第七場:反逆の切っ先、光のモノローグ。
さて、時はいよいよ、あの婚礼の儀へと戻ってまいりました。偽りの断罪、抜き放たれた白刃。だが、罠を仕掛けたつもりの者たちが、自ら檻の中へと飛び込んでいたとしたら――? 痛快なる大逆転の幕開けでございます。
切っ先が、喉に触れていた。
――場面は、婚礼の儀。
カスパーロの号令とともに、騎士たちが踏み込んだ瞬間に戻る。
ほんのわずかに顎を引けば、皮膚が裂ける。息をするたび、冷たい鋼が喉元をかすめた。
四本の神殿騎士の槍が、フィニードを囲んで星の形に穂先を寄せている。
「神を冒涜せし偽りの王太子に、死をもって償いを」
大司教カスパーロの声が、穹窿に朗々と響いた。
誰も異を唱えない。
神の言葉を代弁する権威が、白い法衣を纏った男の口にあると信じられていた。
少なくとも、ここに集められた貴族たちは、その権威に逆らう勇気を持っていなかった。
「殿下!」
近衛兵が動いた。
国王を守る白い礼装の兵士たちが、一斉に剣の柄へ手をかける。
だが、刃が鞘を離れるより早く――。
大聖堂の正面扉が、轟音とともに内側へ弾け飛んだ。
蝶番が悲鳴を上げ、重厚な樫の扉が石床を叩く。
冷たい外気と鉄の匂いが、身廊を一息に駆け抜けた。
続いて響いたのは、甲冑の音だった。
数十、いや百を超える鉄靴が、大理石を踏み鳴らして雪崩れ込んでくる。
胸には、黒地に交差する二本の槍。
筆頭公爵バルタザーロ・エル・フェーロの紋章だった。
抜き身の剣を提げた兵士たちは、身廊の左右を埋めつくす。
参列席を取り囲み、近衛兵の背後へと回り込んでいく。
近衛は百に満たない。
数の差は、見ただけで絶望的だった。
「きゃあっ!」
貴婦人が扇を取り落とす。
立ち上がろうとした老貴族が、長椅子の脚に足を取られて転んだ。
出口へ向かおうとした者たちは、塞いでいる兵士たちを見て、青ざめた顔で立ち尽くす。
祝福のために満ちていたはずの大聖堂が、瞬く間に巨大な檻へと変わっていった。
退路はない。
「……何の真似だ、バルタザーロ」
低い声が、ざわめきを割った。
最前列で、王がゆっくりと立ち上がっていた。
その声には、怯えの色がなかった。
バルタザーロは答えない。
腕を組んだまま、石像のように動かない。
その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁な返答だった。
――クーデター。
誰も、その言葉を口にしなかった。
口にすれば、それが現実になってしまう気がしたのだ。
だが、大聖堂にいる全員が理解していた。
王太子の喉元には槍。
国王の護衛は包囲され、教会は偽聖女を糾弾し、国軍を統べる男が兵を引き入れた。
この瞬間、この国の剣と神と法のすべてが、一本の線で王家の首に結ばれている。
少し離れた席で、王妃グウェンドリンが、広げた扇の陰で唇の端を持ち上げた。
まるで、舞台の幕が上がるのを待っていた観客のように。
祭壇の上で、カスパーロの視線がわずかに動いた。
バルタザーロのほうへ。
――あの娘は、生かしておけぬ。
――だが、教会の者がユラに害を為せば、契約に反し、神罰が下る。
バルタザーロの瞼が、わずかに下りた。
了解の合図だった。
公爵の胸にあったのは、教会への忠義でも、神への畏れでもない。
いったん動かした軍は、止まれば自らを喰い始める。
偽りの聖女の首は、王家の大罪を完成させる最後の証として、これ以上ないものだった。
鞘鳴りが、大聖堂を裂いた。
「王家を謀った偽物――その首、国の名において頂戴する!」
大柄な身体が、信じがたい速さで祭壇への階を駆け上がった。
歴戦の将の踏み込みだった。
槍を構えていた神殿騎士たちは、まるで示し合わせていたかのように穂先を引き、道を開ける。
フィニードの喉から、槍が離れた。考えるより先に、体が動いていた。
左の前腕で槍の柄を払う。穂先が肉を浅く裂き、焼けるような痛みが走った。
構わなかった。
腰の儀礼剣を抜き、ユラを巻き込まないように、バルタザーロに向かって突進する。
真珠を嵌めた柄の、細身の剣。
式典のための、飾りに過ぎない剣。
それでも、背にいる人を守るための、唯一の鉄だった。
一合目。
バルタザーロの重い一振り。
足を止め、細身の剣で受け止めた衝撃。
手首から肘、肩へと骨を伝って突き抜ける。
二合目。
刃を片向け、力を地面へと逃がすように、受け流すも。
己の未熟さか、あるいは、飾りに過ぎない剣には荷が重すぎたのか。
体勢が崩れた。この男と自分とでは、積んできた血の量が違う。
三合目で、儀礼剣が折れた。
折れた刃が宙を回り、ステンドグラスの青と紅を一瞬だけ撒き散らして落ちる。
バルタザーロは、剣において驕らず、昂らず。
冷たい目が見逃すはずもなく、そして躊躇う理由もなく。
返す刃が、左肩から胸へと走った。熱い、と思った。
次の瞬間には熱さは消え、冷たいものだけが体から抜けていく。
白い礼装が、みるみる紅く染まった。
膝が折れ、その場に、赤い絨毯に、力なく倒れ込む。
頬に触れた石の冷たさだけが、やけに鮮明だった。
「――!」
声を頼りにして、愛しき婚約者を探すけれど、闇へと引きずり込まれていく。
(神よ、彼女だけは、どうか――)
今にして、父王の気持ちを理解した。
今際の際となれば、神に祈ることしか出来ない。
*
バルタザーロは、血の滴る剣を握り直し、ユラの前に立った、が。
自分の目を疑う。
見下ろした花嫁の顔に、怯えがない。
今、まさに、己の愛する婚約者を切り伏せられ、返す刃が自分に向けられても。
怒りも、恨みも、恐れも、憂いも、ない。
ただ静かに、こちらを見上げている。
その目が、どうにも、恐ろしい。
だが、斬る。
それだけだ。
両手で柄を握り、頭上へ振り上げる。
幾千と繰り返してきた、迷いのない動作。
あとは、振り下ろすだけ。
なのに。刃は天を向いたまま、震えることさえできなかった。
汗が、こめかみを伝った。
「……何だ?」
バルタザーロの声が掠れた。
"白銀の角"が、淡い光を帯び始めていた。
夜明け前の空のような、ごく淡い光を孕んでいる。
光はゆるやかに彼女の肩から腕へと降り、ドレスに縫い込まれた真珠の一粒一粒に宿っていく。
その光は、彼女の周囲だけを照らすものではなかった。
大聖堂の空気そのものが、静かに変わり始めていた。
人々の耳を塞いでいた恐怖が、ひとつずつ剥がれていく。
胸の奥に押し込めていた良心が、忘れたはずの記憶が、息を吹き返す。
誰かが膝をついた。
また一人、別の誰かが頭を垂れた。
「退きなさい」
大声ではなかった。
命令の響きすらなかった。
少し場所を空けてくれと頼むような、静かな声だった。
ずり、と靴底が大理石を擦った。
バルタザーロは目線だけで、足元を見た。
自分の右足が、一歩、後ろに下がっていた。
下がろうと思ったのではない。意志ではなかった。
「何だ、これは……」
声が震えた。
答える者はいなかった。
ユラはもう、彼を見てすらいなかった。
バルタザーロの横を通り、ユラはゆっくり歩いていく。
*
ユラは重いドレスの裾を摘み、倒れたフィニードのもとへ歩いた。
急がなかった。
一歩ごとに、足元の光が広がっていく。
血に濡れた絨毯が、彼女の通った場所だけ淡い金色に照らされた。
フィニードの傍らに膝をつく。
裾が血だまりを掃き、白い真珠が紅く染まった。
けれど彼女は気にも留めず、傷の上にそっと両手を重ねた。
「フィニー」
返事はない。
彼の唇から、かすかな息が漏れた。
それだけだった。
「ねえ、フィニー。約束したでしょう?」
声が震えた。
先ほどまでの静けさが、少しずつ崩れていく。
「すべてが終わっても、離さないって。世界が終わったあとでも、同じことを言うって」
彼の頬に触れる。冷たい。
ついさっきまで、自分の手を握ってくれていた指が、もう動かない。
「痛いよね。……、でも。安心して。私、聖女だから」
ユラは目を閉じた。
今まで、どれだけの痛みに耐えてきただろう。
何度、祈りを強いられただろう。
何度、偽物と呼ばれ、出来損ないと嘲られ、それでも笑ってきただろう。
そのすべてを、彼女は一度も誰かに許してほしいとは願わなかった。
自らの気持ちで、光るべきときまで、決して、光ってなんかやらない、その決意だけ。
今こそ、そのときが、来た。
「……在れ」
聖女たる証、"白銀の角"から、光が溢れた。
*
「まさか……」
震える声が、静寂の中に落ちた。
「あの光は……」
目を見開き、祭壇の前に膝をついた。
「伝説の通り、聖女様の……奇跡の光」
その声は、さざ波のように広がった。
一人が呟き、二人が繰り返し、やがて大聖堂中の囁きになる。
聖女様。
聖女様の光だ。
本物の――。
光は、フィニードの傷を包み込んでいた。
裂けた礼装の下、血に染まった傷口が、ゆっくりと閉じていく。
失われていった温もりが戻り、白かった頬に、ほんのわずかに血の色が差した。
ユラの額には汗が浮かんでいた。
指先が震える。
息が苦しい。
それでも、手を離さなかった。
光が、一度だけ強く瞬いた。
そして。
フィニードの指が、かすかに動いた。
「……ル、ア……?」
掠れた声。
それでも、確かに彼の声だった。
ユラは息を呑んだ。
「フィニー!」
思わず彼の胸に顔を伏せる。
「よかった……本当に、よかった……!」
声が震えた。頬を伝った涙が、フィニードの礼装に落ちる。
彼はまだ起き上がれないまま、震える手で彼女の指を握り返した。
「……きみは、うつくしい」
「もう! う、うれしいけど、そんなこと言ってる場合じゃないわ!」
「そう、だね……」
フィニードは、かすかに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ユラの胸の奥で張り詰めていた何かが、ようやくほどけた。
けれど、休んでいる暇はない。彼女はゆっくりと顔を上げた。
大聖堂にいるすべての人々が、自分を見ていた。
視線の先にあるのは、"白銀の角"。
*
「な……何をしている」
祭壇の上で、カスパーロが震えていた。
彼の目は、光に包まれたユラから離れない。
「何をしている、貴様ら! あれは魔女だ! 偽りの光に惑わされるな!」
誰も動かなかった。
「討て! 神殿騎士ども、フェ―ロ公! あの魔女を討て! 聞こえぬのか! 討てと言っているッ!」
声は石壁に吸い込まれていき、返ってくるものは、何もなかった。
神殿騎士たちは、剣を握ったまま立ち尽くしている。
公爵の兵士たちも、誰一人として動こうとしなかった。
大聖堂の中央で、"白銀の角"が輝く。
それは聖女の証。この場のすべて、誰も彼もが、疑わなかった。
ただ一人を除いて。
祭壇の上に立つカスパーロだけが、絶望に顔を歪めていた。
彼の叫びは、もう誰にも届かなかった。
悪事は必ず露見し、傲慢は必ず報いを受ける。これぞ神が定めたこの世の条理というものでございます。しかし、まだ一番の「裁き」が残っております。契約を破った者には、峻烈なる神罰が下らねばなりません。




