第六場:前夜の暗転、重なり合う誓約。
すべてが始まろうとする前夜、大聖堂の闇の中で、二人は何を思うのでしょうか。神に赦しを乞うためではなく、明日の戦いを生き残るために。静寂のなかで重ね合わされた手と手の誓いを、我は見つめておりました。
フィニードは、闇を見ていた。
窓の外は、凍てつく冬の静寂。
明日、すべてが終わる。あるいは、すべてが始まる。
王太子と生まれたときから、安らかな眠りなど、一夜たりとてなかった。
今夜もまた、眠れはしない。闇を見つめ、闇のなかに必死に光を探す夜。
毒に怯え、満たされずに締め上げられるが如く痛む内腑を、震える手でさする。
幼き日に毒を盛られてからというもの。
追撃を避けるために"病床に伏せたふり"を演じ、闇の中で息を殺し続けてきた日々。
だれが自分に毒を盛ったのか、誰が自分を殺そうとしているのか、それがわからないからこそ。
誰に頼ってよいのかも、わからない戦いが始まった。
自分は、きっとろくな死に方しない。父王は、もう神頼みしかない。
強大な武力で国を支配しうる諸侯ら。
莫大な財力で国を支配しうる教会。
力を持たない王太子に、いったいなんの抗いができようものか。
考え抜いた末、ここにはない力に託すことにした。
病床に伏せたふりをして、城を抜け出し、町で様々な人と交流を始めた。
はじめは手探り。知り合いもいない、頼れる人もいない、信じられる人もいない。
まったくの闇のなかに、光を探す夜が続いた。
最初の糸口は、意外なほど近くにあった。
フィニードの紅茶に毒を運んでくる侍女。
彼女が震える手でカップを床に落とし、涙ながらに白状したのだ。
『殿下、どうかお許しください。私の父が、借金のカタに工房を奪われ……!』
彼女の父は、王都の石工ギルドを束ねる棟梁だった。
先祖代々、王宮や大聖堂の修繕を請け負う優秀な職人。
その工房と、父を人質に取られて。
――王妃の指示に従っていたと言う。
なぜ? 母上に恨まれる筋などあるはずもない。口ごたえの一つさえしたことがない。
継母ならまだわかる。腹の違う弟でもいれば、よくある継承権争奪だ。
けれど、フィニードは唯一の王位継承権をもつ存在だ。
理由がわからない。
だが、侍女もその事情までは知らない、という。ただ、命じられただけ。
フィニードは侍女に、今まで通りに指示に従うように伝える。
代わりに、王妃の情報を流し、侍女の父に自分を紹介してくれるように頼んだ。
こうして、侍女の父を通じて、職人たちから聞かされたのは。
王宮の華やかなシャンデリアの下からは決して見えない、むき出しの焦土。
酒場の奥、脂じみた木の卓で、フィニードは言葉を失っていた。
侍女の父である石工ギルドの棟梁が、ひび割れた太い指で空のジョッキを弄りながら。
「祈代ですよ、殿下」
棟梁の目は、怒りを超えた深い諦観に沈んでいた。
「教会は、日に当たるのにも、共同井戸で水を汲むのにも"神への感謝の税"を要求してくる。払えなければ信仰心がないと見なされ、異端審問の代わりに仕事道具を担保として根こそぎ持っていかれる。道具がなきゃあ、明日の黒パンすら買えねえのに」
隣に座る荷運びの人足が、自嘲気味に笑った。
「その黒パンだって、マトモなもんじゃねえ。上等な小麦は貴族の蔵に。俺たちが食ってるのは、ライ麦に木屑や干し草を混ぜてカサ増しした、ただの"重たい土塊"だ。それでも、腹の虫を黙らせるには、胃を痛めながらソレを詰め込むしかねえんだ」
「先月は、公爵様が"演習"と称して麦畑を荒らし回った。文句を言いに出た農夫たちは、その場で無理やり連行されたきりだ。残された女房や小さな弟妹たちは、冬を越せねえだろうな。……借金のカタに、教会に娼館に売られたって噂も聞いた」
教会は、魂の救済を盾に民の骨の髄まで啜り尽くす。
諸侯は、己の権力闘争のために民の命と生活を躊躇いもなく踏みにじる。
そして――。
「……王家は、なぜ助けてはくれないのかと、皆は不敬の罪を恐れて、口にはしませんが、思っています」
棟梁が、力なく首を振った。
「陛下はずっとお部屋で祈っておられると聞く。なら、神様は王様の祈りを聞くのに忙しくて、俺たち下っ端の悲鳴なんか聞こえちゃいねえんだって……。みんな、もう諦めちまったんです」
フィニードは、膝の上で握りしめた拳が小刻みに震えるのを止められなかった。
冷え切った胃の腑が、毒を飲まされた時以上に激しく痛む。
誰も、王家を恨んでさえいなかった。
見限られ、最初から存在しないものとして、ただ無音の絶望だけが下町を覆い尽くしている。
国は、今まさに腐りかけているのではない。
とうの昔に死に絶え、王宮の足元で腐臭を放つ泥と化していたのだ。
職人たちを前に、ただの人間として膝をついた。
「僕には、力も、金もない。いつ毒に倒れるかも分からない、微かに立ち上る朝霧のような存在だ。……だが、僕が死んだあと、この国が教会と貴族に食い潰されるのだけは我慢ならない。君たちの力を、貸してほしい」
高貴な血統を鼻にかけることもなく、同じ目線で怒りを分かち合う若き王太子の姿。
誇り高き職人たちの魂が震えた。
そこからは、静かな野火が広がるようだった。
王宮の監視網は、貴族の屋敷や軍の動きには目を光らせていても、泥にまみれて働く下町の職人や人足の動きなど、最初から歯牙にもかけていない。
それこそが、支配者たちの最大の盲点だった。
石工から鍛冶屋へ。鍛冶屋から大工へ。大工から、王都中の物流を担う運送ギルドの男たちへ。
さらには、教会の不当な通行税や借金に苦しむ中小の商人たちへ。
荷札に記された符牒や、槌を打つリズムを合言葉に。
教会と貴族の圧政に怒りを燃やす者たちが、蜘蛛の巣のように秘密裏に繋がっていった。
彼らとの密談の拠点として選ばれたのが――あの酒場だった。
焦げた獣脂の煙と、酸っぱいエールの匂い。
怒号と笑い声が渦巻くあの場所なら、作業着の職人とフードの青年が額を寄せ合っていても、誰の目にも留まらない。
フィニードはいつも隅の席に座り、一番安価なエールを一杯だけ頼んだ。
もちろん、飲むことはできない。毒の記憶が喉を締め付け、ただ口をつけるふりをして、冷え切った胃袋を抱えたまま同志を待つだけだ。
その酒場に、彼女はいた。
頭上に、白銀の角を戴いた少女。
最初に見たとき、フィニードは自分の目を疑った。
聖女様? いや、聖女様がこのような場所にいるはずが――。
酔客から「光って見せてくれよ」「やっぱり偽物だ」と野次られても、眉ひとつひそめず、『聖女だからよ』『笑顔は別料金。銅貨三枚』と軽やかに笑い飛ばす看板娘。
なんて奇妙で、なんて強い娘だろうと思った。
自分と同じように周囲から孤立し、好奇や侮蔑の目に晒されているはずなのに、彼女は誰よりも逞しく、その濁った夜の中でひとり輝いて見えた。
自分を『殿下』と呼んだのを、彼女が背中で聞いてしまったことには気づいていた。
殺すか、口を封じるか、二度とこの店に来ないか。
冷たい計算が頭をよぎるも、まるで箒で払うみたいに、彼女に取り除かれてしまった。
彼女はただ、エールの脇に、焦げ目のついた黒パンをそっと置いた。
『それだけじゃ、身体が冷えちゃうよ。これ、焼きすぎちゃったから。おまけ』
その微笑みを、フィニードは生涯忘れない。
美しさ、優しさ、温かさ、安らかさ、明るさ。
闇の中に光を探していたのに、気がついたら日向に座っている自分に、驚いたかのような体験。
小走りで厨房へと去っていく背中。
じっと見つめて、初めて感じる感情に、翻弄され。
ある夜。
『奥の席が空いてる。あそこなら、隙間風も来ないから』
周囲の視線から守るように死角の卓へと導いてくれた。
詮索しない。利用しようともしない。
ただ、震える幼子に毛布をかけるような、あまりにも自然で無償の優しさ。
そして、ある夜。
彼女が『試作品だから』と悪戯っぽく笑って差し出した、温かい野菜のスープ。
白い湯気が立ち昇り、甘い野菜の香りが鼻腔をくすぐる。
毒見も経ていないそれを前にして、不思議と、指先は震えなかった。
フィニードは憑き物が落ちたようにスプーンを手に取り、そのスープを口へと運んでいた。
喉を通り、締め上げられるように痛んでいた胃の腑へと、じんわりと温かな熱が広がっていく。
味わったことのない、温かい食事の味。
『……ありがとう、ユラ。君の作るものは、温かいな』
そう口にした瞬間、フィニードの胸の奥で、凍りついていた何かが音を立てて溶け落ちた。
ああ、自分はまだ、生きていたのだ。生きていたいのだ。
死んだ後のことばかりを考え、自分をすり減らすだけの暗い戦いの中で。
初めて見つけた、眩しいほどの光。
彼女に会いたい。
彼女の声を聞きたい。彼女の笑う顔が見たい。
明日も、明後日も、彼女が作ってくれる温かいスープを飲みたい。
それは、王太子としての義務でも、復讐の執念でもなかった。
ただの一人の青年としての、どうしようもなく切実な、初めての恋心だった。
王宮の夜会のテラスで、豪奢なドレスに身を包んだ彼女と再会したときも。
彼女が教会の差し向けた罠として、自分の前に現れたのだと悟ったときでさえも。
フィニードの心は、ただの一ミリも揺らがなかった。
彼女がどんな鎖に縛られていようと、関係ない。
温もりを分けてくれたあの手こそが、フィニードにとっての唯一の真実だったからだ。
――死ぬための準備は、もうやめた。
自分が死んだあとのためのレジスタンスではない。
彼女と共に生き残り、彼女が笑って暮らせる国を、この手で奪い返すための戦いだ。
フィニードは立ち上がり、机の上の佩刀を手に取って鞘に納めた。
澄んだ金属音が夜の闇に響く。
「ユラ。君を一人で戦わせはしない」
部屋を出る。
少しでも、彼女の気配を感じたかった。
足が向かったのは、夜の帳に包まれた大聖堂だった。
*
大聖堂の中は、冷徹な静寂に満ちていた。
石床はすべて滑らかな純白の大理石へと張り替えられ。
百本の円柱には白金の箔が隙間なく施されている。
ステンドグラスを透過する月光が、磨き抜かれた白亜の空間を神々しく照らす。
祭壇の前。
ユラが一人、冷たい大理石の上に跪いている。
胸の前で両手を組み、静かに祈りを捧げていた。
だが、その唇から漏れ聞こえてくるのは、聖句ではない。
「……ねえ。聞いてる?」
虚空の何者かに語りかける、極小の囁き。
「明日だよ。いよいよ。ぶっちゃけ、緊張してる。こんなに緊張したのは初舞台以来かも」
ユラは小さく息を吐き出し、項垂れた。
「……フィニーは許してくれるかな。ずっと黙っていたこと」
柱の陰に身を滑り込ませたフィニードは、胸を締め付けられる思いでその背中を見つめていた。
何を黙っているのか。なぜ、そんなに哀しそうに祈るのか。
その時だった。
ギィィ……と重苦しい軋み音を立て、大聖堂の扉が開かれた。
硬質な靴音が、静寂を乱して近づいてくる。
白金の豪奢な法衣を翻す男。
大司教カスパーロ・エル・クルーツォ。
フィニードは柱の深みへと身を潜め、気配を完全に断った。
祭壇の前で足を止め、冷たい含み笑いを漏らした。
「ほう。殊勝に祈り捧げておる様は、なかなかどうして。まるで聖女のようだな」
ユラは視線も向けず、祈りを捧げる姿のまま、応じた。
顔を向ける価値もない、祈りを中断する必要もないという意思を感じた。
「何の用?」
カスパーロは鼻を鳴らし、見事な白大理石の床を踏み鳴らした。
そして、両手を広げて大聖堂の天井を仰ぐ。
「見事な眺めであろう、小娘。貴様の要求に従い、惜しげもなく財を叩き込んで仕上げてやったぞ。その額を聞いては、お前は怖気づき、計画に支障が出ても困ると、黙っていたが」
大聖堂だけではない。
ひび割れていた王都の中央大通りはすべて最新鋭の石畳で舗装され。
崩落寸前だった巨大な古代水道橋も、教会の莫大な寄進収入で頑強に修復されて。
国家予算に匹敵する、天文学的な突貫大改修。
『どうせ手に入れるのだから、今から磨いておきなさい』
すべて、ユラがカスパーロに提案したこと。
「言ってみなさいよ。言いたいのでしょ?」
「金貨三十万枚、だ」
ユラは、振り返ることなく、静かに口元を緩めた。
「ずいぶんと安くついたのね、材料でもケチったの? 明日、金貨百万枚を得るのでしょ?」
「ふん。金など、勝手に入ってくる。明日、手に入れるものは、そんなものではない」
カスパーロの瞳にギラギラとした狂気が宿った。
「わかるか? ついに! ついに手に入れるぞ! 神が授けし不可侵の王冠をな! ハッ、神の恩寵だの至高の権利だのと有難がっていたが、結局のところ、金さえ積めば簡単に買える安い代物だったというわけだ!」
大司教の喉から、醜悪な笑い声が迸る。
柱の陰からその様子を窺っていたフィニードは、強烈な力に、息を詰まらせた。
狂気に満ちた大司教に――、ではない。
祭壇の前でひざまずく、小柄な後ろ姿に、強い畏怖を感じた。
(ユラ……?)
彼女は、それまで祈りの姿勢を崩さなかったのに。
カスパーロの言葉を受けて、ゆっくりと立ち上がった。
静かな声で告げた。
「ここは神の御前よ、大司教。少し、声を慎んだら?」
それは、ただの皮肉ではなかった。
聖女であるユラから発せられた『戒め』。
だが。
「ハッ! 神の御前だと?」
カスパーロは、ただの一瞬の躊躇いもなく、その『戒め』をせせら笑った。
「私が国を統べれば、私の言葉こそが神の言葉となるのだ! 慎む必要がどこにある!」
大司教の肉が揺れ、下品な高笑いが大聖堂に反響する。
その瞬間だった。
柱の陰に隠れていたフィニードは、唐突に、呼吸の仕方を忘れた。
ヒュッ、と喉が鳴り、肺が酸素を拒絶する。
フィニードの両膝から、完全に力が抜け落ちた。
立っていることすらできず、崩れ落ちるように冷たい大理石の床へ両手をつく。
(……なんだ、これは……!?)
重い。なにかがのしかかってくる。
空間そのものが、得体の知れない、圧倒的な重さに塗り潰されていく。
殺気ではない。
剣を向けられた時の肌が粟立つ感覚とも違う。
強大な魔力などという次元ですらない。
理由など、何ひとつわからない。
目の前で何が起きているのか、知性も理屈も、すべてが完全に理解を拒絶する。
ただ、恐ろしい。
頭のてっぺんから爪先まで、血が凍りつくような原初的な恐怖。
己の存在そのものがすり潰されてしまうという絶望。
ただひたすらに、平伏せ、と激しく警鐘を鳴らしている。
フィニードは床に這いつくばり、無意識のうちに額を大理石に擦りつけていた。
ただひたすらに己の矮小な体を丸めて震えることしかできない。
(許して、くれ……。許して……っ)
何に対してかもわからない。
自分が何をしたというのかもわからない。
声にならない懇願を漏らしながら。
ガチガチと鳴る歯を食いしばり。
震える指先で石床を掻きむしる。
だが、最も戦慄すべきは、その息もできぬほどの異常な重圧の中にあって――。
祭壇の前に立つカスパーロが、平然と下劣な笑いを引き伸ばしていたことだ。
(なぜ、笑っていられる……?)
フィニードは床に額を擦りつけたまま、恐怖と混乱の底で戦慄した。
あの男は、何も感じていない。
「……ええ、そうね。神は言ったわ」
ユラは、極めて自然な動作で小首を傾げた。
その声は、無邪気で、柔らかく、深淵のように暗い穴だった。
「『わたしは地上のすべての氏族の中から、あなたたちだけを知った。それゆえ、わたしはあなたたちのすべての悪行を罰する』と」
大聖堂の冷たい空気に、古代の聖句が溶け込んでいく。
フィニードはその言葉の意味を知っている。王族として学んだ神学の基礎だ。
「神が選んだ民にこそ、最も重い責任と罰を与える」という、自己への厳しい戒めを説いた一節。
だが、カスパーロは、その言葉の表面的な響きにだけ飛びついた。
「そうさ! その通りだ小娘!」
カスパーロは得意げに両手を広げ、天を仰いだ。
「我は神に選ばれたもの! だからこそ、無知な俗物どもを罰し、この国を統べる至高の権利があるのだ!」
「――今じゃないわ。そう言ったのは、あなたよ。だから、任せてよ」
ユラの言葉に、カスパーロは咄嗟に反応することさえ出来なかった。
その一言が、大聖堂の空気に溶けたとき。
空間を圧殺しようとしていた理不尽な重圧が、嘘のように霧散した。
首を絞め上げていた見えない手が離れたように。
フィニードは大きく肺に空気を吸い込み、石床に突っ伏したまま荒い息を繰り返した。
だが、重圧から解放されたのはフィニードだけだ。
最初からこの大聖堂に満ちていた圧に曝されていなかったカスパーロは、ユラのその言葉を、まったく別の意味に受け取っていた。
「ハッ! 随分と物分かりが良くなったではないか、小娘」
カスパーロは得意げに鼻を鳴らし、ひざまずくユラを心底見下したように一瞥した。
「その通りだ。私が玉座を手にするのは、今日ではない。明日、貴様という偽物を民衆の面前で無様に断罪した、その直後だ。……せいぜい、明日は私に王冠を捧げるための舞台装置として、完璧に役目を果たすことだな」
「ええ。期待してて」
ユラは、くすりと笑った。
カスパーロは満足げに頷くと、踵を返し、上機嫌な足取りで大聖堂の奥へと消えていった。
重い扉が閉ざされ、深い静寂が戻る。
フィニードは、全身を冷や汗に濡らしながら、震える腕でゆっくりと身を起こした。
「――そういう意味だったのね。ようやくわかったわ。あなたが私をこの世界に導いたのは――」
「――誰が、君を導いている?」
静かな声が、闇を裂いた。
ユラが、びくりと肩を跳ねさせて振り返る。
大理石の柱の影から、フィニードはゆっくりと歩み出た。
「フィニー……! 聞いて、いたの……?」
ユラの顔から、すべての仮面が剥がれ落ちていた。
動揺し、怯え、青ざめた少女の顔。
フィニードは迷うことなく、ユラの目の前へと歩み寄った。
「すまない。探るつもりで来たのではないんだ。ただ、君の声をききたくて……」
「そして、立ち聞きしちゃったのね」
「ああ……。ひとつ、教えてくれないか?」
ユラは複雑な笑みを浮かべて、祭壇の方にちらりと目線を向けた。
「聞きたいことは、わかるけど。ごめんね、ダメみたい」
「そうか」
つられて、フィニードも目線を上げた。
フィニードも、すべてを理解したわけではない。わからないことの方が多い。
けれど、先程の"体験"のあとでは、恐れ多くて、好奇心よりも、恐怖心の方が強い。
何も聞けなかった。
「緊張してるの?」
「え?」
咄嗟に、何を聞かれたのか、フィニードにはわからなかった。
「ほら、いよいよ、明日じゃない? 私たちの婚礼の儀よ」
「あ、ああ。そうだな。緊張はもちろんしているよ」
「眠れないの?」
「昔から、眠るという行為はもっとも恐ろしい儀式だよ、目覚めることが奇跡のように――」
表情は変わらないまま、ユラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
ユラ自身も、突然のことに、驚き。
自身の手で頬を撫でて、涙をすくい上げて、ようやく泣いていることを自覚した。
「ユラ?」
「つらかったよね。もっとも優しくしてほしいお母さんから、毒を盛られるなんて」
「ああ、そう――、え?」
フィニードが何者かに毒を盛られたという事件は、王宮では知らぬものはいない。
だから、ユラが知っていても不思議はないが、その犯人までは誰も知らない。
王宮内で実しやかに語られるのも、在りもしない陰謀じみた噂ばかりのはずだ。
フィニード自身さえ、侍女から聞いても信じられなかった。
悲しい表情のまま、ユラはフィニードに抱きついた。フィニードはされるがままに。
「ごめんね。ごめん」
「どうして、君が謝るんだ? それにどうして母上の――」
「今はまだ、言えないの。何も言えないの」
「そうか……」
代わりに背負ってあげたいが、フィニードには、ユラが背負ったものの大きささえわからない。
彼女が苦しんでいるというのに、何もしてあげられないという、罪悪感に苛まれる。
フィニードは、ユラの頭を優しく撫でた、白銀の角には恐れ多くて振れられないが。
「僕は悔しいよ」
「悔しい?」
「君は、僕を救ってくれた。君は、僕の婚約者だ。そして、明日には僕の妻になる、愛する人だ」
「……うん」
「なのに、僕は君になにがしてあげられるのだろう。自分の無力さが悔しいよ」
「そんなことない! フィニーは頑張ってるよ。フィニーが何をしてきたのか、聞いたから」
「……誰に聞いたのか、聞かないよ。でも、見ていてくれると知れて、誇りに思うよ」
「フィニー……」
「君が、何者であっても、君で在って欲しい。僕の君で在ってほしい」
ユラの瞳が、驚愕に見開かれた。
優しい表情で、ユラの顔を見つめ、フィニードは涙に濡れた頬を、指先でそっと拭う。
「明日、すべてが終わっても、僕は君を離さない」
「……ほんとに、世界が終わった後でも、同じことが言える?」
「言うさ。何度でも」
フィニードは笑った。
「明日は、生き残るために戦う。君は君の戦いをしてくれ。僕は僕の戦いをする」
大聖堂のステンドグラスから、静かに青白い月光が降り注ぐ。
二人は互いの手を強く握り締め、運命の前夜を越えていった。
人は時に、神の定めた運命などよりも、たった一人のために命を懸ける強さを見せるものでございます。夜が明ければ、舞台の幕が上がります。血と白刃と、神の裁きの朝がやってまいります。




