第10話「実家、確定」
セレナが玄関に靴を揃えた。
「帰省、完了です」
その背後で、監査官の札がひらりと落ちた。
ダンジョンの朝は早い。
地下空間でありながら、なぜか朝になると爽やかな光が差し込み、小鳥のさえずりのような幻聴まで聞こえてくる。
すべては、ホーム指数がもたらした『実家バグ』の産物だ。
俺は真新しい布団から這い出し、顔を洗うために洗面所へ向かった。
当然のように洗面所も生えている。
鏡の前に立つと、目の下にうっすらとクマができていた。
原因は明白だ。増築による胃痛と、いつ神殿が本気で攻めてくるかわからないというプレッシャー。
リビングに出ると、すでにセレナが活動を始めていた。
彼女はほうきを持ち、木の床を丁寧に掃いている。
純白のドレスは相変わらずだが、その上に割烹着のようなものを羽織っていた。
「おはようございます、家主さん」
「……おはよう。朝から掃除か」
「はい。実家は綺麗にしておかないと、福が逃げてしまいますから」
彼女はふわりと微笑み、俺の足元にあるホコリをササッと掃き取った。
聖女が床掃除をしている姿など、神殿の人間が見たら卒倒するに違いない。
だが、もっと信じられない光景がそこにあった。
「ユウ殿、遅いぞ。朝の鍛錬はとうに終わった」
洗面所から出てきたのは、リースだった。
彼女はジャージ姿のまま、首にタオルを巻き、片手にはなぜか雑巾を握っている。
「お前……まさか雑巾がけしたのか?」
「勘違いするな。これは身体強化の訓練の一環だ。床の摩擦係数を利用して、体幹を鍛えているにすぎない」
リースは顔を真っ赤にして早口で言い訳をする。
規律オタクの彼女にとって、セレナが掃除をしているのに自分だけ何もしないという状況が耐えられなかったのだろう。
俺はため息をつき、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「なあ、二人とも。ここは一応、未登録とはいえダンジョンだ。迷宮なんだぞ」
俺の言葉に、二人は同時に動きを止めた。
「魔物も罠もないし、毎日鍋や焼き魚の匂いが充満してるけど、本来は冒険者が命を懸けて挑む場所だ。それを……」
「家主さん」
セレナがほうきを壁に立てかけ、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
その青い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
透明感のある笑顔の奥に、得体の知れない圧力が宿っていた。
「ここは、私の帰る場所です」
「いや、だから神殿に……」
「神殿は職場です。ここは実家です(にこ)」
有無を言わさぬ笑顔。
背筋に冷たい汗が流れる。
この笑顔に逆らえば、間違いなく恐ろしい増築が暴発する。
セレナはそのまま玄関へと向かった。
上がり框の前に立ち、自分が脱いだ可愛らしいパンプスを、つま先を外に向けて綺麗に揃える。
「帰省、完了です」
彼女は満足げにうなずき、パンと両手を合わせた。
その瞬間、ダンジョン全体が歓喜するように微かに震え、温かい空気が空間を満たした。
システムウィンドウが《ホーム指数が定着しました》と告げる。
完全に、ここが彼女の実家として世界に認定された瞬間だった。
「……終わった」
俺がテーブルに突っ伏そうとした、その時だ。
ひらり。
玄関の扉の隙間から、一枚の木札が滑り込んできた。
それは石の床に落ち、カランと乾いた音を立てる。
リースが素早く反応し、雑巾を放り投げて木札を拾い上げた。
「これは……!」
リースの顔色が、サッと青ざめる。
「どうした?」
「ギルドの監査札だ。しかも、緊急査察の印が押されている」
俺は胃のあたりを強く押さえた。
神殿の次は、冒険者ギルドか。
未登録の迷宮を管理するお役所が、ついに本格的な調査に乗り出してきたらしい。
「……来客ですね。お茶を淹れます」
セレナが嬉しそうに台所へ向かう。
俺は天井を仰ぎ見た。
この実家に、また厄介な親戚がやってくる。




