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乖離  作者: 霜月希侑
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9/12

退院


冬が終わり、病棟の窓から見える木々には、小さな芽が顔を出し始めていた。


気づけば、入院して一か月半が過ぎていた。


毎朝泣いていた私は、いつの間にか朝日を見て「今日はいい天気だな」と思える日が増えていた。


もちろん、元気になったわけじゃない。


夜になると涙が出る日もある。


何もしたくない日もある。


それでも、以前のように「消えたい」という気持ちだけに支配されることは少なくなっていた。




ある日の診察。


太田医師はカルテを閉じると、穏やかな表情で私を見た。


「桜木さん」


「はい」


「そろそろ退院について考えてみませんか」


その言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。


退院。


入院したばかりの頃は、一日でも早くここを出たいと思っていた。


でも今は違う。


「……怖いです」


自然と言葉がこぼれた。


「何が怖いですか?」


「外がです」


私は少し笑った。


「病院の中は安心できるんです。でも、外へ出たら、また元の私に戻ってしまいそうで…」


また泣く毎日が始まる気がした。


また仕事へ行けなくなる気がした。


また、自分を責め続ける気がした。


太田医師は静かに頷いた。


「その不安は、とても自然なことですよ」


そして続けた。


「退院は『治った』という意味ではありません」


私は顔を上げた。


「退院には、『ここで身につけたことを、少しずつ外で試してみる』という意味があります」


その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。


治らなければ退院できない。


私はそう思い込んでいた。




数日後。


退院日が決まった。


病棟の看護師たちが笑顔で


「もうそんな時期なんですね」


と声をかけてくれる。


嬉しい。


でも寂しい。


ここには、中村さんがいる。


作業療法で知り合った患者さんたちがいる。


毎日「おはよう」と言い合える人がいる。


病院の外へ出れば、その日常は終わってしまう。




退院前日。


私は中庭のベンチに座っていた。


あの日、雨の日が好きだと言っていた男性患者が隣へやって来た。


「明日なんだって?」


「はい」


「そうか」


男性は少し笑った。


「卒業だね」


私は首を横に振った。


「そんな立派なものじゃありません。また戻ってくるかもしれません」


男性は穏やかに空を見上げた。


「戻ってきてもいいじゃないか」


私は驚いて顔を向けた。


「ここは失敗した人が来る場所じゃない。疲れた人が休みに来る場所だ」


その言葉は、私の心に静かに染み込んでいった。


「桜木さん」


「はい」


「無理して一人で歩こうとしなくていい。人は誰かを支え、誰かに支えてもらいながら生きるものだから」


私は何度も頷いた。


涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。




夜。


荷物を少しずつまとめ始める。


持ってきた着替え。


読みかけの本。


薬。


そして、中村さんからもらった小さなメモ帳。


最後のページまで、毎日「良かったこと」が書かれていた。


『折り鶴が完成した。』


『今日は泣かなかった。』


『ビンゴ大会で笑えた。』


『朝ご飯を全部食べられた。』


『患者さんと話せた。』


どれも誰かから見れば、取るに足らない出来事なのかもしれない。


でも、あの頃の私には、一つ一つが生きる理由だった。


メモ帳を閉じると、病室のドアが静かにノックされた。


「失礼します」


中村由香さんだった。


「眠れそうですか?」


「たぶん……」


「少しお話ししませんか」


中村さんは椅子に腰掛け、穏やかに笑った。


「最初の日、覚えていますか?」


私は苦笑した。


「泣いてばかりでした」


「そうですね」


「でも、泣けたから良かったんですよ。我慢し続けていたら、もっと苦しかったと思います」


しばらく沈黙が流れる。


その静けさが心地よかった。


帰りたくない。


そんな気持ちが胸の奥で少しずつ大きくなる。


その時だった。


病室の廊下を、一人の女性が通り過ぎた。


帽子を深くかぶり、マスクを着けた見知らぬ女性。


一瞬だけ、こちらを見た気がした。


その視線と同時に、頭の奥で、あの懐かしい声が響く。


「ほたる、そこに行ってみたら?」


私は反射的に立ち上がった。


「どうしました?」


中村さんの声も聞こえない。


胸がざわつく。


鼓動が速くなる。


私は病室を飛び出し、廊下へ出た。


しかし、そこには誰もいなかった。


長く続く静かな廊下だけが、白い蛍光灯に照らされていた。


私はその場に立ち尽くした。


今の声は、幻聴だったのだろうか。


それとも、本当に誰かが私を呼んだのだろうか。


その答えはまだわからない。


だが、その小さな違和感が、やがて私自身の存在を揺るがす真実へと繋がっていくことを、この時の私はまだ知らなかった。






退院して一か月が過ぎた。


病院を出れば、何かが変わると思っていた。


朝になれば笑えるようになって、

外を歩けば風が気持ちいいと思えて、

仕事にも戻れて、

少しずつ元の自分を取り戻せると思っていた。


でも、現実は違った。


私は、生きているだけだった。


毎朝目を覚ます。


歯を磨く。


顔を洗う。


薬を飲む。


それだけで一日が終わる日もあった。


外へ出ようとして玄関まで行く。


でも、ドアノブを握ると、胸が苦しくなる。


また誰かに怒られるかもしれない。


また失敗するかもしれない。


また「できない人」だと思われるかもしれない。


そう考えた瞬間、足が動かなくなる。


私は、そのまま部屋へ戻った。




部屋は少しずつ散らかっていった。


洗濯物は畳まれず、椅子の上に積み重なる。


ゴミ袋は口を縛ったまま玄関に並び、


食器はシンクの中で増え続ける。


そんな部屋を眺めながら、


私はぼんやり思った。


「私、生きてる意味あるのかな」


それは昔のように激しい絶望ではなかった。


もっと静かで、


もっと深く、


底の見えない穴のような感覚だった。




クリニックには通い続けた。


診察室で先生はいつも聞く。


「調子はどうですか?」


私は答える。


「変わりません」


「眠れていますか?」


「眠れています」


「食事は?」


「食べられています」


先生はカルテに何かを書き、


薬を少し調整する。


診察は十分ほどで終わる。


私は毎回思った。


(これで、本当に良くなるのかな。)


でも、その言葉だけは言えなかった。




診察が終わるたび、


待合室で他の患者さんを眺めていた。


泣いている人。


家族に付き添われている人。


仕事帰りらしいスーツ姿の人。


年配の女性。


学生らしい男の子。


みんな、それぞれ苦しみを抱えている。


なのに私は、


自分だけが違う気がしていた。


(私は病気なんだろうか。)


(それとも甘えているだけなんだろうか。)


その答えは、誰も教えてくれなかった。




夜になると、


私はスマホを握りしめる。


「適応障害」


「うつ病」


「精神科」


「希死念慮」


「治るまで」


何時間も検索した。


読むたびに安心し、


読むたびに不安になる。


自分に当てはまる気もする。


当てはまらない気もする。


結局、何も分からない。


スマホの画面だけが、


真っ暗な部屋を照らしていた。




ある夜、


私はふと腕の傷を見つめた。


もう傷口は閉じている。


赤い線だけが残っていた。


指でなぞる。


少しだけ盛り上がった皮膚。


あの日の痛みだけは、


まだ鮮明に思い出せた。


「また切りたい」


そう思った。


でも、


もう一人の自分が囁く。


「また同じことを繰り返すの?」


私は震える手をぎゅっと握りしめた。


何もしなかった。


ただ朝まで泣いた。




その頃からだった。


時々、


誰かの声が聞こえるようになったのは。


「ほたる」


優しい女の人の声。


振り返っても誰もいない。


「大丈夫」


耳元で囁かれた気がしても、


部屋には私しかいない。


幻聴なのだろうか。


疲れているだけなのだろうか。


でも、その声だけは不思議だった。


怖くない。


むしろ懐かしい。


どこか安心する声だった。


「ほたる」


また聞こえる。


私は何度も周りを見渡した。


誰もいない。


それなのに、


確かに聞こえた。




十二月も終わりに近づいた頃。


私は一通の年賀状を書こうとしていた。


でも、


「明けましておめでとうございます」


その一行を書いたところで、


手が止まった。


来年なんて、


本当に来るんだろうか。


私は来年も生きているんだろうか。


ペン先からインクが滲み、


小さな黒い点が紙に落ちた。


その点を見つめながら、


私は静かに笑った。


「来年なんて、いらないか」


そう呟いた瞬間、


またあの声が聞こえた。


「ほたる」


私は顔を上げた。


誰もいない。


静かな部屋。


時計の秒針だけが、


カチ、カチ、と時を刻んでいる。


でも私は確信した。


あの声は、


少しずつ私に近づいてきている。


その声の正体を知った時、


私の人生は、


もう一度大きく動き始めるのだと。

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