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乖離  作者: 霜月希侑
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3/12

愛されたかった


 カチ。


 また、あの音がした。


 私はドアノブから手を離した。


 部屋の中は静まり返っている。


 息を殺して耳を澄ませても、それ以上音は聞こえない。


「……気のせい」


 そう呟いても、胸のざわつきは消えなかった。


 誰かがいる。


 そんな気がしてならない。


 でも、もうどうでもよかった。


 あと少しで全部終わる。


 そう思ってロープを握り直した瞬間、不意に懐かしい匂いが鼻をかすめた。


 柔軟剤の甘い香り。


 味噌汁の湯気。


 洗濯物を取り込んだばかりの布団の匂い。


 それは、私がまだ幼かった頃の家の匂いだった。


     


 小さい頃、私はお母さんが大好きだった。


 仕事へ行く母の後ろを、いつも追いかけていた。


「お母さん、お仕事?」


「そうよ」


「今日も病院?」


「そうだよ」


 白い制服を着た母は、とても綺麗だった。


 近所の人は口を揃えて言った。


「お母さん、優しい看護師さんなんでしょうね」


 私は誇らしかった。


 自慢のお母さんだった。


 だから、小学二年生のあの日も、私は母が迎えに来てくれるのを楽しみに待っていた。


 ランドセルを背負って家へ帰る。


 玄関のドアを開ける。


「ただいま!」


 返事はない。


 静かな家だった。


 夕方になって母が帰ってきた。


 私は嬉しくて駆け寄る。


「おかえり!」


 母は私を見た。


 そして、小さく舌打ちをした。


「……うるさい」


 その一言で、私は立ち止まった。


 何か悪いことをしたのかな。


 そう思った。


     


 その日からだった。


 母の機嫌をうかがうようになったのは。


 玄関を開ける音。


 足音。


 食器を置く音。


 ドアを閉める音。


 その日の音で、機嫌が分かった。


 静かなら大丈夫。


 音が大きい日は危ない。


 私は物音を立てないように歩いた。


 テレビの音も小さくした。


 笑うことも減った。


 怒られたくなかった。


 嫌われたくなかった。


 お母さんに愛されたかった。


     


 冬の夜だった。


 何がきっかけだったのか、もう覚えていない。


 ただ、母が怒っていたことだけは覚えている。


「外に出なさい」


 そう言われた。


 私は首を振った。


「ごめんなさい」


「出なさい!」


 次の瞬間、腕を掴まれた。


 玄関の外へ押し出される。


 バタン。


 ドアが閉まった。


 私は裸足だった。


 パジャマ一枚。


 吐く息は白い。


 アスファルトは氷みたいに冷たかった。


「お母さん」


 ドアを叩く。


「ごめんなさい」


 もう一度叩く。


「お願い」


 返事はない。


 家の明かりだけが、カーテン越しに漏れている。


 隣の家からはテレビの音が聞こえた。


 笑い声も聞こえた。


 でも、誰も出てこなかった。


 私は泣きながら座り込んだ。


 寒い。


 怖い。


 でも、一番怖かったのは、


 このまま母に嫌われたままになることだった。


 だから私は、何度も謝った。


「ごめんなさい」


「いい子にするから」


「お願い」


 その言葉だけを繰り返した。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 やっと玄関が開いた。


 母は私を見下ろして言った。


「少しは反省した?」


 私は何度も頷いた。


「はい」


 本当は何を反省すればいいのか分からなかった。


 でも、それで母が許してくれるなら、それで良かった。


     


 その日から私は思うようになった。


 怒られるのは、私が悪い子だから。


 愛されないのは、私が悪い子だから。


 もっと頑張れば。


 もっといい子になれば。


 きっと、お母さんは笑ってくれる。


 そう信じていた。


 ずっと。


     


 カチ。


 また、音がした。


 私は我に返る。


 時計の針は、午前零時を過ぎようとしていた。


 新しい年が始まる。


 でも、私にはもう関係ない。


 ロープを握る手に、少しだけ力を込めた。





 私は、いい子でいようと決めた。


 怒られないように。


 嫌われないように。


 お母さんが笑ってくれるように。


 宿題は毎日やった。


 学校の準備も自分でした。


 洗濯物を畳み、お皿を運び、お風呂掃除も手伝った。


 「ありがとう」


 その一言が聞きたくて。


 でも、どれだけ頑張っても、その言葉を聞くことはなかった。


 返ってくるのは、


「まだ終わってないの?」


「遅い」


「そんなこともできないの?」


 そんな言葉ばかりだった。


     


 母は看護師だった。


 仕事の日は朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる。


 近所では評判のいい看護師だった。


「あのお母さん、本当に優しい人よね」


 そう言われるたびに、私は誇らしかった。


 患者さんには優しいんだ。


 じゃあ、いつか私にも優しくしてくれる日が来るかもしれない。


 私はそう信じていた。


 だから、母が仕事の話をするときは嬉しかった。


「今日ね、患者さんに『ありがとう』って言われたの」


 母は少しだけ笑っていた。


 その笑顔を見るたびに思った。


 その笑顔を、私にも向けてほしい。


 ただ、それだけだった。


     


 ある日の夕方だった。


 私がコップを落としてしまった。


 ガラスが床に散らばる。


「あっ……」


 その瞬間、母の表情が変わった。


「何やってるの!」


 怒鳴り声が響く。


 私は慌てて謝った。


「ごめんなさい!」


 次の瞬間だった。


 母は台所で沸かしていた熱湯を掴み、そのまま私に向かって振りかけた。


「あんたなんか産まなきゃ良かった!」


 熱い。


 熱い。


 頬が焼けるように痛い。


 私は声も出せず、その場にしゃがみ込んだ。


 母は私を見下ろしたまま言った。


「あんたが悪い」


 私は泣きながら頷いた。


 そうだ。


 私が悪い。


 私がコップを落としたから。


 私がちゃんとしていれば、お母さんは怒らなかった。


 全部、私のせいなんだ。


     


 それからというもの、私は失敗することが怖くなった。


 物を落とすこと。


 忘れ物をすること。


 質問すること。


 怒られるかもしれない。


 嫌われるかもしれない。


 そんな考えばかりが頭を支配した。


 学校で先生に当てられても、


「間違えたらどうしよう」


 友達に話しかける時も、


「嫌われたらどうしよう」


 いつしか私は、自分の気持ちよりも、相手の顔色ばかりを見るようになっていた。


     


 それでも、不思議だった。


 母は家の外では別人だった。


 病院へ忘れ物を届けに行った日。


 ナースステーションの向こうで働く母は、私の知っている母ではなかった。


「大丈夫ですよ」


「痛かったですね」


「もう少しで終わりますからね」


 優しい声だった。


 患者さんは安心したように笑っていた。


 同僚も母を信頼しているようだった。


「さすが桜木さん」


 そんな声まで聞こえてきた。


 私はその場に立ち尽くした。


 どうして。


 どうして、その優しさを私には向けてくれないの。


 患者さんには笑えるのに。


 私には笑ってくれないの。


 その答えは、いくら考えても分からなかった。


     


 だから私は決めた。


 看護師になろう。


 お母さんと同じ仕事をすれば、お母さんは私を認めてくれるかもしれない。


「頑張ったね」


 そう言ってくれる日が来るかもしれない。


 その一言が欲しくて、私は勉強した。


 眠い日も。


 苦しい日も。


 必死だった。


 国家試験に合格した日。


 私は合格通知を握りしめて母のところへ行った。


「受かったよ」


 母は通知を見て、小さく頷いた。


「そう」


 それだけだった。


 私は少し笑って言った。


「看護師になれたよ」


「ふーん」


 母はテレビから目を離さなかった。


 私は、その場で立ち尽くした。


 心のどこかで期待していた。


 褒めてもらえるって。


 抱きしめてもらえるって。


 「よく頑張ったね」


 そう言ってもらえるって。


 でも、その日は来なかった。


 きっと、一生来ない。


     


 カチ。


 また、あの音がした。


 私は現実へ引き戻される。


 時計の針は、午前零時一分。


 新しい一年が始まっていた。


 おめでとう。


 そんな言葉がテレビの向こうから聞こえる。


 でも、私には関係ない。


 私は一度も、「生まれてきてくれてよかった」と言われたことがない。


 そんな人間が、新しい一年を迎える意味なんてあるのだろうか。


 ロープを見つめる。


 もう、終わりにしよう。


 そう思った、その時だった。


 ──コン。


 今度の音は、さっきまでとは違っていた。


 短く。


 はっきりと。


 まるで、本当に誰かが玄関を叩いたような音だった。


 私は息を止める。


 部屋の静寂の中で、その音だけがいつまで響いていた。

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