ブルドッグ
ドンッ。
玄関の向こうから響いた音に、私は肩を震わせた。
誰かがいる。
そう思ってインターホンの画面を確認する。
真っ暗だった。
誰も映っていない。
なのに、胸の奥だけがざわついていた。
「……誰なの」
返事はない。
私はゆっくりと視線を落とした。
ロープを握る手が冷たい。
こんな時なのに、どうしてだろう。
頭に浮かんだのは、病院でも母でも翔太でもなかった。
制服姿の、中学生の私だった。
中学校の入学式。
新品の制服に袖を通した私は、少しだけ期待していた。
小学校ではうまくいかなかった。
でも、中学生になれば変われるかもしれない。
友達も増えるかもしれない。
今度こそ普通の学校生活を送れるかもしれない。
そんな小さな希望を抱いていた。
その頃の私は、まだ知らなかった。
これから始まる三年間が、私の人生を大きく変えることになるなんて。
梨花とは幼稚園の頃から一緒だった。
家も近く、親同士も仲が良かった。
休日には一緒に遊び、お互いの家に泊まることもあった。
私はずっと、親友だと思っていた。
だから、中学校でも同じクラスになれた時は嬉しかった。
「また一年よろしくね」
そう笑い合った。
あの日までは。
ある昼休みだった。
教室には笑い声が響いていた。
私は机で本を読んでいた。
すると突然、梨花が私の机に近づいてきた。
「ねぇ、ほたる」
「なに?」
「カバン見せて」
「え?」
意味が分からなかった。
梨花は勝手に私のカバンへ手を伸ばす。
私は慌てて抱きかかえた。
「やめて」
「なんで?」
「見ないで」
教科書や筆箱を見られたくないわけじゃない。
ただ、理由もなく人のカバンを漁られるのが嫌だった。
それだけだった。
でも、その行動が気に入らなかったのだろう。
梨花は突然、大きな声で笑った。
「見てよ、この顔!」
教室中の視線が私に集まる。
梨花は指を差しながら言った。
「ブルドッグみたい!」
一瞬、教室が静かになった。
次の瞬間だった。
誰かが吹き出した。
「似てる!」
「ほんとだ!」
「ブルドッグじゃん!」
笑い声が広がる。
私は何も言えなかった。
ただ立ち尽くすことしかできなかった。
翌日。
「おはよう」
そう言って教室へ入る。
返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、
「ブルドッグ、おはよう」
という声だった。
一人が言う。
もう一人が笑う。
気づけばクラス中が、その呼び方をしていた。
誰も私の名前を呼ばなくなった。
桜木ほたる。
その名前は、一日で消えた。
最初は、そのうち飽きると思っていた。
一週間。
一か月。
きっと終わる。
そう思っていた。
でも、終わらなかった。
朝、教室へ入るたびに、
「ブルドッグ」
廊下ですれ違うたびに、
「ブルドッグ」
給食の時間も、
掃除の時間も、
部活動へ向かう時も、
私の名前は存在しなかった。
家へ帰って鏡を見る。
自分の顔を何度も見つめる。
本当にブルドッグに似ているのかな。
目が小さいから?
鼻が低いから?
口が大きいから?
鏡を見れば見るほど、自分の顔が醜く思えた。
それから私は、人と目を合わせられなくなった。
笑うことも減った。
写真を撮られるのも嫌になった。
鏡を見るたびに、
「ブス」
という言葉が頭の中で響くようになった。
そんなある日。
クラスで「陽キャ」と「陰キャ」の話になった。
誰が人気者で、
誰が地味なのか。
そんなくだらない話で盛り上がっていた。
梨花は一人ずつ指を差しながら笑っていた。
「この子は陽キャ」
「この子は陰キャ」
教室中が笑っていた。
そして、最後に私を見た。
「ほたるは?」
誰かが聞く。
梨花は少し考えるふりをしてから、大きく笑った。
「ブルドッグは人間じゃないから、関係ないじゃん!」
教室中が笑いに包まれた。
私も笑った。
笑わないと、泣いてしまいそうだったから。
ドン。
また玄関から音がした。
私は現実へ引き戻される。
部屋は静かだった。
あの日の教室も、
今の部屋も、
同じくらい静かに感じた。
私はロープを握りしめる。
あの日から私は、自分の名前よりも先に、「ブルドッグ」という言葉を思い出すようになってしまった。
そして、その記憶はまだ終わっていなかった。
教室へ入るのが怖かった。
朝、教室のドアを開けるたびに、
今日は何をされるんだろう。
今日は何を言われるんだろう。
そんなことばかり考えるようになっていた。
先生がいる時は、まだよかった。
問題は休み時間だった。
先生の姿が見えなくなると、教室の空気は一変した。
ある日の放課後だった。
「ブルドッグ、ちょっと来いよ」
教室に残っていた数人の男子と女子に囲まれた。
逃げようと思った。
でも、足が動かなかった。
教室の隅には掃除用具入れがあった。
誰かがバケツを持ってくる。
中には、掃除に使ったばかりの濁った水が入っていた。
「飲めよ」
私は耳を疑った。
「え……?」
「聞こえなかった?」
誰かが笑う。
「ブルドッグなら飲めるだろ」
周りから笑い声が上がる。
「早く」
「飲めよ」
その場にいた誰も止めなかった。
私は震えながら首を振った。
「無理……」
その一言で、笑い声はさらに大きくなった。
「ほら、泣きそう!」
「早くしろよ!」
胸が苦しかった。
怖かった。
でも、一番怖かったのは、このまま終わらないことだった。
私は震える手でバケツを持ち上げた。
鼻をつく嫌な臭い。
口元まで運ぶだけで吐き気がした。
目を閉じる。
少しだけ口に含んだ、その瞬間だった。
「うわっ、本当に飲んだ!」
「きったね!」
教室に笑い声が響く。
私は咳き込みながら、その場にしゃがみ込んだ。
涙が止まらなかった。
でも、その涙さえ笑われた。
それからも、嫌がらせは続いた。
下駄箱を開けると、給食の食べ残しが詰め込まれていた。
机の中には丸めたプリントや消しゴムのかす。
体育館へ移動する時は、誰も私の隣を歩かなかった。
班を作る授業では、最後まで一人残る。
先生が
「誰か入れてあげて」
と言う。
教室は静まり返る。
しばらくして、一人が大きなため息をつく。
「じゃあ、うちでいいよ」
その言葉を聞くたびに、
私は「仲間」ではなく、「仕方なく入れてもらった人」なんだと思い知らされた。
ある日、一学年上の女子生徒に呼び出された。
校舎裏。
夕方の薄暗い階段。
「お前がブルドッグ?」
私は何も答えられなかった。
先輩は私を見下ろしながら笑う。
「そんな顔じゃ、将来生まれてくる子どももブルドッグだろ」
周りの先輩たちも笑った。
私は俯いた。
その瞬間、お腹に強い衝撃が走った。
蹴られた。
一度ではない。
二度も。
三度も。
痛みで声も出ない。
「子どもなんか産めなくしてやる」
その言葉だけは、今でも忘れられない。
家へ帰って服をめくると、お腹は紫色に変わっていた。
私はその痣を誰にも見せなかった。
見せても、何も変わらないと思ったから。
部活動でも居場所はなかった。
同じ部活の先輩は、私だけに厳しかった。
「桜木、何回言えば分かるの?」
「本当に使えない」
みんなの前で怒鳴られる。
できたことより、できなかったことだけが積み重なっていく。
顧問にも、
「人より劣っているんだから、それを自覚してもっと頑張れ」
と言われた。
私は頑張っていた。
でも、それを証明する方法はなかった。
いつからだろう。
私は泣かなくなった。
泣けば笑われる。
怒れば面白がられる。
助けを求めても、誰も来ない。
だったら、何も感じないふりをしよう。
そうやって笑うことを覚えた。
「大丈夫?」
そう聞かれたら、
「大丈夫」
そう答える。
本当は全然大丈夫じゃないのに。
苦しいなんて言えなかった。
誰かに弱さを見せたら、もっと壊される気がした。
卒業式の日。
みんなが写真を撮って笑っていた。
「また会おうね」
「卒業しても友達だよ」
そんな声が教室に響く。
私は誰とも写真を撮らなかった。
卒業アルバムも、ほとんど開かなかった。
あの三年間は、思い出ではなかった。
ただ、生き延びるための三年間だった。
ドン。
玄関の向こうから、また音がした。
私は現実へ引き戻される。
ロープを握る手に力が入る。
中学校を卒業しても、
大学へ行っても、
看護師になっても、
「ブルドッグ」と呼ばれたあの日の私は、ずっと心の中に残っていた。
鏡を見るたびに思う。
私は醜い。
私は価値がない。
私は誰にも愛されない。
その思いは、大人になっても消えることはなかった。
私は静かに目を閉じる。
もう、この声から逃げたい。
もう、自分を嫌い続ける人生を終わらせたい。
その瞬間――。
玄関の向こうで、誰かがはっきりと私の名前を呼んだ気がした。
「――ほたる」
私は勢いよく顔を上げる。
息が止まる。
今のは、幻聴なのか。
それとも、本当に誰かがそこにいるのか。
静まり返った部屋で、私はドアを見つめ続けていた。




