客からの差し入れの賞味期限管理)に追われていた。
「いらっしゃいませー! お客様、お足元にお気をつけくださいッス!」
法被を着たゴブリンが、元気な声で客を案内している。
すっかり平和な日常風景だ。
しかし、その平穏は一人の訪問者によって唐突に破られた。
カツン、カツン。
硬い革靴の足音が、玄関の石畳に響く。
現れたのは、観光客の列を割って進み出てきた、一人の若い男だった。
プラチナブロンドの髪を美しく整え、仕立ての良い青い軍服のような衣装を身にまとっている。
腰には宝石で飾られた細身の剣。
まるで、絵本の中から飛び出してきたような「完璧な王子様」だった。
周囲の女性客たちが「きゃっ」と黄色い声を上げる。
男は上がり框の前に立ち、芝居がかった手つきで前髪をかき上げた。
「待たせたね、愛しのセレナ。君をこんな薄暗い地下の底から救い出しに来た」
その声は甘く、よく通った。
俺の胃が、キリキリと音を立てて痛み始める。
数日前の「聖婚」の話の続きか。
奥の台所から、エプロン姿のセレナが出てきた。
彼女の姿を認めるやいなや、男はさらに顔を綻ばせた。
「おお、私の聖女よ! なぜそのようなみすぼらしい布をまとっているのだ? 私は神殿より君との婚約を認められた、アルベルト・フォン・……」
男が名乗りを終える前に。
「違います」
セレナの声が、冷たい地下の空気を一刀両断にした。
迷宮全体が、一瞬だけシンと静まり返る。
「……え?」
男の笑顔が、顔に張り付いたまま硬直した。
「違います。婚約なんかしていません。人違いではないですか?」
セレナは表情をピクリとも変えず、淡々と事実だけを述べる。
その声には、怒りも焦りもない。ただの興味の欠片もなかった。
「な、何を言っているんだセレナ! 私は神殿の筆頭騎士団長の息子で、君に相応しい相手として選ばれた……!」
「そうですか。ご苦労様です」
セレナはぺこりと頭を下げ、そのまま踵を返して台所に戻ろうとした。
「ま、待て! なぜ私を無視する! 私は君を迎えに来たのだぞ!」
男――アルベルトが焦って上がり框を越えようとした、その時だ。
「泥靴で上がらないでください(にこ)」
振り返ったセレナの顔には、完璧な笑顔が貼り付いていた。
だが、その瞳には一切の光がない。
絶対零度の圧力が、男の足を空中でピタリと止めさせた。
「玄関は家の顔です。靴を脱いで、揃えてから上がってください」
「く、靴を脱ぐ……? 私が、こんな泥にまみれた迷宮の入口で……?」
アルベルトは震える声で呟いた。
彼のプライドが、セレナの「実家ルール」という理不尽な壁の前で崩れ去ろうとしていた。
俺は受付カウンターの奥で、胃薬を探しながら深い深いため息をついた。
厄介な圧が、また一つ増えてしまったらしい。




