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乖離  作者: 霜月希侑
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12/12

エピローグ


あれから数か月が過ぎた。


私は、桜木ほたるとして生活していた。


朝、目を覚ます。


カーテンを開ける。


歯を磨く。


顔を洗う。


薬を飲む。


朝食を食べる。


それだけの、ごく普通の生活。


以前のように、朝から涙が止まらなくなることは少なくなった。


それでも、時々胸が重くなる。


理由はわからない。


でも、そんな日は無理をしない。


散歩をする。


温かい飲み物を飲む。


早めに眠る。


入院中に覚えた「自分を休ませる方法」を、少しずつ試していた。




仕事には戻っていない。


看護師一年目の私は、まだ休職中ということになっている。


病院から届いた書類には、


『復職時期については、主治医と相談の上決定します』


と書かれていた。


それを見るたび、胸が少しだけ痛む。


看護師として働きたい気持ちは、まだ残っている。


患者さんの手を握ったこと。


夜勤の静かな廊下。


ナースコールの音。


それらを思い出すと、懐かしさと苦しさが同時に押し寄せる。


でも今は、まだ戻れない。


そのことを、以前より少しだけ受け入れられるようになっていた。




私は時々、鏡を見る。


そこには、桜木ほたるが映っている。


疲れた顔。


少し痩せた頬。


でも、以前より穏やかな目。


「ほたる」


自分の名前を呼んでみる。


違和感はない。


私は桜木ほたる。


それが私の名前。


それ以外の名前は、知らない。




ある日、テレビをつけると、映画の特集が流れていた。


新人女優の特集らしい。


画面には、一人の女性が映っていた。


長い髪。


華やかな笑顔。


スポットライトを浴びている。


その顔を見た瞬間、胸が少しだけざわついた。


でも、すぐに消えた。


「綺麗な人だな」


私はそう呟いて、テレビのチャンネルを変えた。


その女性が誰なのか。


なぜ胸がざわついたのか。


私は考えなかった。




夜。


ベッドに横になる。


窓の外には、静かな月が浮かんでいる。


私は目を閉じる。


頭の中には、これまでの記憶が浮かぶ。


母。


梨花。


翔太。


佐藤さん。


師長。


患者さん。


中村さん。


入院生活。


そして、桜木ほたる。


それが私の人生。


それだけが私の人生。




時々、夢を見る。


知らない場所。


知らない人たち。


眩しい光。


拍手。


誰かが私を呼んでいる。


「穂波」


その名前を聞くと、胸が締めつけられる。


でも、目を覚ますと忘れてしまう。


夢だったのだと思う。


知らない誰かの夢。




私は今日も生きている。


桜木ほたるとして。


看護師一年目として。


少しずつ、ゆっくりと。


失った記憶を取り戻すことはない。


櫻木穂波という名前を思い出すこともない。


それでも、私は生きている。


朝が来れば目を覚まし、


夜になれば眠る。


笑う日もある。


泣く日もある。


苦しい日もある。


それでも、明日を迎える。


私は桜木ほたる。


それが、私の人生。


たとえ、それが誰かが作った人生だったとしても。


たとえ、もう一つの人生を失っていたとしても。


今の私にとっては、


これが本物の人生だった。


そして私は、今日もその人生を生きている。


桜木ほたるとして。

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