表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/18

カモミールティー2


 キシ、キシと二階の床の軋む音が聞こえて、レーヴはカウンターに置いていたアルコールランプを手に持つと、そのまま階段下に向かった。アルコールランプの淡い明かりが、上階から下りてくるサラの足元を照らし出す。サラの足はその場で止まり、微かに見える表情は何処か物憂げだ。その姿は言い付けを守らなかったことを叱られるのではと、不安に駆られる子供のようで。


 レーヴは少し考えてから、


「眠れないならお茶でも飲むか?」


 と、夜のお茶会に招待する。


 サラが階段下まで下りると、珈琲のほろ苦い香りが微かに漂っていた。座るように言われたカウンター席に着くと、空になったカップが一つ置かれたままになっている。


 そこでサラは辺りを見回して、あることに気付いた。その様子を見ていたレーヴは、サラの言いたいことを察して端的にだが説明する。


「カミーユなら急用が出来たらしい。恐らく戻るのは早くても朝方だろう」


 さっきの扉の音はカミーユが出ていったときのものだったのかと、サラは一人納得した。こんな時間に何処へ行ったのか気にはなったが聞けなかった。


 少しの沈黙が続く中、レーヴはカウンター下から金属製のキャニスターを取り出す。珈琲豆や紅茶の茶葉を保存するのによく使われるそれを開けると、ふんわりと青リンゴに似た甘く爽やかな香りが広がった。


「ハーブティーを飲んだことはあるか?」


「普通の紅茶なら、何度か……」


 レーヴはそうか、とだけ返すと中の乾燥したカモミールの花をティーポットに適量計り入れる。そしてスピリットケトルで沸かしていたお湯をゆっくり注ぎ入れた。立ち上る湯気と共に、甘く優しい香りがふわりと辺りを包み込む。


「カモミールティーにはリラックス効果と安眠効果があるらしい。貰い物なんだが飲む機会も中々なくて持て余してたんだが……」


 丁度良かったと、レーヴは蒸らす時間を手持ちの懐中時計で確認しながら語った。それからまた、少しの間沈黙が続く。サラは何かを話さなくてはと口を開いたが、何を言えば良いのか分からず口を閉じて、また開くを数回繰り返した。


 やがて諦めて下を向くと、カウンター奥から伸びてきた人差し指がサラの額を軽く突く。反射的に顔を上げると、カウンターに手を着いたレーヴが此方を見ていた。


「困ったらすぐ下を向く」


 サラの身体がビクリと揺れた。


「……ごめんなさい」


「別に、咎めてる訳じゃない」


 レーヴは姿勢を元に戻すと、少し考えてから躊躇いがちに続けた。瞳はアルコールランプの炎をじっと見つめている。


「昔、お前と似た雰囲気の奴と会ったことがある。何かを言おうとしてるのにすぐ口を閉じて、困ると下を向く。そしていつも……何かに怯えてた」


 アルコールランプの揺らめきが一瞬、レーヴの瞳の揺らぎに見えて、泣いているかのように錯覚する。


「何でそうなったのか、何に怯えているのか、その後俺も知ることになる訳だ。痛感したよ。言いたいことも言えない。抑圧された生活の中で、人はこんな風に意思や感情を殺されるんだって」


 サラはその瞬間察した。


「レーヴさんも、奴隷だったの?」


 同じ痛みを負っているんだと。


「そうだよ。俺も奴隷だった。お前より大分短い間だけどな。運良く革命が起こる前に助け出されて、今こうやって暮らしてる」


 レーヴはそこまで話すと、用意していたティーカップにカモミールティーを注いでいく。


「だからお前のことを全て分かってやれるとまでは言わないが、概ね理解は出来る。自分の思っていることを、言葉にするのがどれだけ難しいか。機嫌を損ねないように相手の顔色を伺っている内に、自分の心を仕舞っておいた方が、自分の身を守れることを悟ったんだろう」


 抑えの効いた声には、何処か苛立ちと遣る瀬無さ、そして目の前の少女に対する憐憫が込められていた。


「そうやって分厚い殻に自分を閉じ込めて、いつしか感情も言葉も表に出せなくなっていく。言葉自体は一度覚えたら何年経っても身体に染み付いているのに、使い方は案外忘れるもんだ」


 レーヴの言葉を、サラは静かに聞いていた。言葉の一つ一つが、心の中にじんわりと広がっていく。自分ですら理解出来ない心の内を解かれていくような、そんな不思議な感覚に包まれる。


「そんな話してたら、折角淹れたお茶が冷めるな」


 そう言って目の前に置かれたカモミールティーを、サラはじっと見つめた。ゆらゆらと揺れる琥珀色の波紋が徐々に落ち着き、自分の顔が映り込む。心はこんなに揺らいでいるのに、表情はいつもと変わらない。こんなときに少しでも何か変われたら、とサラは思った。


 するとレーヴが、サラ、と呼んだ。ちゃんと名前を呼ばれたのはそれが初めてだった。サラは視線をレーヴに移す。


「長く話したが、要するに余り悩むなってことだ。此処には変わることを強要してくる奴も、急かしてくるような奴も居ない。だからお前はお前のスピードで、ゆっくり自分自身を見つめ直せば良い。カミーユもそう思ったから、お前をこの町に連れて来たんだろうしな」


 ラヴァンド・ド・メールは良い町だ。大き過ぎず、喧騒的な首都より流れる時間は穏やかで、でも確かな活気がある。住む人々は明るく親切で、しかし踏み入ることはし過ぎない。それぞれの生きる時間を、それぞれが大切にしているからだ。


 サラはカップを持つと、ホットミルクのときのようにふぅ…ふぅ、と優しく息を吹き掛ける。そしてそっとカップに口を付けた。次の瞬間、カモミールティー特有の甘く爽やかな香りが鼻腔を抜ける。


「……美味しい」


「そうか、なら良かった」


 吐き出す息と同時に溢れた言葉に対するレーヴの声は穏やかで、サラはそっとレーヴに視線を向けた。此方を見つめる瞳は優しくて、口元には微かな笑みを浮かべている。


 それを見た瞬間、胸がきゅぅっと締め付けられるように苦しくなった。突然の異変に戸惑いながらも、サラはそのことをレーヴに悟られないように慌てて視線をカップに戻す。


「火傷しないようにな」


 レーヴの言葉に小さく頷くと、サラはもう一度カップに口付けた。例えこの先何があっても、この瞬間とこの香りだけは、生涯忘れることはないだろう。サラはそう確信した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ