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乖離  作者: 霜月希侑
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6/12

病気にはなれなかった


精神科に通い始めてから数日が過ぎた。


エスシタロプラム、ロラゼパム、デエビゴ。


薬局でもらった薬の袋を、私は何度も眺めていた。


「これを飲めば、楽になれるのかな」


そんな期待を抱きながら、コップ一杯の水で薬を飲み込んだ。


だけど、現実は変わらなかった。


朝になれば仕事へ向かい、病棟に着けば佐藤さんの鋭い声が飛んでくる。


「桜木さん、点滴の準備まだ?」


「優先順位、ちゃんと考えて動いて」


患者さんの前でも、他の看護師の前でも関係ない。


失敗すれば叱られ、できても褒められない。


家に帰れば泣く。


薬を飲んで寝る。


また朝が来る。


その繰り返しだった。




二週間後。


再診の日。


診察室で太田先生は穏やかに尋ねた。


「薬はどうですか?」


私は少し考えて答えた。


「……よくわかりません」


本当は、何も変わっていなかった。


仕事は苦しいまま。


毎日泣いている。


朝が来るのが怖い。


それでも、私は「変わりません」とは言えなかった。


先生を困らせたくなかった。


「そうですか。焦らなくて大丈夫ですよ。薬は効果が出るまで少し時間がかかりますから」


太田先生は優しく笑った。


私は小さく頷いた。


診察は十分もかからず終わった。


帰り道、駅のホームで思った。


(私は、本当に病気なんだろうか。)




病気の人は眠れない。


病気の人は食べられない。


病気の人は何もできなくなる。


そんなイメージが、私の中にはあった。


でも私は違う。


ご飯は食べられる。


夜も眠れる。


仕事にも行けている。


なのに涙だけは止まらない。


これくらいで精神科に通っているなんて、甘えているだけなんじゃないか。


薬なんて飲むほどじゃないんじゃないか。


そんな考えが、何度も頭をよぎった。




ある日、昼休憩。


同期の香織さんが笑いながら話していた。


「昨日さ、寝不足すぎて倒れそうだったよ」


彩さんも笑う。


「私なんか毎日辞めたいって思ってるよ」


みんな笑っている。


疲れているのは私だけじゃない。


辛いのは私だけじゃない。


そう思った瞬間、胸が苦しくなった。


私だけ精神科に通っている。


私だけ薬を飲んでいる。


私だけ泣いている。


いや、本当にそうだろうか。


みんな、見えないところで苦しんでいるだけじゃないのか。


そう考え始めると、自分だけが弱い人間のように思えた。




仕事帰り。


スーパーで買ったおにぎりを片手に、いつもの公園のベンチへ座った。


冬の風は冷たかった。


空を見上げると、吐く息が白く消えていく。


私はスマートフォンを開いた。


検索欄に打ち込む。


『適応障害 甘え』


『精神科 行くほどではない』


『うつ病 涙だけ』


検索結果を読むたびに、安心する記事と、不安になる記事が交互に現れた。


「誰でも涙は出ます」


「早めの受診が大切です」


「仕事のストレスが原因です」


「甘えではありません」


どの記事を読んでも、自分の答えにはならなかった。


私はスマートフォンを閉じ、小さく呟いた。


「私は……病気になれなかった」


病気なら、休む理由ができた。


病気なら、苦しいと言っても許されたかもしれない。


でも私は、中途半端だった。


健康でもない。


重症でもない。


苦しいのに、苦しいと胸を張って言えない。


その曖昧さが、何より私を苦しめていた。


冷たい風が頬を撫でる。


そのときだった。


頭の奥で、誰かが囁いた。


「ほたる、大丈夫」


私は勢いよく振り返る。


誰もいない。


公園には、風に揺れる木々と、遠くで遊ぶ子どもたちの声だけが響いていた。


でも確かに聞こえた。


優しくて、どこか懐かしい声。


私は無意識に胸へ手を当てた。


「……誰?」


返事はなかった。


ただ、心の奥に小さな波紋だけが静かに広がっていった。





それからも私は、毎晩欠かさず薬を飲んだ。


エスシタロプラム。


ロラゼパム。


デエビゴ。


薬を飲むたびに思う。


「これで明日は少し楽になれる」


そう信じたかった。


だけど、朝になると現実は何一つ変わっていなかった。


病院へ向かう足は重く、病棟へ一歩踏み入れただけで心臓が速く鼓動し始める。


ナースステーションから佐藤さんの声が聞こえるだけで、肩がびくりと震えた。


私はまだ何も言われていない。


それなのに、叱られる未来ばかりが頭に浮かんでしまう。




ある日の勤務中だった。


ナースコールが鳴る。


患者さんの部屋へ向かう途中、胸が急に苦しくなった。


息がうまく吸えない。


心臓が壊れそうなくらい速く鼓動している。


手が震える。


視界が少し揺れた。


(どうしよう……)


(倒れる……)


壁に手をついた。


ほんの数十秒だったのかもしれない。


それでも私には何分にも感じられた。


深呼吸を繰り返す。


ようやく落ち着くと、何事もなかったように患者さんの部屋へ入った。


笑顔を作った。


「どうされましたか?」


患者さんは私の異変に気付いていなかった。


看護師は患者さんを安心させる仕事だ。


私が不安そうな顔をしてはいけない。


そう自分に言い聞かせた。




勤務を終え、更衣室で制服を脱ぐ。


鏡に映った自分は、朝より何歳も老けたように見えた。


同期たちは笑いながら帰っていく。


「また明日ね!」


その声を聞きながら、私は作り笑いで手を振った。


誰にも言えなかった。


胸が苦しいことも。


毎日泣いていることも。


精神科へ通っていることも。


知られたら終わる。


「精神が弱い看護師」


そう思われる気がした。





三回目の診察。


太田先生はカルテを見ながら優しく聞いた。


「仕事はどうですか?」


私は少し黙ったあと、小さく笑った。


「頑張れてます」


嘘だった。


本当は頑張れてなんていない。


毎日辞めたい。


毎日逃げたい。


毎日消えたい。


でも、その言葉は飲み込んだ。


太田先生は静かに頷いた。


「無理はしないでくださいね」


私は診察室を出たあと、自分が嫌になった。


どうして本当のことを言えないんだろう。


助けてもらうために来たのに。


私は、また笑ってしまった。




帰宅すると、薬袋を机の上へ置いた。


薬は少しずつ増えていた。


それを見るたび、思う。


「私は病気なんだ」


そう思った次の瞬間には、


「いや、違う」


という声が聞こえる。


私は病気じゃない。


もっと苦しい人はいくらでもいる。


私は働けている。


ご飯も食べられる。


眠れている。


こんな程度で苦しいなんて言ってはいけない。


二つの考えが頭の中でぶつかり合い、答えはどこにもなかった。




ある夜、布団へ入っても眠れなかった。


スマートフォンを開く。


検索履歴には、同じ言葉が並んでいた。


『うつ病 甘え』


『適応障害 軽い』


『精神科 本当に必要だった?』


何十回検索しても、答えは見つからない。


私は検索画面を閉じた。


そのときだった。


ふと、スマートフォンの通知が目に入る。


「〇〇メンタルクリニック 次回予約 〇月〇日」


私は画面を見つめたまま固まった。


そのクリニックの名前を見た瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。


……どうして、ここだったんだろう。


あの日。


どうして私は、このクリニックを選んだんだろう。


他にも病院はたくさんあった。


それなのに、私は迷わずここを選んだ。


ネットで見つけたから。


そう思っていた。


でも、本当にそうだっただろうか。


その瞬間だった。


頭の奥で、あの声がはっきり響いた。


「ほたる、そこに行ってみたら」


私は勢いよく起き上がる。


誰もいない部屋。


時計の針だけが静かに時を刻んでいる。


「……また」


私は両手で頭を押さえた。


あの声は誰なんだろう。


優しい声だった。


どこか懐かしい声だった。


でも、思い出せない。


母じゃない。


佐藤さんでもない。


翔太でもない。


梨花でもない。


知っているはずなのに、顔が浮かばない。


声だけが、霧の中に残っている。


私はその夜、ほとんど眠ることができなかった。


そして翌朝、鏡に映る自分を見つめながら、小さく呟いた。


「私は、本当に病気なんだろうか」


鏡の中の私は、疲れ切った顔でこちらを見返していた。


その表情が、一瞬だけ、自分ではない誰かのように見えた気がした。


私は目を擦り、もう一度鏡を見る。


そこには、いつもの私しかいなかった。


けれど胸の奥には、小さな違和感だけが静かに残り続けていた。


その違和感が、やがて自分の人生そのものを揺るがすことになるとは、このときの私は、まだ知る由もなかった。

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