大晦日
十二月三十一日。
一年の最後の日。
テレビからは年末特番の賑やかな笑い声が聞こえていた。
「今年もあと数時間ですね!」
司会者の明るい声が部屋に響く。
私は静かにテレビの電源を切った。
部屋は、一瞬で静寂に包まれた。
時計の針だけが、カチ、カチ、と音を立てて進んでいる。
世の中は新しい年を迎えようとしているのに、私だけが時間から取り残されているようだった。
カーテンを開ける。
窓の外では、小さな子どもが笑いながら走っていた。
買い物帰りの夫婦。
犬の散歩をする老人。
恋人同士らしい男女。
みんな当たり前のように生きている。
どうして私だけ、生きることがこんなに苦しいんだろう。
私はガラス越しに自分の顔を見た。
目の下には濃い隈。
痩せた頬。
笑い方も忘れてしまった顔。
「誰……?」
思わず口からこぼれた。
鏡に映る私は、私なのに、私じゃないように見えた。
机の上には薬が並んでいた。
エスシタロプラム。
ロラゼパム。
デエビゴ。
飲み忘れないようにと、毎日決まった時間に飲み続けた薬。
それでも私は治らなかった。
「病気なら治してよ……」
誰に向かって言ったのかわからない。
神様なのか。
先生なのか。
薬なのか。
それとも、自分自身なのか。
答える人はいなかった。
スマホを開く。
通知はほとんど来ていない。
母から一通。
『年末だから帰ってこないの?』
私は画面を見つめるだけだった。
帰れるはずがない。
「産まなきゃ良かった」
あの言葉を忘れられないまま、
笑顔で実家へ帰ることなんてできなかった。
返信せずに画面を閉じる。
そのまま彼氏とのトーク画面を開いた。
最後のメッセージは三日前。
『大丈夫?』
その一言だけ。
私は何度も返信を書いては消した。
「大丈夫じゃない」
「助けて」
「苦しい」
「死にたい」
全部消した。
結局、一文字も送れなかった。
こんな重たい言葉を送ったら、きっと困らせてしまう。
そう思った。
夕方になると、部屋は少しずつ暗くなっていった。
電気をつける気にもなれない。
薄暗い部屋の中で、私は床に座り込んだ。
静かだった。
静かすぎた。
こんなにも静かなのに、
頭の中だけはうるさい。
「世界一のブス」
「ブルドッグ」
「産まなきゃ良かった」
「看護師がそんなんでどうするの?」
「価値がない」
何十人もの声が一斉に私を責め続ける。
耳を塞いでも聞こえる。
目を閉じても消えない。
私は頭を抱えてうずくまった。
「もうやめて……」
涙が止まらなかった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
ふと時計を見ると、午後九時を過ぎていた。
外では年越しの準備が始まっている。
どこか遠くで花火の音が聞こえた。
新しい一年。
希望に満ちた一年。
そんな言葉がテレビから何度も流れていたことを思い出す。
私には関係なかった。
私には、明日なんていらない。
そう思った瞬間だった。
「ほたる」
また、あの声が聞こえた。
今までよりも、ずっと近く。
まるで隣に誰かが立っているように。
私はゆっくりと顔を上げる。
部屋には誰もいない。
それでも、確かに聞こえた。
「ほたる」
私は震えながら立ち上がった。
「……誰?」
返事はない。
静寂だけが部屋を満たしている。
だけど私は、その声に導かれるように、押し入れへ向かって歩き始めた。
まるで、何かに呼ばれているように。
まるで、そこに答えがあると知っているように——。
押し入れの前に立つ。
私はしばらく動けなかった。
胸の奥がざわつく。
「本当に、これで終わるの?」
誰に問いかけたのかわからない。
返事はなかった。
静かな部屋に、時計の針だけが時を刻んでいる。
私は部屋をゆっくり見渡した。
小さなテーブル。
読みかけの本。
洗い終わっていないマグカップ。
脱ぎっぱなしの上着。
ほんの数か月前までは、仕事へ行くために慌ただしく身支度をしていた部屋だった。
あの頃の私は、未来を信じていた。
看護師として成長したい。
患者さんの役に立ちたい。
母に認められたい。
誰かに必要とされたい。
そんな小さな夢を、たくさん抱えていた。
でも、その夢は一つずつ壊れていった。
気づけば、何も残っていなかった。
スマートフォンが震えた。
画面には彼の名前が表示されていた。
私はしばらく見つめた。
電話に出れば、何かが変わるのだろうか。
「もしもし」
その一言さえ言えなかった。
画面が暗くなり、着信は途切れた。
数秒後、メッセージが届く。
『また連絡して。心配してるよ』
私は返信画面を開く。
何度も文字を打つ。
「助けて」
「苦しい」
「もう限界」
指が止まる。
結局、すべて消した。
彼まで苦しませたくなかった。
その優しささえ、今の私には重荷だった。
部屋の隅に置かれた鏡に目が留まる。
映っていたのは、疲れ切った一人の女性。
私は鏡へ近づいた。
「あなたは誰?」
鏡の中の私は答えない。
「桜木ほたる」
そう呟いてみる。
少しだけ違和感があった。
自分の名前のはずなのに、どこか遠くの誰かを呼んでいるような、不思議な感覚。
その違和感は一瞬で消えた。
疲れているだけ。
そう自分に言い聞かせた。
「ほたる」
また、あの声が聞こえた。
今度は、すぐ耳元だった。
優しく、穏やかで、どこか懐かしい声。
「もう頑張らなくていい」
私は涙があふれた。
今まで、そんな言葉をかけられたことがあっただろうか。
母にも。
学校でも。
職場でも。
誰も言ってくれなかった。
だから私は、その声だけを信じた。
窓の外では、新しい年を迎える準備が進んでいた。
遠くから笑い声が聞こえる。
誰かが「よいお年を」と話している。
世界は今日も動いている。
私だけを置き去りにしたまま。
私は静かに目を閉じた。
心の中では、これまで出会った人たちの顔が浮かんでは消えていく。
幼い頃の自分。
母。
梨花。
翔太。
佐藤さん。
師長。
患者さん。
彼。
そして、涙を流している今の自分。
「ごめんなさい……」
その言葉だけが、静かな部屋に溶けていった。
その瞬間だった。
玄関のチャイムが鳴った。
一回。
二回。
三回。
返事はしなかった。
今度はドアを叩く音が響く。
「ほたる!」
誰かが私の名前を呼んでいる。
聞き覚えのある声だった。
私は立ち止まる。
助けを求めれば、まだ間に合うのかもしれない。
そう思った。
だけど、体は動かなかった。
私はただ、その場に立ち尽くしていた。
「ほたる!」
もう一度、強く名前を呼ぶ声。
その声と重なるように、頭の中で、あの優しい声が囁く。
「ほたる」
二つの声が交差する。
現実と記憶。
希望と絶望。
私はゆっくり目を閉じた。
そして――。
部屋は再び静寂に包まれた。
この静寂の先で待っている出来事が、私自身の人生を根底から覆すことになるとは、この時の私は、まだ知る由もなかった。




