第20話「刺客が来たのに家族会議」
闇から現れた刺客が、短剣を抜いた。
その前にセレナが言う。「ごはん、食べました?」
刺客の手が止まった。俺の胃も止まった。
夜も更け、ダンジョンの食堂には静かな時間が流れていた。
テーブルには、夕食の肉じゃがの残りが入った鍋が置かれている。
俺とセレナ、リース、そしてノアの四人は、お茶を飲みながら他愛のない『家族会議』を開いていた。
議題は「明日の朝ごはんは和食か洋食か」という、至極平和なものだ。
「私はパンが良い。この迷宮の台所で焼かれるパンは、神殿の供物より美味いからな」
リースが真剣な顔で主張する。
「俺は絶対ご飯派! セレナさんの焼く鮭の塩焼きが最強なんだよ!」
ノアが机を叩いて熱弁を振るう。
俺は胃薬代わりの白湯をすすりながら、二人の言い争いをぼんやりと眺めていた。
迷宮の主である俺が、明日の朝食のメニューで悩んでいる。
なんだか平和すぎて、逆に不安になってくる。
その時だった。
食堂の隅、少し暗がりになっている部分の空気が、不自然に揺らいだ。
何の音もなく、黒い装束に身を包んだ人影が音もなく浮かび上がる。
手には、毒が塗られているであろう禍々しい短剣が握られていた。
神殿が放った、本物の暗殺者だ。
「聖女の命、もらう……!」
刺客が低い声で呟き、短剣を振り上げた。
俺は息を呑み、立ち上がろうとした。
リースも反応し、ジャージ姿のまま腰の見えない剣を探して空振りしている。
だが、誰よりも早く動いたのはセレナだった。
彼女は椅子から立ち上がることなく、刺客に向かってふわりと微笑んだ。
そして、まるで近所の子供に声をかけるような、優しい口調で言ったのだ。
「こんばんは。ごはん、食べました?」
刺客の手が、空中でピタリと止まった。
「……え?」
「お仕事、遅くまでお疲れ様です。お腹、すいてませんか? 肉じゃがの残りでよければ、温めますよ」
セレナの言葉は、完璧な慈愛と生活感に満ちていた。
刺客の殺気は、その一言で完全に霧散してしまった。
黒装束の男は、震える手で短剣を下ろし、テーブルの上の鍋をじっと見つめた。
ギュルルルルル。
静かな食堂に、男の腹の虫が盛大に鳴り響いた。
「あっ……」
刺客の顔が、黒い布越しにも真っ赤に染まっているのが分かった。
彼は三日三晩、飲まず食わずでこの迷宮に潜入し、機会を窺っていたのだ。
極限の飢餓状態にあった彼の鼻腔を、甘辛い肉じゃがの匂いが直撃した。
「ほら、やっぱり。無理はいけませんよ」
セレナは立ち上がり、手際よく小鉢に肉じゃがを取り分け、湯気を立てるご飯と共に刺客の前に差し出した。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。靴は脱がなくていいですから、そこに座って」
有無を言わさぬ笑顔の圧力。
刺客はフラフラと椅子に吸い寄せられ、震える手で箸を受け取った。
パクッ。
男が肉じゃがを一口食べた瞬間、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……う、うまい……。かあちゃんの、味がする……」
「よかったです。おかわり、たくさんありますよ」
セレナが優しく微笑む。
暗殺者は完全に崩れ落ち、声を上げて泣きながら肉じゃがをかき込み始めた。
リースは毒気を抜かれたように座り直し、ノアはこっそりと配信の準備を始めている。
俺は再び胃を押さえた。
神殿の刺客すら、一杯の肉じゃがで『帰宅者』にしてしまう聖女の実家力。
俺の迷宮は、もう完全に別の何かへと進化してしまっていた。




