美味しいパン
「いらっしゃい!今日は遅かったじゃないか」
ロゼッタは店の中に居た一人の客を出迎える。顔や服など全身至る所に煤を付けた小柄な男は、少し困ったような顔をしながも笑顔だった。
「いやぁ、仕事が中々終わらなくてさぁ。店が閉まる前に来れて良かったよ」
「今が繁忙期だもんねぇ、煙突掃除は」
秋から本格的な冬に入るまでの間、煙突掃除を生業にしている人間は非常に忙しい。夏の閑散期とは打って変わって毎日家々を巡っては、煙突内部にこびり付いた煤などを落として回る。煙突掃除は冬支度には欠かせない備えの一つだ。
「今度うちのも頼むよ」
特にパン屋は毎日、休みなく窯を焚く為、定期的な煙突掃除が必要だ。男はパン屋の常連でもあるが、ロゼッタも煙突掃除の常連である。
「おぉ、分かった分かった。此処が機能しないとこの町はお終いだからな。手が空き次第しに来るよ」
男はパンを買うと笑顔のまま店を後にした。
「気の良いお客さんだね」
「あぁ、昔からの常連さ。夏の閑散期には漁にも出てる。働き者で良い奴だよ」
カウンターの引き出しに受け取った代金をしまうと、ロゼッタは二人に視線を向ける。
「さぁ、アンタらはどうする?もうあまり残っちゃいないが、どのパンも絶品だよ」
「そうだなぁ。サラちゃんはどれを食べたい?」
カミーユの問い掛けにサラは答えなかった。何処か呆然として、心此処にあらずのサラにカミーユはもう一度声を掛ける。
「サラちゃん、どうしたの?」
「……いえ、何も」
「そう?じゃあどのパンにする?」
「……私は、ロゼッタさんのおすすめのものをお願いします」
おすすめのもの、というのは魔法の言葉だ。お店などで何を選ぶか困ったとき、店員に言えば大抵はどうにかなる。自分の意思で何かを決めることが苦手なサラに、これを言っておけば取り敢えずは大丈夫だと、カミーユが教えた。
そのせいで自主性を育む機会を奪ったのではと、カミーユが後悔していることを彼女は知らない。
「じゃあこれにしようかね。バターと卵をたっぷり練り込んであって美味いんだ。きっと気に入るよ」
「……気に入る」
サラは呟くように繰り返した。
「難しく考えなくて良いんだよ。美味しい、また食べたいって、そう思えたらそれは気に入ったってことさ。でもそうなると、うちのパンは全部気に入っちまうかもしれないねぇ」
選んだパンを紙袋に詰めながら、どれも自慢のパンだから、とロゼッタは笑って言った。
「ほら、アンタの分だ。持っておきな」
自分の分を持ちたがる子供に手渡すように、ロゼッタは詰めたばかりのパンをサラに手渡した。
手渡されたパンは紙袋越しにもまだほんのり温かくて、顔を近付けるとバターの香りが漂ってくる。奴隷だった頃、味も素っ気もない冷たく硬いパンに必死に齧りついていた頃が嘘のようだ。
「……美味しい、香り」
ふふ、とロゼッタは笑みを溢す。
「香りだけで美味しいなら、きっと食べたらもっと美味しいだろうね。楽しみにしてな」
サラは小さく頷いた。心が優しさで満たされて、それが何故か苦しくて、目頭がじんわりと熱くなる。
すん、とサラは小さく鼻を鳴らした。




