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乖離  作者: 霜月希侑
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7/12

入院


「少し休んでみませんか」


太田医師は、穏やかな声でそう言った。


診察室の窓から差し込む冬の光が、机の上を白く照らしている。


私はその言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「休む……ですか?」


「はい。今の状態で働き続けるのは、とても危険です」


危険。


その一言に、思わず笑ってしまった。


危険なのは患者さんだ。


私は違う。


私はただ、仕事ができないだけの看護師だ。


だからもっと努力しなきゃいけない。


もっと頑張らなきゃいけない。


そう思っていた。


「大丈夫です」


私は首を横に振った。


「みんな頑張っています。私だけ休むなんて、そんなことできません」


太田医師は何も否定しなかった。


しばらく私の顔を見つめてから、静かに尋ねた。


「桜木さんは、最近笑えていますか?」


その質問だけは答えられなかった。


笑った記憶がない。


患者さんの前では笑顔を作っていた。


先輩の前でも笑っていた。


家に帰れば泣いていた。


それでも私は、


「……笑えてます」


と嘘をついた。


太田医師は、その嘘を見抜いていたのだと思う。


「薬を飲みながら様子を見ましょう」


診察は終わった。


私は処方箋を握りしめ、クリニックを出た。


外は驚くほど青空だった。


世界はこんなにも明るいのに、私の心だけが曇っている。


そんな気がした。




薬を飲み始めても、職場は何も変わらなかった。


朝になるたび、


「今日は怒られませんように」


そう願いながら病棟へ向かう。


でも、その願いが叶う日はなかった。


「桜木さん」


その一言だけで心臓が跳ねる。


「また確認不足」


「優先順位考えて」


「患者さんが一番困るんだからね」


「なんで同じことを繰り返すの?」


一つ注意されるたびに、


頭の中では十個の言葉に変換された。


私は役に立たない。


私は迷惑だ。


私は看護師失格だ。


誰もそんなことは言っていない。


でも、私にはそう聞こえてしまった。




ある日の帰り道。


駅のホームで電車を待っていた。


白線の向こうを電車が通り過ぎる。


その瞬間、


頭の中に、今まで考えたこともない言葉が浮かんだ。


飛び込めば、全部終わる。


私は息を止めた。


何を考えているんだろう。


怖かった。


私は死にたい人間じゃない。


そう思っていた。


なのに、


「終わりたい」


という言葉だけが頭から離れなかった。


電車がホームへ入ってくる。


一歩前へ出れば終わる。


でも、


足は動かなかった。


怖かった。


死ぬのが怖かった。


それ以上に、


母が泣く姿を想像してしまった。


私はその場にしゃがみ込み、涙を必死にこらえた。




家へ帰ると、部屋は相変わらず散らかったままだった。


洗濯物。


コンビニの袋。


飲みかけのペットボトル。


積み上がったゴミ袋。


何一つ片付ける気力がない。


食欲もない。


お風呂にも入れない。


歯も磨けない。


ベッドへ倒れ込むだけ。


スマホだけが、ぼんやりと光っていた。


SNSには同期たちの笑顔。


旅行。


結婚。


友達との食事。


「今日も充実!最高!」


そんな投稿が流れていく。


どうしてみんな普通に生きられるんだろう。


どうして私だけ。


どうして私だけ毎日泣いているんだろう。


スマホを閉じると、部屋はまた静寂に包まれた。


その静けさの中で、


私は初めて自分の腕を見つめた。


まだ薄く残る、自傷の傷跡。


あの日、


トイレで切った傷。


傷は少しずつ治っていた。


でも、


心の傷だけは、日に日に深くなっていた。




数日後の診察。


待合室で番号を呼ばれるまでの時間が、とてつもなく長く感じた。


診察室へ入ると、太田医師は私の顔を見るなり、少し表情を曇らせた。


「眠れていますか」


「……眠れてます」


「食事は」


「食べてます」


「仕事はどうですか」


私は答えようとした。


でも、声が出ない。


代わりに涙だけがあふれた。


止めようとしても止まらない。


「すみません……」


謝る私に、太田医師は静かにティッシュを差し出した。


しばらく泣き続けたあと、ようやく私は言葉を絞り出した。


「先生……」


「はい。」


「私……」


胸の奥で押し殺していた本音が、ゆっくりと口からこぼれた。


「もう……頑張れません」


その一言を聞いた太田医師は、小さくうなずいた。


そして静かに口を開いた。


「桜木さん。入院という選択肢があります」


その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった。


入院。


それは、私が患者になるということだった。


私は看護師なのに。


患者を支える側なのに。


まさか自分が、精神科へ入院するなんて。


「……そこまで、ひどいんですか」


震える声で尋ねると、太田医師はゆっくり首を横に振った。


「ひどいかどうかではありません。あなたがこれ以上壊れないためです。」


その言葉は、私の心に静かに落ちていった。


私は何も答えられなかった。


ただ、診察室の時計の秒針だけが、静かに時を刻み続けていた。





「少し考えてみます」


私はそれだけ言うのが精一杯だった。


診察室を出ると、足元がふわふわしていた。


精神科に入院する。


その言葉が頭の中で何度も反響する。


私は患者じゃない。


ただ仕事ができないだけ。


みんなもっと辛い思いをして働いている。


私だけ逃げるなんて、甘えだ。


そう自分に言い聞かせながら、薬局で薬を受け取り、家へ帰った。


しかし、その夜も眠ることはできなかった。


目を閉じるたびに、患者さんの怒鳴り声が聞こえる。


佐藤さんの叱責。


師長の冷たい目。


母の「産まなきゃ良かった」。


翔太の「価値がない」。


梨花の「ブルドッグ」。


一つ思い出せば、次々と傷が蘇る。


耳を塞いでも止まらない。


布団を頭まで被っても消えない。


私は朝まで泣いていた。




数日後。


病棟で小さなミスをした。


点滴の更新時間を十分ほど遅らせてしまっただけだった。


患者さんに大きな影響はなかった。


それでも私は、自分を許せなかった。


「また私だ」


その言葉だけが頭の中を埋め尽くした。


休憩室へ向かう途中、急に息が苦しくなった。


心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。


手が震える。


立っていられない。


床にしゃがみ込む私を見つけた先輩が慌てて声をかけた。


「桜木さん、大丈夫?」


返事ができない。


涙だけが止まらなかった。


小さな処置室へ連れて行かれ、その日は早退することになった。


家に帰っても何もできない。


ただ天井を見つめていた。


「もう限界なのかな」


その言葉が初めて頭に浮かんだ。




次の診察日。


診察室へ入ると、太田医師は私の顔を見るだけで何かを察したようだった。


「仕事は続けられていますか」


私は静かに首を横へ振った。


「怖いんです」


それだけ言うと、また涙が溢れた。


「病院へ行くのが怖い」


「患者さんが怖い」


「先輩が怖い」


「全部怖い」


私は子どものように泣き続けた。


太田医師は最後まで遮らずに聞いてくれた。


そして、ゆっくりと言った。


「桜木さん」


「はい……」


「今は頑張る時期ではありません」


その言葉に、私は思わず首を振った。


「でも、休んだら終わりです。看護師として戻れなくなります。みんなに置いていかれます」


太田医師は静かに答えた。


「壊れてしまったら、戻る場所そのものがなくなります」


その一言で、私は何も言えなくなった。




その日の夕方。


私は母へ電話をかけた。


何度も切ろうと思った。


でも、勇気を出して発信ボタンを押した。


「もしもし」


母の声だった。


私は震える声で言った。


「先生に……入院を勧められた」


少しの沈黙。


母はため息をついた。


「そんなに悪いの?」


私は答えられなかった。


「……わからない」


すると母は、少しだけ優しい声で言った。


「自分で無理だと思うなら、休んでもいい」


その一言が意外だった。


厳しい言葉が返ってくると思っていた。


責められると思っていた。


でも、その日は違った。


電話を切ったあと、私は一人で泣いた。


母に認められたかったわけじゃない。


それでも、「休んでもいい」と言われたことが、少しだけ心を軽くした。




数日後。


私は精神科病院の玄関に立っていた。


自動ドアがゆっくり開く。


静かな廊下。


ナースステーション。


見慣れた景色だった。


でも今日は違う。


私は看護師ではない。


患者だった。


受付で名前を呼ばれる。


「桜木ほたるさん」


その名前に、小さく返事をした。


入院手続きを終え、病棟へ案内される。


荷物は思っていたより少なかった。


着替え。


歯ブラシ。


本を一冊。


スマートフォン。


それだけだった。


病室のベッドに腰を下ろす。


カーテンの向こうから、誰かの笑い声が聞こえる。


廊下では看護師が患者と話している。


以前は働く側として見ていた景色。


今は、守られる側として見ている。


その違いが、胸を締め付けた。


私は天井を見上げ、小さく呟いた。


「負けちゃったな」


その瞬間だった。


コンコン、と病室のドアがノックされた。


若い女性看護師が笑顔で入ってくる。


「桜木さん、こんにちは。今日から担当する中村由香です。ここでは無理をしなくて大丈夫ですからね」


その笑顔は、不思議なくらい温かかった。


その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。


私は声を上げて泣いた。


看護師になってから、ずっと我慢してきた涙だった。


中村は何も言わず、ティッシュを差し出し、泣き止むまで静かに隣に座っていてくれた。


その日の夜。


消灯後の病室で、私は初めて少しだけ思った。


ここなら、少しだけ休めるのかもしれない。


しかし、その小さな安心は、この先に待ち受ける出来事の始まりに過ぎなかった。


私はまだ知らない。


この入院が、自分の人生を根底から覆す真実へと繋がっていくことを。

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