決意の夜
私は、桜木ほたる、二十二歳。
部屋の壁に掛かった時計は、十二月三十一日、午後十一時五十三分を指していた。
あと数分で新しい年が来る。
街はきっと賑わっている。
窓の外からは笑い声が聞こえ、遠くで除夜の鐘が鳴り始めていた。
けれど、この部屋だけは別世界みたいに静かだった。
静かすぎて、自分の心臓の音だけが耳の奥で響いている。
机の上には、一枚の処方箋。
薬袋には、私の名前が印字されていた。
桜木ほたる
エスシタロプラム。
ロラゼパム。
デエビゴ。
どれも一週間以上、飲んでいない。
薬の横には、きれいに結び目を作ったロープ。
私はそれを見つめ、小さく息を吐いた。
「やっと終われる」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。
涙は出なかった。
ここ数か月、毎日のように泣いていたのに。
苦しくもなかった。
むしろ、久しぶりに息が吸えた気がした。
あと少し。
あと少し頑張れば、全部終わる。
その時だった。
──カチ。
小さな音がした。
私は顔を上げる。
玄関の方からだった。
誰かがドアをノックしたようにも聞こえた。
「……誰?」
返事はない。
インターホンのモニターを確認する。
誰も映っていない。
気のせいか。
最近は眠れているはずなのに、変な幻聴まで聞こえるようになったのだろうか。
私は苦笑してロープへ視線を戻した。
すると、不意に病院の匂いが鼻をかすめた気がした。
消毒用アルコール。
点滴の薬液。
病棟で毎日嗅いでいた匂い。
その匂いだけで、胃の奥がきりきりと痛み始める。
思い出したくない。
そう思うほど、記憶は勝手に蘇る。
今年の春。
私は大学を卒業し、看護師として働き始めた。
ナース服に袖を通した日。
胸には新品の名札。
家族も先生も、
「おめでとう」
と言ってくれた。
あの日の私は、本気で思っていた。
誰かの役に立てる看護師になろう、と。
配属された病院は都内の中規模病院だった。
同期は四人。
みんな社会人経験があり、落ち着いていて、自信があった。
私だけが、新卒だった。
最初は研修ばかりだった。
採血。
注射。
点滴。
記録。
電子カルテ。
学生の頃とは違う。
一つひとつの技術の向こうに、本物の患者さんがいる。
失敗は許されない。
そう思えば思うほど、手が震えた。
模擬腕に針を刺すだけなのに、汗が止まらない。
「そんなに緊張しなくても大丈夫」
教育担当の師長は笑っていた。
でも、私には笑えなかった。
みんなはできていた。
私だけができない。
その事実だけが頭の中で何度も繰り返された。
病棟へ配属されると、その差はもっとはっきりした。
同期は患者さんとも自然に話し、先輩とも笑っていた。
医師とも堂々と会話している。
私だけが、いつも立ち止まっていた。
カルテを書く手は遅く、
優先順位も分からず、
患者さんの名前を呼び間違え、
何をするにも一歩遅れる。
「桜木さん」
その一言だけで、肩が跳ねる。
呼ばれるたびに、
「また何か失敗した」
そう思うようになっていた。
家へ帰っても終わらない。
制服を脱いでも仕事は頭から離れなかった。
「あの点滴、本当に合ってたかな」
「記録を書き忘れてないかな」
「患者さんに失礼なこと言わなかったかな」
何度確認しても、不安だけは消えない。
眠ろうとして目を閉じても、病棟のナースコールが聞こえる気がした。
鳴っているはずのないコール音。
患者さんの呼ぶ声。
飛び起きて時計を見る。
夜中の三時。
夢だった。
そう分かっていても、胸の鼓動だけはしばらく収まらなかった。
私はまだ、この仕事に向いていない。
そんな言葉が、毎日少しずつ心の中に積もっていった。
最初に心が折れたのは、六月の蒸し暑い午後だった。
初めて、一人でインスリン注射を実施する日だった。
教科書では何度も勉強した。
動画も見た。
手順もノートにまとめた。
それでも怖かった。
人の命を相手に、「たぶん大丈夫」で済ませていい仕事じゃない。
だから私はプリセプターの佐藤さんに声を掛けた。
「佐藤さん。今日、初めてなので、一度だけ見学させてもらってもいいですか?」
佐藤さんはカルテから目も離さずに言った。
「なんで?」
短い一言だった。
私は思わず言葉に詰まる。
「……初めてなので、不安で」
その瞬間、佐藤さんは小さくため息をついた。
「普通、今まで見て覚えるよね?」
その声は決して大きくなかった。
でも、その場にいた看護師全員に聞こえた気がした。
「そんなことも分からないの?」
胸がぎゅっと締め付けられる。
「すみません」
私はそれしか言えなかった。
結局、その日は見学もなく、一人で実施した。
震える手で針を持ち、患者さんの腹部へ刺す。
患者さんは笑って言った。
「新人さん?」
「はい」
「最初は誰でも緊張するものよ。大丈夫よ」
その優しい言葉が、逆につらかった。
患者さんの方が、私を励ましてくれている。
私は看護師なのに。
それからだった。
佐藤さんの視線が怖くなった。
「遅い」
「まだ終わってないの?」
「ちゃんと勉強してる?」
一日に何度も言われる。
相談しても、
「そんなことも分からないの?」
で終わる。
だから聞けなくなった。
分からないまま仕事をする方が怖いのに、
聞くことの方がもっと怖かった。
仕事へ向かう朝。
制服を見るだけで胃が痛くなる。
病院へ近づくにつれて足が重くなる。
更衣室で着替えながら、
「帰りたい」
その言葉を何度飲み込んだだろう。
ある休日だった。
目は覚めている。
なのに起き上がれない。
体が鉛になったみたいだった。
ようやく起きてトーストを焼く。
一口食べる。
味がしない。
テレビをつける。
何も頭に入らない。
気が付くと涙が流れていた。
理由なんて分からなかった。
涙だけが止まらない。
「どうして……」
自分に聞いても答えはない。
気付けばスマートフォンを開いていた。
検索欄に打ち込む。
「精神科 当日受診」
画面が涙で滲む。
一番上に出てきたクリニックへ電話を掛けた。
「今日、診てもらえますか」
受付の女性は優しく答えた。
「もちろんです。十四時でしたらご案内できます」
その一言だけで、また涙が溢れた。
診察室は静かだった。
医師は私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。
「仕事がつらいです」
それだけ言った瞬間、
涙が止まらなくなった。
それまで我慢していたものが、一気に溢れ出した。
医師はティッシュを差し出して言った。
「よくここまで頑張ったね」
その言葉を聞いた瞬間、
少しだけ救われた気がした。
「適応障害ですね」
診断名を聞いても実感はなかった。
薬を処方され、
「無理なら休職も考えよう」
と言われた。
でも私は首を振った。
「休めません」
休んだら、
みんなに迷惑がかかる。
逃げる人間になってしまう。
だから薬だけ受け取って帰った。
薬を飲めば眠れた。
夜中に何度も目が覚めることはあったけれど、それでも以前よりは眠れるようになった。
だけど、朝になると涙は出た。
仕事へ行くのは苦しかった。
何も変わらなかった。
ある日、鏡を見ながら思った。
「本当に病気なのかな」
ご飯は食べられる。
眠れている。
仕事にも行けている。
私の中で、「精神科の患者」はもっと苦しそうな人だった。
だから私は違う。
先生は間違えたんだ。
私は甘えているだけなんだ。
そう思うようになった。
気付けば薬を飲まなくなっていた。
一日。
二日。
三日。
一週間。
それでも生きている。
それどころか、不思議なくらい心が軽かった。
理由は一つだった。
もう終わると決めたから。
十二月三十一日。
今日。
私は死ぬ。
そう決めた瞬間、
先輩の言葉も、
仕事も、
将来も、
全部どうでもよくなった。
時計を見る。
午後十一時五十九分。
あと一分。
私はロープを握り直した。
「これで終わり」
小さく呟く。
その瞬間だった。
カチ。
また、あの音がした。
さっきよりも近い。
玄関のすぐ向こう。
誰かが、
いる。
私は息を止めた。
インターホンは鳴らない。
声もしない。
なのに、
誰かがドアの向こうで私を待っている。
そんな気がしてならなかった。
ゆっくりと、私はドアノブへ手を伸ばす。
その手は、
ロープを握る手よりも震えていた。




