目覚め
サラは重い瞼をゆっくりと開いた。
暗い室内はアルコールランプの温かな光に包まれている。静寂の中、男の話し声が微かに聞こえた。声は何処か抑え気味で、何を話しているかまでは分からない。
「旦那様……?」
ふと口から出たのはとある男のことだった。記憶が夢の中の過去と混ざり合い、自分という存在が朧気になっている。今の私は誰で、此処は何処なのか。
サラは寝ぼけたまま上体を起こした。先程の部屋の来客用のソファーで、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。身体にはウールのブランケットが掛けられている。
「あ、サラちゃん。起きたね?」
近くにあるカウンターの椅子に腰掛けていたカミーユが、サラが起きたことに気付いて声を掛けた。カウンター奥にはレーヴも居る。先程とは違い、長く伸びた髪は後ろで結われて整えられていた。
「私……」
「話をしてるときに寝ちゃったんだよ。慣れない長旅と緊張で、きっと疲れちゃってたんだね。そろそろ起こそうかって話してたところで……」
「私、許可なく眠ってしまって……」
此方を見つめるサラの瞳を見て、カミーユは思わず言葉を失った。初めて会ったときの、暗く沈んだ絶望の瞳がじっと此方を見ている。夢の中に現れた過去の残滓は、たった1年過ごしただけの現在をいとも簡単に飲み込んでしまうのだ。
「サラちゃん……」
言葉を詰まらせるカミーユより先に動いたのはレーヴだった。手にカップを持ちながらカウンターから出ると、サラにそのカップを手渡す。両手で包み込むように持ったカップからは温かな湯気が立ち上り、甘く優しいミルクの香りがふわりと広がった。
「ホットミルクだ。飲め」
ぶっきらぼうな物言いだが、その声音は先程とは違って優しく穏やかだ。サラは言われた通りカップに口を付けようとするが、
「熱いからな。ちゃんと冷ましてから飲めよ」
既のところで止まって、ふぅ、ふぅとカップに息を吹きかける。そして恐る恐る口にすると、口の中いっぱいに広がる優しい甘さと程よい温かさに、沈んだ心が包み込まれるような感覚がした。
「甘い……」
「蜂蜜入りだ。心を落ち着かせるのにも、身体を温めるのにもよく効く。火傷しないようにゆっくり飲めよ?」
サラは小さく頷くと、ふぅ、ふぅと冷ましながらホットミルクを飲んだ。じわじわと、身体の中から温かくなるのを感じる。
「怖い夢を見ただけだ。此処にはお前に酷いことを言う奴も、酷いことをしてくるような奴も居ない。……大丈夫だ」
そう言うと、レーヴはサラの頭を撫でた。慣れていないのか、手の動きは何処かぎこち無い。でもそれが、サラにとっては忘れかけていた大切なことを、思い出すきっかけになる。
「あの、もしかして……」
「何だ?」
あのとき、私を、
そう言い掛けて、止めた。
「何でもないです」
「……そうか」
レーヴはカウンターへと戻っていく。そこでカミーユと目が合い、カミーユがニヤニヤと笑っていることに気付いた。
「何だ、気色悪い笑い方しやがって」
「いやいや、酷いこと言うなぁ。……ただ、良かったなぁって思ってさ」
「何が」
「此処に、サラちゃんを連れてきて。僕の我が儘と急な思い付きで二人を振り回しちゃったけど、此処に連れてくるって判断自体は……間違ってなかったんだなぁって思った」
「振り回したことは大いに反省しろ。それにまだ、問題が解決した訳じゃない」
「うん、まぁね」
サラが眠っている間に、事情の説明は粗方済ませた。レーヴから一応の理解は得られて、それだけでも今日は収穫があったと言える。
「あとは相手の出方次第かな。すんなり諦めてくれたりしたら一番良いんだけど」
「そうはいかないだろうな。そこで諦めるような奴なら、ここまで頭を悩ませる必要もない」
そうだよねー、と言いながら、カミーユはぐぅっと背筋を伸ばした。問題は山積みだが、考えても今はどうすることも出来ない。
「取り敢えずは夕飯にしよう!お腹空いた!」
「寝床の準備もしないとな…」
そう言って、レーヴは今日何度目かも分からない溜息を吐いた。




