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乖離  作者: 霜月希侑
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4/12

愛を信じた


 コン。


 玄関の向こうから、また音がした。


 私は息を潜める。


 時計は午前零時を少し過ぎている。


 こんな時間に訪ねてくる人なんているはずがない。


 インターホンの画面を覗く。


 やっぱり誰も映っていない。


 気のせい。


 そう思おうとしても、胸のざわつきは消えなかった。


 私はゆっくりとロープから手を離す。


 そのとき、机の上に置きっぱなしだったスマートフォンの画面がふと目に入った。


 通知は何もない。


 画面には、ずっと変えていない一枚の写真が映っていた。


 大学生だった頃、誰かに撮ってもらった私の笑顔。


 あの日は、本当に幸せだった。


 私は自然と、あの頃のことを思い出していた。


     


 大学二年生の春。


 私は、生まれて初めて恋をした。


 相手は、翔太。


 SNSで知り合った二歳年上の大学生だった。


 毎日届くメッセージは優しかった。


「今日は何してた?」


「ちゃんとご飯食べた?」


「無理しすぎるなよ」


 たったそれだけの言葉が嬉しかった。


 誰かが私を気にかけてくれる。


 それだけで胸が温かくなった。


 夜になると電話をした。


 他愛もない話で何時間も笑った。


 学校のこと。


 将来のこと。


 好きな映画。


 好きな音楽。


 翔太はよく笑う人だった。


「ほたるって面白いな」


 その一言だけで、一日中嬉しかった。


 私にも、こんな幸せが来るんだ。


 そう思っていた。


     


 初めて会う約束をした日は、朝から落ち着かなかった。


 鏡の前で何度も髪を整える。


 服を何度も着替える。


 少しでも可愛く見えたかった。


 嫌われたくなかった。


 駅で待っていると、翔太は笑顔で手を振った。


「ほたる?」


「うん」


「やっと会えた」


 その瞬間、胸がいっぱいになった。


 私はこの人を好きになる。


 そんな予感がした。


 その日はカフェへ行き、水族館へ行き、夜景を見た。


 帰り際、翔太が言った。


「また会いたい」


 私は何度も頷いた。


     


 付き合い始めてからしばらくは、本当に幸せだった。


 毎日「おはよう」と「おやすみ」のメッセージが届く。


 休日は一緒に出掛ける。


 手を繋ぐだけで幸せだった。


 私にも恋人ができた。


 それだけで、自分が少しだけ普通の人間になれた気がした。


 ある日、翔太が私を見ながら言った。


「ほたるってさ」


「うん?」


「自己肯定感、低すぎ」


 私は苦笑した。


「そうかな」


「もっと自信持てばいいのに」


 その言葉が嬉しかった。


 私を分かってくれている。


 そう思った。


     


 でも。


 少しずつ、何かが変わり始めた。


「今日は誰といたの?」


「大学の友達」


「男?」


「違うよ」


「本当?」


 最初は冗談だと思っていた。


 少し嫉妬深いだけ。


 好きだから心配してくれるだけ。


 そう思っていた。


 でも、質問は少しずつ増えていった。


「今どこ?」


「写真送って」


「電話出て」


 返信が少し遅れるだけで、何度も着信が入る。


「なんで無視した?」


 私は慌てて謝る。


「ごめんね。授業中だった」


「ふーん」


 その短い返事を見るだけで、胸が苦しくなった。


 怒らせてしまった。


 また嫌われる。


 そんなことばかり考えるようになった。


     


 ある日の帰り道。


 翔太は私の顔をじっと見つめていた。


「どうしたの?」


 そう聞くと、彼は突然笑った。


「いや」


「何?」


「ほたるってさ」


 少し間が空く。


 私は笑顔で続きを待った。


 次の瞬間、その笑顔は凍りついた。


「……ほんと、ブスだよな」


 冗談だと思った。


 だから笑おうとした。


 でも翔太は笑っていなかった。


「世界一のブス」


 その言葉だけが、静かな夜道に落ちた。


 私は何も言えなかった。


 胸の奥で、小さな何かが音を立てて崩れていくのを感じた。


     


 コン。


 また玄関から音がした。


 私ははっと顔を上げる。


 部屋は静まり返っている。


 ロープは、まだ机の上に置かれたままだった。


 私はゆっくりと息を吐く。


 翔太は、あの夜だけじゃ終わらなかった。


 あれは、ほんの始まりに過ぎなかったのだから。





「世界一のブス」


 その言葉は、冗談みたいな笑顔と一緒に私の胸へ落ちた。


 私は笑った。


 笑うしかなかった。


「もう、ひどいな」


 そう返すと、翔太は肩をすくめた。


「冗談じゃん」


 冗談。


 そう言われると、それ以上何も言えなかった。


 私が傷ついたと言えば、空気を悪くするだけ。


 だから私は、自分の心に蓋をした。


     


 それからだった。


 翔太は少しずつ変わっていった。


「お前さ、本当に何もできないよな」


「そんなことも分からないの?」


「俺がいなかったら、お前一人じゃ生きていけないじゃん」


 その言葉を聞くたびに、


「そんなことない」


 と言い返したかった。


 でも、言えなかった。


 どこかで私自身も、そう思っていたから。


     


 翔太の機嫌は、天気みたいに変わった。


 笑っていたかと思えば、


 急に黙り込む。


 理由を聞けば、


「自分で考えろ」


 と言われる。


 何が悪かったんだろう。


 今日の服かな。


 言い方かな。


 返信が遅かったかな。


 私はいつも答えを探していた。


 気づけば、彼の顔色を見ることが癖になっていた。


     


 ある日、翔太が言った。


「お金貸して」


「いくら?」


「二万円」


 私は迷わなかった。


「うん」


 好きな人が困っている。


 助けたい。


 それだけだった。


「ありがとう」


 翔太は笑った。


 その笑顔が嬉しかった。


 でも、その二万円は返ってこなかった。


     


 数週間後。


「悪い、また貸して」


 五万円。


 十万円。


 少しずつ金額は増えていった。


「すぐ返すから」


 私は信じた。


 バイト代。


 お年玉。  


 お小遣い。


 高校生の頃から少しずつ貯めてきた貯金。


 通帳の残高は、少しずつ減っていった。


 返済の話をすると、翔太は不機嫌になった。


「そんなに信用できない?」


「違う、そうじゃなくて……」


「俺、彼氏だよ?」


 その言葉を聞くと、


 私の方が悪い気がした。


 恋人なのに、お金を信じて貸せない私がおかしいのかな。


 そんなことまで考えるようになっていた。


     


 ある夜。


 私は勇気を出して聞いた。


「あのお金、いつ返してくれる?」


 翔太は笑った。


「そんなに金が欲しい?」


「そういう意味じゃ……」


「たかがそれくらいで」


 彼は鼻で笑いながら言った。


「俺からしたら小銭だけど?」


 胸が痛かった。


 私にとっては、大切なお金だった。


 将来のために。


 学校へ行くために。


 必死に貯めたお金だった。


 でも、その言葉を飲み込んだ。


 嫌われたくなかった。


     


 暴言は、いつしか日常になった。


「お前には価値がない」


「俺と付き合えてるだけ感謝しろ」


「こんなお前を好きになる奴なんか他にいない」


 最初は傷ついていた。


 でも、何度も聞くうちに、


 その言葉は少しずつ私の中で本当になっていった。


 そうだ。


 私は可愛くない。


 私は価値がない。


 だから翔太は、こんな私と付き合ってくれている。


 感謝しなきゃいけない。


 そんなふうに思うようになってしまった。


     


 結局、別れを告げたのは翔太だった。


「飽きた」


 たった三文字だった。


 私は何も言えなかった。


「今までありがとう」


 そう送ったメッセージに、返事はなかった。


 それで終わりだった。


     


 別れて何か月経っても、


 翔太の声だけは消えなかった。


 鏡を見るたび、


「世界一のブス」


 という言葉が聞こえる。


 失敗するたび、


「価値がない」


 という声が聞こえる。


 その声は、いつしか翔太の声なのか、


 私自身の声なのか、


 分からなくなっていた。


     


 私は整形をした。


 二重の手術。


 鼻の手術。


 ボトックス。


 鏡の中の自分は、少しだけ変わった。


 今度こそ変われる。


 そう信じた。


 でも、心だけは変わらなかった。


 鏡を見るたびに思う。


 どんな顔になっても、


 私は私なんだ。


 価値のない人間なんだ。


     


 コン。


 また、玄関の向こうで音がした。


 私はゆっくりと顔を上げる。


 誰もいない。


 それでも、誰かが私を呼んでいるような気がした。


 私はロープを握りしめる。


 母にも愛されなかった。


 恋人にも愛されなかった。


 きっと、これから先も同じだ。


 だったら。


 もう十分だ。


 もう誰かに愛されようと頑張らなくてもいい。


 私は静かに目を閉じた。


 その瞬間――


 ドアの向こうから、今までで一番大きな音が響いた。


 ドンッ。


 まるで誰かが、必死に扉を叩いているようだった。

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