小さな希望
病院の朝は、驚くほど静かだった。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ます。
仕事をしていた頃のように、アラームで飛び起きることもなければ、「遅刻する」という焦りもない。
それなのに胸は重かった。
「ここは病院だ」
その事実を思い出すたび、自分が情けなくなった。
看護師だった私が、患者になっている。
それだけで、自分の人生が終わってしまったような気がした。
朝食の時間。
食堂へ向かうと、さまざまな患者さんが静かに席についていた。
独り言を繰り返している男性。
窓の外をじっと見つめ続ける女性。
新聞を何度も読み返す高齢の男性。
大声で笑っている若い女性。
以前なら、「患者さん」として見ていた人たち。
でも今日は違う。
私は、その人たちと同じ場所に座っていた。
お盆を持つ手が少し震えた。
「私はここにいていい人間なんだろうか」
その疑問が何度も浮かぶ。
私なんかより苦しんでいる人がいる。
私なんかより重い病気の人がいる。
そう思うたび、ご飯が喉を通らなくなった。
結局、数口食べただけでご飯を残してしまった。
病室へ戻る途中だった。
「おはようございます」
後ろから優しい声が聞こえた。
振り返ると、中村由香さんだった。
昨日、担当になったばかりの看護師。
「眠れましたか?」
「……少しだけ」
「それなら良かったです」
彼女はそれ以上、無理に話しかけてこなかった。
「困ったことがあれば、いつでも呼んでくださいね」
それだけ言って、笑顔で去っていく。
その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜けた。
看護師にもいろいろな人がいる。
佐藤さんのように厳しい人もいれば、中村さんのように静かに寄り添ってくれる人もいる。
たったそれだけのことなのに、私は少しだけ救われた気がした。
昼過ぎ、作業療法に参加してみませんかと誘われた。
折り紙や塗り絵、簡単なゲームをするだけの時間らしい。
「私はいいです。」
最初は断った。
こんなことをして何になるんだろう。
そう思ったからだ。
それでも中村さんは笑って言った。
「参加してもしなくても大丈夫です。でも、五分だけ見学してみませんか?」
五分だけ。
その言葉に背中を押され、私は部屋を出た。
作業療法室には十人ほどの患者さんが集まっていた。
楽しそうに笑う人。
真剣に色を塗る人。
折り紙を教え合う人。
誰も病気の話をしていなかった。
「ここ、どう折るの?」
「それ可愛いですね」
そんな何気ない会話だけが流れている。
私は部屋の隅の椅子に座り、その光景をぼんやり眺めていた。
すると、一人の高齢女性が近づいてきた。
「お姉さん、一緒に折り鶴折らない?」
突然の誘いに戸惑う。
「私、苦手で……」
「私も忘れちゃったから、一緒に思い出そう」
その言葉に思わず笑ってしまった。
入院してから初めてだった。
心から笑ったのは。
折り方を二人で思い出しながら、何度も失敗して、ようやく一羽の鶴が完成した。
「できた」
「できましたね」
それだけの出来事だった。
でも、その一羽の折り鶴は、ここ数か月で一番嬉しかった。
夕方、中村さんが病室へやって来た。
「今日は笑っていましたね」
私は少し照れくさくなった。
「そんなことないです」
「ありましたよ」
中村さんは微笑みながら、小さなメモ帳を差し出した。
「もし良かったら、今日あった良かったことを一つだけ書いてみませんか」
「一つだけ?」
「はい。一つだけで十分です」
私はしばらく考えた。
良かったことなんて何もない。
そう思った。
でも、ペンを持つと自然と文字が浮かんできた。
『折り鶴が完成した。』
たったそれだけだった。
中村さんは、その一文を見て嬉しそうに頷いた。
「素敵ですね」
「それだけですよ」
「それだけでいいんです」
「人は、苦しいときほど『できなかったこと』ばかり探してしまいます。でも、『できたこと』を一つ見つけるだけで、少しだけ景色が変わることもあるんですよ」
私は何も答えられなかった。
でも、その言葉は胸の奥に静かに残った。
夜。
病室の窓から冬の夜空を見上げる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
きっと今も、どこかで看護師たちが必死に患者さんを助けている。
私はそこにはいない。
それでも今日は、昨日より少しだけ呼吸がしやすかった。
ベッドサイドには、昼間折った一羽の鶴が置かれている。
その小さな鶴を見つめながら、私は目を閉じた。
「明日も、何か一つだけ見つけられたらいい」
そんな小さな願いを抱きながら、ゆっくりと眠りについた。
入院して一週間が過ぎた。
病院での生活にも、少しずつ慣れ始めていた。
朝起きて、朝食を食べる。
作業療法へ参加する。
昼食を食べて、午後は散歩をしたり、本を読んだりする。
夜になれば薬を飲み、眠る。
社会から切り離されたような生活。
最初は苦しかったその時間が、少しずつ私の心を休ませてくれていた。
それでも、心の奥にある罪悪感だけは消えなかった。
私は働いていない。
誰の役にも立っていない。
そんな自分には、生きている価値なんてない。
そう思ってしまう。
ある日の午後。
中庭を歩いていると、一人の男性患者がベンチに座って空を眺めていた。
七十代くらいだろうか。
白髪交じりで、優しい目をした人だった。
「今日はいい天気ですね」
私がそう声をかけると、男性は小さく笑った。
「そうだね。でも私は、晴れの日より雨の日のほうが好きなんだ」
意外だった。
「どうしてですか?」
男性は空を見上げたまま言った。
「雨の日はね、泣いても誰にも気づかれないから」
その一言に、胸が締めつけられた。
まるで昔の私を見ているようだった。
「あなたは若いね」
「はい」
「若い人ほど、自分を責める」
男性はゆっくり続けた。
「でもね、人間は壊れるまで頑張るものじゃないんだ」
「……」
「休むのも、生きるための仕事なんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、涙が込み上げた。
私は何も言えず、ただ頷いた。
その日の夜。
消灯後も眠れなかった。
窓の外では、小さな雨が降っていた。
昼間の男性の言葉が頭から離れない。
休むのも、生きるための仕事。
そんな考え方をしたことがなかった。
私にとって休むことは負けることだった。
逃げることだった。
でも、本当にそうなのだろうか。
翌日。
診察の日だった。
太田医師は穏やかな表情で聞いた。
「病棟での生活には慣れましたか」
「はい。少しだけ」
「何か変わったことはありますか」
私は少し考えた。
そして、ぽつりと答えた。
「ここにいる人たちを見ていて思ったんです。みんな、一生懸命生きているんですね」
太田医師は微笑んだ。
「ええ。病気がある人も、ない人も、病気が重い人も、そうじゃない人も、みんな一生懸命生きているんです」
私は続けた。
「入院する前は、精神科に入院する人って、もっと特別な人たちだと思っていました。でも違いました。みんな普通の人でした」
仕事をしていた人。
子育てをしていた人。
学校へ通っていた人。
家族を大切にしていた人。
ほんの少し心が疲れてしまっただけの人たちだった。
そのことを初めて知った。
「私も……」
言葉が詰まる。
「私も、その一人だったんですね」
太田医師は静かに頷いた。
「そうです」
「桜木さんも、助けを必要としていた一人です」
その言葉に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
数日後。
病棟でレクリエーションが開かれた。
ビンゴ大会だった。
私は最初、参加する気がなかった。
でも、中村さんに誘われて席に座った。
番号が読み上げられるたびに、
「あった!」
「惜しい!」
病棟中に笑い声が響く。
気づけば私も笑っていた。
ビンゴになった高齢の女性が、大きな拍手を浴びて照れ笑いしている。
その光景を見ているだけで、心が少し温かくなった。
景品は、小さなハンカチだった。
私は外れた。
それでも、不思議と悔しくなかった。
笑えたことの方が嬉しかった。
夜。
中村さんが病室へ来た。
「最近、表情が少し柔らかくなりましたね」
「そうですか?」
「ええ。最初の日は、ずっと下を向いていましたよ」
私は少し恥ずかしくなった。
「まだ怖いです。退院後のことを思うと、仕事のことを考えちゃいます」
中村さんは少し考えてから言った。
「未来のことは、未来の自分に任せてもいいんですよ」
私は首を傾げた。
「未来の自分?」
「はい。今の桜木さんは、今日を生きるだけで十分です」
今日を生きるだけ。
たったそれだけなのに、今までの私には一番難しかった。
消灯後。
私は中村さんから渡されたメモ帳を開いた。
毎日一つだけ書き続けてきた「良かったこと」。
最初のページには、
『折り鶴が完成した。』
その次の日は、
『ご飯を全部食べられた。』
その次の日は、
『今日は泣かなかった。』
そして今日。
私は少し考えてから、ゆっくりと文字を書いた。
『今日は笑えた。』
その五文字を見つめながら、小さく微笑んだ。
窓の外では雨がやみ、雲の切れ間から月が顔を出していた。
その月を眺めていると、ふと、頭の奥で誰かの声が聞こえた気がした。
「ほたる、そこに行ってみたら?」
あの懐かしい声だった。
入院前にも聞いた、あの優しい声。
私はハッと顔を上げ、病室を見回した。
誰もいない。
聞こえたはずなのに。
胸がざわつく。
あの声は、一体誰なのだろう。
それは、失われた記憶へと繋がる最初の糸が、静かに動き始めた瞬間だった。




