入院
「少し休んでみませんか」
太田医師は、穏やかな声でそう言った。
診察室の窓から差し込む冬の光が、机の上を白く照らしている。
私はその言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「休む……ですか?」
「はい。今の状態で働き続けるのは、とても危険です」
危険。
その一言に、思わず笑ってしまった。
危険なのは患者さんだ。
私は違う。
私はただ、仕事ができないだけの看護師だ。
だからもっと努力しなきゃいけない。
もっと頑張らなきゃいけない。
そう思っていた。
「大丈夫です」
私は首を横に振った。
「みんな頑張っています。私だけ休むなんて、そんなことできません」
太田医師は何も否定しなかった。
しばらく私の顔を見つめてから、静かに尋ねた。
「桜木さんは、最近笑えていますか?」
その質問だけは答えられなかった。
笑った記憶がない。
患者さんの前では笑顔を作っていた。
先輩の前でも笑っていた。
家に帰れば泣いていた。
それでも私は、
「……笑えてます」
と嘘をついた。
太田医師は、その嘘を見抜いていたのだと思う。
「薬を飲みながら様子を見ましょう」
診察は終わった。
私は処方箋を握りしめ、クリニックを出た。
外は驚くほど青空だった。
世界はこんなにも明るいのに、私の心だけが曇っている。
そんな気がした。
薬を飲み始めても、職場は何も変わらなかった。
朝になるたび、
「今日は怒られませんように」
そう願いながら病棟へ向かう。
でも、その願いが叶う日はなかった。
「桜木さん」
その一言だけで心臓が跳ねる。
「また確認不足」
「優先順位考えて」
「患者さんが一番困るんだからね」
「なんで同じことを繰り返すの?」
一つ注意されるたびに、
頭の中では十個の言葉に変換された。
私は役に立たない。
私は迷惑だ。
私は看護師失格だ。
誰もそんなことは言っていない。
でも、私にはそう聞こえてしまった。
ある日の帰り道。
駅のホームで電車を待っていた。
白線の向こうを電車が通り過ぎる。
その瞬間、
頭の中に、今まで考えたこともない言葉が浮かんだ。
飛び込めば、全部終わる。
私は息を止めた。
何を考えているんだろう。
怖かった。
私は死にたい人間じゃない。
そう思っていた。
なのに、
「終わりたい」
という言葉だけが頭から離れなかった。
電車がホームへ入ってくる。
一歩前へ出れば終わる。
でも、
足は動かなかった。
怖かった。
死ぬのが怖かった。
それ以上に、
母が泣く姿を想像してしまった。
私はその場にしゃがみ込み、涙を必死にこらえた。
家へ帰ると、部屋は相変わらず散らかったままだった。
洗濯物。
コンビニの袋。
飲みかけのペットボトル。
積み上がったゴミ袋。
何一つ片付ける気力がない。
食欲もない。
お風呂にも入れない。
歯も磨けない。
ベッドへ倒れ込むだけ。
スマホだけが、ぼんやりと光っていた。
SNSには同期たちの笑顔。
旅行。
結婚。
友達との食事。
「今日も充実!最高!」
そんな投稿が流れていく。
どうしてみんな普通に生きられるんだろう。
どうして私だけ。
どうして私だけ毎日泣いているんだろう。
スマホを閉じると、部屋はまた静寂に包まれた。
その静けさの中で、
私は初めて自分の腕を見つめた。
まだ薄く残る、自傷の傷跡。
あの日、
トイレで切った傷。
傷は少しずつ治っていた。
でも、
心の傷だけは、日に日に深くなっていた。
数日後の診察。
待合室で番号を呼ばれるまでの時間が、とてつもなく長く感じた。
診察室へ入ると、太田医師は私の顔を見るなり、少し表情を曇らせた。
「眠れていますか」
「……眠れてます」
「食事は」
「食べてます」
「仕事はどうですか」
私は答えようとした。
でも、声が出ない。
代わりに涙だけがあふれた。
止めようとしても止まらない。
「すみません……」
謝る私に、太田医師は静かにティッシュを差し出した。
しばらく泣き続けたあと、ようやく私は言葉を絞り出した。
「先生……」
「はい。」
「私……」
胸の奥で押し殺していた本音が、ゆっくりと口からこぼれた。
「もう……頑張れません」
その一言を聞いた太田医師は、小さくうなずいた。
そして静かに口を開いた。
「桜木さん。入院という選択肢があります」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった。
入院。
それは、私が患者になるということだった。
私は看護師なのに。
患者を支える側なのに。
まさか自分が、精神科へ入院するなんて。
「……そこまで、ひどいんですか」
震える声で尋ねると、太田医師はゆっくり首を横に振った。
「ひどいかどうかではありません。あなたがこれ以上壊れないためです。」
その言葉は、私の心に静かに落ちていった。
私は何も答えられなかった。
ただ、診察室の時計の秒針だけが、静かに時を刻み続けていた。
「少し考えてみます」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
診察室を出ると、足元がふわふわしていた。
精神科に入院する。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
私は患者じゃない。
ただ仕事ができないだけ。
みんなもっと辛い思いをして働いている。
私だけ逃げるなんて、甘えだ。
そう自分に言い聞かせながら、薬局で薬を受け取り、家へ帰った。
しかし、その夜も眠ることはできなかった。
目を閉じるたびに、患者さんの怒鳴り声が聞こえる。
佐藤さんの叱責。
師長の冷たい目。
母の「産まなきゃ良かった」。
翔太の「価値がない」。
梨花の「ブルドッグ」。
一つ思い出せば、次々と傷が蘇る。
耳を塞いでも止まらない。
布団を頭まで被っても消えない。
私は朝まで泣いていた。
数日後。
病棟で小さなミスをした。
点滴の更新時間を十分ほど遅らせてしまっただけだった。
患者さんに大きな影響はなかった。
それでも私は、自分を許せなかった。
「また私だ」
その言葉だけが頭の中を埋め尽くした。
休憩室へ向かう途中、急に息が苦しくなった。
心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。
手が震える。
立っていられない。
床にしゃがみ込む私を見つけた先輩が慌てて声をかけた。
「桜木さん、大丈夫?」
返事ができない。
涙だけが止まらなかった。
小さな処置室へ連れて行かれ、その日は早退することになった。
家に帰っても何もできない。
ただ天井を見つめていた。
「もう限界なのかな」
その言葉が初めて頭に浮かんだ。
次の診察日。
診察室へ入ると、太田医師は私の顔を見るだけで何かを察したようだった。
「仕事は続けられていますか」
私は静かに首を横へ振った。
「怖いんです」
それだけ言うと、また涙が溢れた。
「病院へ行くのが怖い」
「患者さんが怖い」
「先輩が怖い」
「全部怖い」
私は子どものように泣き続けた。
太田医師は最後まで遮らずに聞いてくれた。
そして、ゆっくりと言った。
「桜木さん」
「はい……」
「今は頑張る時期ではありません」
その言葉に、私は思わず首を振った。
「でも、休んだら終わりです。看護師として戻れなくなります。みんなに置いていかれます」
太田医師は静かに答えた。
「壊れてしまったら、戻る場所そのものがなくなります」
その一言で、私は何も言えなくなった。
その日の夕方。
私は母へ電話をかけた。
何度も切ろうと思った。
でも、勇気を出して発信ボタンを押した。
「もしもし」
母の声だった。
私は震える声で言った。
「先生に……入院を勧められた」
少しの沈黙。
母はため息をついた。
「そんなに悪いの?」
私は答えられなかった。
「……わからない」
すると母は、少しだけ優しい声で言った。
「自分で無理だと思うなら、休んでもいい」
その一言が意外だった。
厳しい言葉が返ってくると思っていた。
責められると思っていた。
でも、その日は違った。
電話を切ったあと、私は一人で泣いた。
母に認められたかったわけじゃない。
それでも、「休んでもいい」と言われたことが、少しだけ心を軽くした。
数日後。
私は精神科病院の玄関に立っていた。
自動ドアがゆっくり開く。
静かな廊下。
ナースステーション。
見慣れた景色だった。
でも今日は違う。
私は看護師ではない。
患者だった。
受付で名前を呼ばれる。
「桜木ほたるさん」
その名前に、小さく返事をした。
入院手続きを終え、病棟へ案内される。
荷物は思っていたより少なかった。
着替え。
歯ブラシ。
本を一冊。
スマートフォン。
それだけだった。
病室のベッドに腰を下ろす。
カーテンの向こうから、誰かの笑い声が聞こえる。
廊下では看護師が患者と話している。
以前は働く側として見ていた景色。
今は、守られる側として見ている。
その違いが、胸を締め付けた。
私は天井を見上げ、小さく呟いた。
「負けちゃったな」
その瞬間だった。
コンコン、と病室のドアがノックされた。
若い女性看護師が笑顔で入ってくる。
「桜木さん、こんにちは。今日から担当する中村由香です。ここでは無理をしなくて大丈夫ですからね」
その笑顔は、不思議なくらい温かかった。
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
私は声を上げて泣いた。
看護師になってから、ずっと我慢してきた涙だった。
中村は何も言わず、ティッシュを差し出し、泣き止むまで静かに隣に座っていてくれた。
その日の夜。
消灯後の病室で、私は初めて少しだけ思った。
ここなら、少しだけ休めるのかもしれない。
しかし、その小さな安心は、この先に待ち受ける出来事の始まりに過ぎなかった。
私はまだ知らない。
この入院が、自分の人生を根底から覆す真実へと繋がっていくことを。




