プロローグ
私は、病人にはなれなかった。
「もう良くなりました。薬も飲んでいません。大丈夫です」
最後の診察で、私はできるだけ明るく笑ってそう言った。
「そうか。本当に大丈夫? 無理してない? 大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないって言っていいんだよ」
返ってきた言葉は、思っていたものと違った。
「治ったなら、今日で終わりだね」
そう言われると思っていた。
少しだけ、嬉しかった。
「ご飯は食べられてる? 夜は眠れてる? 仕事には行けてる?」
「はい」
一日一食は食べている。
夜も眠れている。
三十分おきに目が覚めるし、なかなか寝つけない。眠れば悪夢ばかりで飛び起きる。だから眠ることは好きじゃない。それでも、眠れていることには変わりない。
仕事にも行っている。
毎朝、目は覚める。
けれど、鉛を抱えたように体は重く、布団から起き上がれない。
涙が止まらない朝もある。
せっかくしたメイクは流れてしまう。
それでも涙を拭いて、自分に言い聞かせる。
「頑張らなきゃ」
職場には病気で休んでいる人も、育児で大変な人もいる。
だから私は休めない。
社会人なんだから、これくらい当たり前なんだ。
「はい。本当に大丈夫です」
私はもう一度言った。
「治ったなら良かった。でも急だね。また調子が悪くなることもあるし、念のため一か月後に予約を──」
「いえ、大丈夫です」
先生の言葉を遮るように答えた。
「……そう。じゃあ、また辛くなったらおいで」
診察は、それで終わった。
先生は怒らなかった。
勝手に薬をやめたことも責めなかった。
やっぱり私は病気じゃなかったんだ。
本当に病気なら、きっと止められたはずだから。
でも先生は知らない。
どうして私が急に「治りました」と言い始めたのか。
十二月三十一日。
私は、その日ですべてを終わらせると決めた。
そう決めた瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。
先輩に何を言われても。
仕事をどれだけ押しつけられても。
「先輩があなたの悪口を言ってたよ」
そんな言葉さえ、どうでもよくなった。
あと少し頑張れば、全部終わる。
そう思えたから。
抗うつ薬も、抗不安薬も、鉄剤も、一週間近く飲んでいなかった。
それでも涙は出なかった。
朝も少しだけ体が軽かった。
私は思った。
ああ。
やっぱり私は病気じゃなかったんだ。
病気なら、薬をやめて元気になるはずがない。
最初から私は、精神科の患者なんかじゃなかった。
病人になりたかっただけなんだ。
病気だと言われれば、自分を許せる気がしていた。
「もう頑張らなくていい」
誰かにそう言ってほしかった。
でも、それは叶わなかった。
私の中で、精神科の患者とは、ご飯も食べられず、眠ることもできず、仕事にも行けない人だった。
私は違う。
だから病気じゃない。
ただ弱いだけ。
ただ怠けているだけ。
私は、病人にはなれなかった。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
あと少しで、全部終わる。
もう頑張らなくていい。
病人になれなくても。
私は、この世界からいなくなるのだから。




