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乖離  作者: 霜月希侑
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11/12

目覚め


暗闇だった。


何も見えない。


何も聞こえない。


私は、死んだのだと思った。


苦しさも痛みもない。


ただ、静かな闇だけが続いている。


これで終われた。


そう思った。


不思議と恐怖はなかった。


やっと全部終わった。


その安堵だけが、心を満たしていた。




──ピッ……ピッ……ピッ……


どこか遠くで、規則正しい電子音が聞こえた。


(……何の音?)


少しずつ意識が浮かび上がってくる。


まぶたが重い。


体も鉛のように重かった。


私はゆっくりと目を開けた。


真っ白な天井。


薬品のような匂い。


カーテン。


点滴。


ベッドの柵。


「……病院?」


声はかすれて、ほとんど音にならなかった。


私は、生きている。


その事実を理解するまでに、何秒もかかった。


どうして。


どうして私は生きているの?




病室のドアが開いた。


「先生! 目を覚まされました!」


若い女性の声が聞こえた。


看護師だ。


しばらくして白衣を着た男性が入ってくる。


五十代くらいだろうか。


眼鏡をかけた穏やかな雰囲気の医師だった。


「おはようございます」


私は反射的に答えようとした。


「……おはようございます」


声はほとんど出なかった。


医師は優しく笑った。


「わかりますか? ここは病院です」


「はい……」


「お名前を教えていただけますか?」


そんなの決まっている。


私はゆっくり答えた。


「桜木……ほたるです」


医師は一瞬だけ表情を止めた。


ほんの一瞬。


でも、その小さな違和感を私は見逃さなかった。




「年齢は?」


「二十二歳です」


「お仕事は?」


「看護師です」


医師は静かに頷きながらメモを取っている。


でも、部屋の空気が少しおかしかった。


何かが噛み合っていない。


そんな違和感だけが胸に残る。




その時だった。


病室の外が少し騒がしくなった。


「まだ面会は……」


「お願いします! 一目だけでいいんです!」


若い女性が泣いている声だった。


聞いたことがない声。


でも、その必死さだけは伝わってくる。


「穂波……!」


私は眉をひそめた。


(穂波……?)


誰のこと?


知らない名前だった。




医師は看護師へ目配せすると、静かにドアを閉めた。


「今は安静にしてください」


私は首を傾げる。


「先生……」


「なんでしょう?」


「穂波って……誰ですか?」


その瞬間。


部屋の空気が凍った。


医師も看護師も言葉を失っていた。


私はさらに混乱した。


「私は桜木ほたるです。看護師一年目です。今日、仕事は……?」


最後まで言えなかった。


医師はゆっくり息を吐く。


そして、穏やかな声で言った。


「焦らなくて大丈夫です」


その優しさが、逆に私を不安にさせた。




病室の時計を見る。


日付は、一月三日。


(三日……?)


私は確かに大晦日の夜を覚えている。


そこから先の記憶だけがない。


「私は何日寝ていたんですか?」


「三日です」


「そうですか……」


頭がぼんやりする。


でも、一番理解できないのは別のことだった。


なぜ、みんな私を知らないような顔をするのだろう。


私は看護師なのに。


病院には慣れているはずなのに。


目の前の看護師も医師も、初めて会う人ばかりだった。


勤務先じゃないから?


救急搬送されたから?


そう自分を納得させようとした。


しかし、その違和感は消えなかった。




廊下の向こうから、再び泣き声が聞こえる。


「穂波……お願い……」


その名前を聞くたびに、胸がざわつく。


知らないはずなのに。


どこかで聞いたことがあるような。


でも思い出せない。


私は目を閉じた。


頭の中に浮かぶのは、いつもの景色だけだった。


病棟。


佐藤さん。


師長。


患者さん。


母。


翔太。


梨花。


そして、


桜木ほたる。


それ以外は、何一つ思い出せなかった。


その時、私はまだ知らなかった。


自分が失ったものが、たった数日間の記憶ではなく、


人生そのものだったことを。




「先生…」


私は静かに口を開いた。


「どうして、みんな私のことをそんな顔で見るんですか?」


病室には沈黙が流れた。


医師はしばらく考えるように目を伏せ、小さく息を吐いた。


「少しずつ、お話しします」


その言葉が、なぜか怖かった。


知らない方が幸せなことなんて、本当にあるのかもしれない。


そんなことを、生まれて初めて思った。




病室のドアがゆっくり開いた。


中に入ってきたのは、一人の女性だった。


目は真っ赤に腫れ、何日も眠っていないような顔をしている。


私を見るなり、その人は涙を流した。


「……穂波」


誰だろう。


知らない。


知らないはずなのに。


胸の奥だけが、ぎゅっと締めつけられた。


「ごめんなさい」


私は頭を下げた。


「人違いです」


女性は首を横に振る。


「違わない」


震える声だった。


「あなたは……櫻木穂波」


その名前が、病室に静かに落ちた。


私は困ったように笑う。


「違います。私は桜木ほたるです」


「…」


「看護師一年目です。消化器外科で働いています。プリセプターは佐藤さんです」


私は当たり前のように答えた。


全部、本当のことだった。


少なくとも、私の中では。


女性は泣き崩れた。


その姿を見ても、私は何も思い出せなかった。




医師が静かに椅子へ腰掛けた。


「あなたは、看護師ではありません」


私は笑った。


冗談だと思った。


「先生、何を言ってるんですか!私は毎日働いていました。患者さんの採血もしました。夜勤もしました。精神科にも通っていました。」


「……」


「全部覚えています」


医師は静かに頷く。


「あなたが覚えていることは、あなたにとって本物です。ですが……」


そこで言葉を切った。


そして、机の上に一冊の雑誌を置いた。




表紙には、一人の女性が写っていた。


私は思わず息を呑んだ。


そこにいたのは、


私だった。


でも違う。


綺麗に整えられた髪。


華やかな笑顔。


スポットライトを浴びて笑っている。


写真の横には、大きく名前が書かれていた。


『新人女優 櫻木穂波』


私は首を横に振る。


「違う」


ページをめくる。


映画の写真。


ドラマの写真。


インタビュー記事。


全部、私だった。


知らない服。


知らない景色。


知らない笑顔。


何も覚えていない。


「違う……」


私は震え始めた。


「こんなの知らない。私は桜木ほたる。私は看護師」


「私は……」


頭が割れるように痛んだ。




医師は静かに話し始めた。


「あなたは、一年半かけて一本の映画を撮影していました。役名は、桜木ほたる。壮絶ないじめや家庭環境、恋愛、そして精神疾患と向き合う新人看護師を演じる作品でした」


私の呼吸が止まる。


「役作りのため、あなたは看護学校へ取材に行き、病院で研修を受け、多くの看護師や患者さんから話を聞きました」


「……」


「日記を書き続け、自分を『桜木ほたる』だと思い込む生活を続けました」


「……」


「それほどまでに、本気で役と向き合っていたんです」


私は耳を塞いだ。


聞きたくなかった。


そんな話。


全部嘘だ。


全部。


「映画の撮影は、三日前に終わっていました。しかし……」


医師は苦しそうに目を閉じた。


「あなたは、役から抜け出せませんでした」




私は思い出そうとした。


でも何も浮かばない。


母。


翔太。


梨花。


佐藤さん。


師長。


患者さん。


全部ある。


でも、


櫻木穂波はいない。


空っぽだった。




「私は誰ですか」


気づけば、そう呟いていた。


誰も答えられなかった。


病室は静まり返る。


医師も。


涙を流す女性も。


看護師も。


誰も言葉を発しない。


私はもう一度、小さく呟いた。


「私は……誰ですか」


窓の外では、新しい一年の朝日が昇っていた。


世界は何事もなかったように動き続ける。


だけど私だけは、


時間の中に取り残されていた。


私には、


桜木ほたるとして生きた二十二年間しか存在しない。


それが作られた人生だと言われても、


涙を流した記憶も、


誰かを愛した記憶も、


傷ついた記憶も、


患者さんの手を握った温もりも、


全部、確かにそこにある。


ならば、


偽物とは何なのだろう。


本物とは何なのだろう。


私は桜木ほたるなのか。


それとも櫻木穂波なのか。


その答えを、


私は最後まで思い出すことはなかった。


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