第八場:天秤の裁決、二人きりのカーテンコール。
契約は、ときに、利用しようとした者が、自らの首を絞めるための縄となります。今ここに、神託と法理の裁定が下されます。我の出番も、どうやらこのあたりのようでございますね。
大聖堂は、静まり返っていた。
誰もが、目の前で起きた奇跡を信じられずにいた。
"白銀の角"からこぼれる光。
そして、その光に包まれて息を吹き返したフィニード。
皆が、口を閉ざしていた。
神殿騎士の一人が、震える手で剣を下ろす。
それを合図にしたかのように、別の騎士も膝をついた。
「聖女様……、お赦しを……」
誰かが呟いた。
その声に、ユラは顔を上げた。
「私は、あなたたちに聖女だと認めてもらうために、ここにいるわけではありません」
静かな声だった。けれど、その一言は大聖堂の隅々まで届いた。
ユラはゆっくりと立ち上がった。
フィニードが心配そうに見上げてくるので、視線を交わして、安心させる。
「カスパーロ大司教」
ユラは、キッと真っ直ぐに見つめた。
祭壇の上の男が、びくりと肩を震わせた。
「あなたは、私を偽者と断罪した」
「そ、それがどうした! 貴様のような異形が、聖女を名乗るなど――」
「次は、私の番よ」
ユラは彼の言葉を遮って、小さく折りたたんだ、一枚の羊皮紙を取り出す。
「この『神前契約』のことは知っているわね?」
「お前を縛るために結ばせたもの。だが、契約はもう切れたはずだ、第一条に"指定した刻限が到来するまで"と――」
「私を断罪するまで、よね。でも、第四条には、こうあるわ。『本契約の履行中および履行完了後を問わず、その真偽を問う同等の権利を留保する』と。……あなたが私の真偽を問うように、私もあなたに問うわ」
ユラの白銀の角が、かすかに光った。
「あなたは、本物の大司教、カスパーロなの?」
静寂。
あまりに唐突で、突拍子もない問いだった。
問われたカスパーロ自身が虚を突かれたように固まる。
祭壇を取り囲む貴族や神官たちも、すぐには理解できなかった。
大司教が、本物かどうか?
なぜ今、そんな意味不明なことを尋ねるのか。
人々がぽかんと口を開け、互いに顔を見合わせる。
言葉の意味が浸透するまでに、ひどく重く、泥のような時間が流れた。
だが、その沈黙の中で、点と点が繋がった者たちがいた。
フィニードは息を呑んだ。
(まさか、昨夜のやりとりは……!)
前夜、ユラとカスパーロが対峙したとき。
あの違和感の正体が、今、ひとつの明確な真実となってフィニードの脳裏を貫いていた。
そして、玉座のメルヒオーロは、目を見開いていた。
王家を凌ぐ財力をもって権力を振るい、自分を追い詰めていた存在。
あれがもし『偽物』であったのなら。
「これは、悪い夢か。あるいは、神の試練なのか……」
王の震える唇から、絞り出すような呟きが零れ落ちた。
カスパーロはようやくにして、声を絞り出す。
「……当然だ。私は、カスパーロ・エル・クルーツォ――」
「本当に? その名も、その身分も、その資格も。すべて偽りなく?」
「何度言わせる! 私は――」
カスパーロの声が、不意に途切れた。
彼の白い法衣に、ぽたりと赤い雫が垂れた。ぽたり、ぽたりと、続く。
不思議そうに、カスパーロは自分の顔に手をやる。
すぐに手は真っ赤になっていく。鮮血の赤。
神前契約。
神の名において結ばれた契約は、単なる紙切れではない。
重大な虚偽をもって契約を欺いた者には、神罰が下る。
カスパーロの顔から血の気が引いていった。
「……何をした」
「私は何も。けれど、意外ね」
「なに、を、言っている?」
「神罰って、意外に地味ね。もっと派手かと思ってた」
カスパーロは祭壇から一歩下がった。
一滴。
また一滴。
「……!」
慌てて袖で拭ったが。血は止まらない。
鼻から、目尻から、耳から、口から。人にあるという九つの穴すべてから。
白い法衣を汚していった。
ミシ、と。
どこかで骨が軋む嫌な音がした。
見えざる力が、全身を締め上げる。全身が震え、法衣の背が波打つ。
喉の奥から、隠し続けてきた真実が無理やり迫り上がってくる。
カスパーロであったものは、悟った。もう保たない。
「……なる、ほど」
顔から何かが剥がれ落ちた。
眉間の皺が消え、傲岸な口元がふっと緩む。
そこに立っていたのは、もはや大司教ではない、見知らぬ男だった。
「神の契約とは、随分と……、厄介な代物らしい」
血に濡れた唇が、自嘲に歪む。
ゆっくりとした動作で、懐に隠し持っていた無骨なナイフを取り出した。
それを見ても、ユラの表情は変わらない。
何をするのかと、問うこともしない。ただ、見下ろすのみ。
「よくぞ、見破った。だが、偽物にも矜持がある。悪いが契約は、破棄だ」
――倒れた肉体が立てた音の残響が、ゆっくりと消えていく。
広大な大聖堂が、水を打ったように静まり返った。
目の前で起きた不可解な出来事に、誰もが思考を停止させていた。
その重苦しい沈黙を、がたん、と椅子の鳴る音が乱暴に割った。
最前列の長椅子から、グウェンドリンが弾かれたように立ち上がる。
「皆の者、見なさい! 狂人が、自ら命を絶ったわ!」
甲高い声が、丸天井に跳ね返る。
「あの娘が! あの娘が大司教を惑わし、自害へと追いやったのよ! やはり魔女! 魔女だったのです! バルタザーロ! 衛兵! 何をしているの、早くその偽物を捕らえなさい!」
「――茶番は、もう終わりだ。母上」
凛とした声が、グウェンドリンの金切り声を一刀で断ち切った。
血に濡れた礼装の裾を引き、フィニードがゆっくりと進み出る。
そしてユラの前に立ち塞がるようにして、実の母であるグウェンドリンと向き合った。
「ジ、フィニード……? お、お前……何を言って……」
「彼が死ねば、あなたの陰謀はすべて闇に葬られるとでも――そうお思いで?」
王妃の戸惑いを突きのけるように。
フィニードは懐へ手を差し入れ、一冊の古びた裏帳簿と、数通の書状を取り出した。
「あの男の口が閉ざされようと、証拠の一部ならここに、あります」
それを、高く掲げる。
色硝子の光が、黄ばんだ紙の上で揺れた。
「あなたの嫁入りから始まったこの計画の全容は、調べきれなかったけれど――」
フィニードは、メルヒオーロ、バルタザーロ、そして、カスパーロであった骸を見た。
「王家の財を密かに隣国へ流し、王の力を削ぐ。一方でフェ―ロ公の武力と野心を煽り、公爵を太らせる。ゆっくりと教会を侵食していき、まさか大司教をすり替えていたとは思わなった。……すべては、この国が自重で崩れ落ちるその瞬間を迎えるための、見事な盤上遊戯だ」
フィニードの声には、怒りも、恨みもなかった。
まるで、他国の古い歴史書でも読み上げているかのように。
あまりにも淡々と、ただ事実だけを並べていく。
「――意外ね。あなたがもっとも無警戒だったというのに。どうやってたどり着いたの?」
「あなたの計画になかったのは、民の目だ。この社会を動かす職人や商人たちの目に映った違和感を丁寧に集めてつなぎ合わせたのです」
「そう。毒に身体を弱らせたふりをして、街に出ていることは知っていたけれど。そんなことをしていたのね」
グウェンドリンの表情は、疲れていた。
初めての理解者が、自分の血を分けた息子であることに、なにか感傷に浸るように。
「グウェンドリン……、フィニード、おまえたち、何を言って?」
玉座の前に立つメルヒオーロが、絞り出すように呻いた。
己が無力であることを隠すため、狂気を装い、ただ部屋で祈り続けてきた彼は。
今、自らが目を背けてきた現実を、受け入れられずにいる。
「フィニード殿下」
床に片膝をついていたバルタザーロが、地の底から響くような声で割って入った。
血走った双眸が、フィニードの背中を睨みつけている。
「公爵を太らせた、とはどういうことだ。……俺もまた、この女の駒だったとでも言うつもりか」
「その通りです、公爵」
フィニードは、この国の武威の象徴たる男を、冷徹に見下ろした。
「南の緩衝地帯で見つかったという『大銀鉱山』。あれは隣国がわざと国境に軍を並べ、あなたを焚きつけた甘い罠だ。王妃はあなたに権力と欲を与え、太らせた。……最後には、あなた自身のその欲で、破滅してもらうために」
「な……に?」
「銀山を制圧しようと先走った諸侯たちは、待ち伏せていた野戦を得意とする特殊部隊に包囲されました。一戦も交えることなく武装解除され、今頃は全員、無様な捕虜となっていることでしょう。もし、あなたが向かっていたとして、同じ結果だったでしょうけれど」
「なっ……!?」
バルタザーロの巨躯が、激しく震え出した。
「おのれ……」
バルタザーロの喉の奥で、獣のような唸り声が漏れた。
「おのれ、グウェンドリン!! よくも俺をッ!!」
バルタザーロの獅子のような咆哮が、大聖堂の丸天井を激しく震わせた。
床に落ちていた大剣を拾い上げるや否や、巨大な暴風となって王妃へと距離を詰める。
「ひぃっ……! ば、バルタザーロ、待ちなさい! わたくしは王妃――」
命乞いの言葉は、最後まで紡がれなかった。
彼女の手を離れた扇が、血だまりの縁で乾いた音を立てて転がる。
荒い息。
血の滴る切っ先が、石の床に赤い点を描いていく。
バルタザーロは、ゆっくりと振り返った。
玉座の前に呆然と立つメルヒオーロへ向き直り、その場に片膝をつき、深く頭を垂れる。
「王太子に続き、王妃にまで手にかけ、王家に剣を向けたこの身。もはや、いかなる弁解も立ちませぬ」
顔を上げる。歴戦の将の凄絶な眼光が、王を貫いた。
「陛下。この首を差し出す前に、ひとつだけ。……せめてこの命、隣国への死兵として使わせていただきたい。我を罠にはめ、この国を蹂躙せんとする軍勢に、一矢報い、戦場に果てる。それのみが、愚かな武将に残された、唯一の贖罪」
王の答えを、待たなかった。
バルタザーロは立ち上がり、一度も振り返ることなく、正面扉へ向かって歩き出す。
「――行く」
短い一声。
大聖堂を包囲していた黒鉄の重装騎士たちが、ただの一言も発さず、主君の背を追った。
怒涛の足音が、潮のように聖堂を満たし――そして、引いていく。
国の武力という重石が、舞台から降りた。
扉が、開け放たれた。
差し込む外の光。流れ込む風。
包囲が、解かれたのだ。
「逃げろ! 逃げるんだ!」
「隣国が攻めてくるぞ!」
死の恐怖から解き放たれた貴族たちが、一斉に出口へ殺到した。
ドレスの裾を引きちぎり、我先にと押し合い、倒れた者を跨いで。
己の命と財産だけを抱えて、蜘蛛の子を散らすように。
国の権力と富に群がっていた者たちが、舞台から消えた。
あとに残ったのは、祭壇のまわりで身を寄せ合い、震える神官たちだけ。
ひとりの高位神官が、這うようにして、ユラの足元へにじり寄る。
「せ、聖女様……! どうか、どうかお赦しを! 我々は、大司教猊下が隣国の偽物であったなどと、夢にも思わなかったのです! 我々もまた、あの偽物に欺かれた……被害者なのです!」
言葉を並べ立てて縋る神官を、ユラは、氷のように冷えた瞳で見下ろした。
「そう」
静かな声だった。
「偽物だとは……知らなかったのね」
ユラは、ほんの少し首を傾ける。
「けれど、暗く冷たい地下室に閉じ込められ、毎日、血が出るまで鞭で打たれていたとき、『光れ、光れ』と罵り、偽物と呼んで鞭を打ったのは――」
ゆっくりと、一人ひとりの顔を見渡す。
「――あなたたちの信仰よ」
「ひっ……!」
神官たちが、弾かれたように後ずさる。
信仰を言い訳に祈り縋るだけで赦しを得られる――。
その浅ましい盲信を打ち砕くように、聖女は冷徹に断罪した。
「だから、あの偽物と、同罪よ」
「お、お赦しを……っ!」
悲鳴。
法衣の裾を踏み、転び、這いながら、神官たちは大聖堂から逃げ出していった。
国の信仰を腐らせていた者たちが、舞台から去った。
*
ものの、数分。
熱狂と悪意が渦巻き、人で溢れ返っていた大聖堂は――今、がらんと空っぽだった。
開け放たれた扉から吹き込む風が、燭台の炎を揺らす。
ユラ。フィニード。メルヒオーロ。
深い、深い静寂が、落ちる。
メルヒオーロは、玉座の前から動かなかった。
足元に広がる惨状と、誰もいなくなった空間とを、ゆっくりと見渡し。
事の顛末をすべて腹に落とし込むように、口を閉ざしたまま、長い時間が過ぎた。
やがて、重い口が開く。
「フィニードよ……。そして、聖女様。よくぞ……。よくぞ、国を蝕む膿を――」
「『わたしは地上のすべての氏族の中から、あなたたちだけを知った。それゆえ、わたしはあなたたちのすべての悪行を罰する』」
王の言葉を、フィニードの静かな声が遮った。
口にしたのは、ユラがカスパーロへ向けて告げた、あの聖句。
青い瞳が、まっすぐに父を見据える。
「父上。祈るばかりで現実から目を背け、国が腐り落ちてゆくのを、ただ放置し続けた。……それもまた、罰せられるべき『悪行』です」
そこに、怒りはなかった。
あるのは、果てしない失望と、静かな決別だけ。
メルヒオーロは、息を呑んだ。
自らを正当化しようと被っていた王の仮面が、その一言で、音もなく崩れ落ちる。
逃れようのない事実が、胸を貫く。
「その通りだ。……王であることを、放棄していたのだ」
メルヒオーロは、墨黒色の詰襟服の男へ、顔を向けた。
先程まで気配を感じさせないように佇んでいた聖録公証官の姿が、あった。
王が、意識した瞬間に、そこに現れたかのように。
彼の役割は、あらゆる歴史の現場に立ち会い、ただ事実のみを世界に刻むこと。
「公証官。記録せよ」
一呼吸。
「王位は、ただ今この時をもって――フィニード・エル・アルクルーモに譲る」
「承った。……天の記録に、刻もう」
王冠の重圧から解き放たれたメルヒオーロは、一度だけ、息子とユラへ向かって深く頷いた。
そして、玉座に背を向ける。
ただ一人の足音が、長い身廊を遠ざかっていく。
やがて、光の中へ。
静かに――大聖堂から、退場していった。
*
大聖堂には、清らかな光と、厳かな静寂だけが残された。
あれほど熱狂と悪意に満ちていた空間には、もう誰もいない。
権力にしがみついていた者たちも、それに群がっていた貴族たちも。
蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
広く、がらんどうになった石造りの空間。
残されたのは、ユラとフィニード。
ユラは長く息を吐き出した。
角の光は穏やかに収束し、柔らかな灯火となって頭上に留まる。
「さて」
ユラは、空っぽになった大聖堂を見渡して、小さく微笑んだ。
「婚礼の続きをしましょうか」
フィニードが、たまらず苦笑を漏らす。
「参列者のいない婚礼の儀なんて、前代未聞だよ。祝福してくれる人も、司会をしてくれる人もいなくなってしまった」
「いいえ、ちゃんといるわ。最初からずっと。そうでしょ?」
ユラの呼びかけに。
音もなく、男が静かに歩み出てきて、書台の前に立つ。
銀縁の片眼鏡の奥にある琥珀色の瞳は、感情の一片すら宿していない。
「これで良かったの?」
「ああ。結果ではない、契約は履行され、引き継ぎは為された」
「じゃあ、お役御免ってことでいいのね?」
「そうだ」
ユラはフィニードの隣へと戻り、フィニードの腕を引いて促す。
二人の会話に、あえて触れずに、ユラにしたがって、祭壇の前に両膝をついた。
そして、静かに手を組む。
男は、静かに声を発した。
「――はじめよう」
ただ一言。感情の乗らない平坦な声。
けれど、その響きには、深い、あまりにも深い慈愛が滲んでいた。
大聖堂の空気が、劇的に、けれどとても静かに変貌した。
天井の高みから、温かく透き通るような光が真っ直ぐに降り注いでくる。
魂の奥底を直接撫でられるような、絶対的な安らぎが空間を満たしていく。
ユラも、フィニードも、彼が誰であるのか言葉にはしない。
彼もまた、己が何者であるのかを名乗ることはない。
ただ、そのすべてが。
ずっと前から約束されていたかのように、この静寂の祝福へと繋がっていた。
「フィニード。汝は、この娘を妻とし、いかなる時もこれを離さぬと誓うか」
フィニードは、ユラの手を強く、強く握り締めた。
「誓います。この人を愛します。何者であろうと、彼女が彼女である限り、離しません」
公証官は、小さく頷いた。
「ユリシア。汝は、この男を夫とし、いかなる時もこれを離さぬと誓うか」
ユラは一瞬だけ言葉を溜め、そして柔らかく笑った。
「誓うわ」
その声は、微かに震えていた。
「嘘はつかない。大事な人を裏切らない。……そして毎日、私の温かい料理を、この人に食べてもらいます」
「受理した。誓約は、確かに記録された」
誰かを縛るための鎖ではない。欲にまみれた国を統べるための証でもない。
ただ、二人の未来だけを永遠に保証する、温かな契約。
静寂が降り積もる中、公証官の声が、最後に優しく響き渡った。
「では、誓いの証明を」
二人は顔を見合わせ、小さく吹き出した。
先ほどまでの緊張からの解放されたという気持ちもある。
妙に、人間っぽい段取りは順守するんだな、というのが愉快に思えて。
ユラは、自分の唇を指さしてから、フィニードの唇を指差し、ジェスチャーで確認する。
男は、大仰にうなずき、手を差し出して、促す。
その二人の様子が可笑しいのか、フィニードは思わず笑ってしまう。
ユラは、頬に手を当てて、恥じるように身をよじった。
公証官は、手を二度ほど払うようにふりながら、いいから早くしろと促す。
フィニードは、優しくユラの腰に手を回して、引き寄せた。
ユラも抵抗すること無く身を寄せる。
そして、フィニードはユラの顎に、そっと手を添えると、自然と上を向く。
「手慣れてる?」
「紳士の嗜みさ」
「じゃ、紳士らしく――。愛を、囁いてよ」
「ああ。――目を閉じて。君が息をするのも忘れるくらい、甘く愛してあげる」
ユラは目を閉じ、フィニードは優しく口づけをした。
歓喜の光が、もぬけの殻となった大聖堂のすべてを満たしていく。
ステンドグラスが虹色の光の雨を降らせ、誰もいない純白の石床を色鮮やかに染め上げた。
万雷の喝采はない。熱烈な拍手もない。
けれど、二人にとっては、これ以上なく完璧で、満たされた祝福だった。
唇が離れた後、ユラはフィニードの胸元へと額を預けた。
「ねえ、フィニー」
「ん?」
「お腹、空かない?」
フィニードはたまらず吹き出した。
「……毒見は?」
「いらないでしょ?」
「ああ。もう、いらない」
フィニードはユラの手を、しっかりと握り締めた。
降り注ぐ光の中――。
二人は手を取り合って、誰のものでもない、二人だけの未来へと歩み出した。
欲深き者たちが去り、がらんどうになった聖堂で行われた、たった二人だけの婚礼。神前公証人としてこれ以上の役得はございません。これにて一件落着……と言いたいところですが、まだ少し、二人の時間が残されているようでございます。




