目覚め
暗闇だった。
何も見えない。
何も聞こえない。
私は、死んだのだと思った。
苦しさも痛みもない。
ただ、静かな闇だけが続いている。
これで終われた。
そう思った。
不思議と恐怖はなかった。
やっと全部終わった。
その安堵だけが、心を満たしていた。
──ピッ……ピッ……ピッ……
どこか遠くで、規則正しい電子音が聞こえた。
(……何の音?)
少しずつ意識が浮かび上がってくる。
まぶたが重い。
体も鉛のように重かった。
私はゆっくりと目を開けた。
真っ白な天井。
薬品のような匂い。
カーテン。
点滴。
ベッドの柵。
「……病院?」
声はかすれて、ほとんど音にならなかった。
私は、生きている。
その事実を理解するまでに、何秒もかかった。
どうして。
どうして私は生きているの?
病室のドアが開いた。
「先生! 目を覚まされました!」
若い女性の声が聞こえた。
看護師だ。
しばらくして白衣を着た男性が入ってくる。
五十代くらいだろうか。
眼鏡をかけた穏やかな雰囲気の医師だった。
「おはようございます」
私は反射的に答えようとした。
「……おはようございます」
声はほとんど出なかった。
医師は優しく笑った。
「わかりますか? ここは病院です」
「はい……」
「お名前を教えていただけますか?」
そんなの決まっている。
私はゆっくり答えた。
「桜木……ほたるです」
医師は一瞬だけ表情を止めた。
ほんの一瞬。
でも、その小さな違和感を私は見逃さなかった。
「年齢は?」
「二十二歳です」
「お仕事は?」
「看護師です」
医師は静かに頷きながらメモを取っている。
でも、部屋の空気が少しおかしかった。
何かが噛み合っていない。
そんな違和感だけが胸に残る。
その時だった。
病室の外が少し騒がしくなった。
「まだ面会は……」
「お願いします! 一目だけでいいんです!」
若い女性が泣いている声だった。
聞いたことがない声。
でも、その必死さだけは伝わってくる。
「穂波……!」
私は眉をひそめた。
(穂波……?)
誰のこと?
知らない名前だった。
医師は看護師へ目配せすると、静かにドアを閉めた。
「今は安静にしてください」
私は首を傾げる。
「先生……」
「なんでしょう?」
「穂波って……誰ですか?」
その瞬間。
部屋の空気が凍った。
医師も看護師も言葉を失っていた。
私はさらに混乱した。
「私は桜木ほたるです。看護師一年目です。今日、仕事は……?」
最後まで言えなかった。
医師はゆっくり息を吐く。
そして、穏やかな声で言った。
「焦らなくて大丈夫です」
その優しさが、逆に私を不安にさせた。
病室の時計を見る。
日付は、一月三日。
(三日……?)
私は確かに大晦日の夜を覚えている。
そこから先の記憶だけがない。
「私は何日寝ていたんですか?」
「三日です」
「そうですか……」
頭がぼんやりする。
でも、一番理解できないのは別のことだった。
なぜ、みんな私を知らないような顔をするのだろう。
私は看護師なのに。
病院には慣れているはずなのに。
目の前の看護師も医師も、初めて会う人ばかりだった。
勤務先じゃないから?
救急搬送されたから?
そう自分を納得させようとした。
しかし、その違和感は消えなかった。
廊下の向こうから、再び泣き声が聞こえる。
「穂波……お願い……」
その名前を聞くたびに、胸がざわつく。
知らないはずなのに。
どこかで聞いたことがあるような。
でも思い出せない。
私は目を閉じた。
頭の中に浮かぶのは、いつもの景色だけだった。
病棟。
佐藤さん。
師長。
患者さん。
母。
翔太。
梨花。
そして、
桜木ほたる。
それ以外は、何一つ思い出せなかった。
その時、私はまだ知らなかった。
自分が失ったものが、たった数日間の記憶ではなく、
人生そのものだったことを。
「先生…」
私は静かに口を開いた。
「どうして、みんな私のことをそんな顔で見るんですか?」
病室には沈黙が流れた。
医師はしばらく考えるように目を伏せ、小さく息を吐いた。
「少しずつ、お話しします」
その言葉が、なぜか怖かった。
知らない方が幸せなことなんて、本当にあるのかもしれない。
そんなことを、生まれて初めて思った。
病室のドアがゆっくり開いた。
中に入ってきたのは、一人の女性だった。
目は真っ赤に腫れ、何日も眠っていないような顔をしている。
私を見るなり、その人は涙を流した。
「……穂波」
誰だろう。
知らない。
知らないはずなのに。
胸の奥だけが、ぎゅっと締めつけられた。
「ごめんなさい」
私は頭を下げた。
「人違いです」
女性は首を横に振る。
「違わない」
震える声だった。
「あなたは……櫻木穂波」
その名前が、病室に静かに落ちた。
私は困ったように笑う。
「違います。私は桜木ほたるです」
「…」
「看護師一年目です。消化器外科で働いています。プリセプターは佐藤さんです」
私は当たり前のように答えた。
全部、本当のことだった。
少なくとも、私の中では。
女性は泣き崩れた。
その姿を見ても、私は何も思い出せなかった。
医師が静かに椅子へ腰掛けた。
「あなたは、看護師ではありません」
私は笑った。
冗談だと思った。
「先生、何を言ってるんですか!私は毎日働いていました。患者さんの採血もしました。夜勤もしました。精神科にも通っていました。」
「……」
「全部覚えています」
医師は静かに頷く。
「あなたが覚えていることは、あなたにとって本物です。ですが……」
そこで言葉を切った。
そして、机の上に一冊の雑誌を置いた。
表紙には、一人の女性が写っていた。
私は思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、
私だった。
でも違う。
綺麗に整えられた髪。
華やかな笑顔。
スポットライトを浴びて笑っている。
写真の横には、大きく名前が書かれていた。
『新人女優 櫻木穂波』
私は首を横に振る。
「違う」
ページをめくる。
映画の写真。
ドラマの写真。
インタビュー記事。
全部、私だった。
知らない服。
知らない景色。
知らない笑顔。
何も覚えていない。
「違う……」
私は震え始めた。
「こんなの知らない。私は桜木ほたる。私は看護師」
「私は……」
頭が割れるように痛んだ。
医師は静かに話し始めた。
「あなたは、一年半かけて一本の映画を撮影していました。役名は、桜木ほたる。壮絶ないじめや家庭環境、恋愛、そして精神疾患と向き合う新人看護師を演じる作品でした」
私の呼吸が止まる。
「役作りのため、あなたは看護学校へ取材に行き、病院で研修を受け、多くの看護師や患者さんから話を聞きました」
「……」
「日記を書き続け、自分を『桜木ほたる』だと思い込む生活を続けました」
「……」
「それほどまでに、本気で役と向き合っていたんです」
私は耳を塞いだ。
聞きたくなかった。
そんな話。
全部嘘だ。
全部。
「映画の撮影は、三日前に終わっていました。しかし……」
医師は苦しそうに目を閉じた。
「あなたは、役から抜け出せませんでした」
私は思い出そうとした。
でも何も浮かばない。
母。
翔太。
梨花。
佐藤さん。
師長。
患者さん。
全部ある。
でも、
櫻木穂波はいない。
空っぽだった。
「私は誰ですか」
気づけば、そう呟いていた。
誰も答えられなかった。
病室は静まり返る。
医師も。
涙を流す女性も。
看護師も。
誰も言葉を発しない。
私はもう一度、小さく呟いた。
「私は……誰ですか」
窓の外では、新しい一年の朝日が昇っていた。
世界は何事もなかったように動き続ける。
だけど私だけは、
時間の中に取り残されていた。
私には、
桜木ほたるとして生きた二十二年間しか存在しない。
それが作られた人生だと言われても、
涙を流した記憶も、
誰かを愛した記憶も、
傷ついた記憶も、
患者さんの手を握った温もりも、
全部、確かにそこにある。
ならば、
偽物とは何なのだろう。
本物とは何なのだろう。
私は桜木ほたるなのか。
それとも櫻木穂波なのか。
その答えを、
私は最後まで思い出すことはなかった。




