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王子様の御注文は、温かなスープでよろしい?隠し味は復讐です。  作者: 柏原夏鉈


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第五場:昼の仮面、夜の悪女。

人は誰しも、生きるために幾つかの顔を持つものでございます。傷ついた王子の心を癒やす、日向のように温かな「昼の顔」。そして、蠢く陰謀を冷ややかに見据え、敵を欺く「夜の顔」。二つの仮面を鮮やかに使い分け、王宮という名の檻を軽やかに渡り歩くユラの戦いが始まります。


王宮は、檻と同じ。


起床の時刻から、食事の順序、歩行の速度、挨拶の角度に至るまで。

すべてが厳格な規則で縛り上げられている。


婚約が成立してから、生活が一変した。

ユラは王宮に迎え入れられ、王太子妃となるための準備の日々に追われた。


隠れ里での生活がよっぽど自由だった。

何もかも足りないけど、満ちる器も小さいから。


ユラはその檻の中で、軽やかに舞台で舞うように、生きていた。

昼と夜とで、完全に異なる仮面を使い分ける。


その切り替えは、呼吸をするように滑らかだった。

王宮全体が、気づかぬうちに彼女の引く糸に操られていく。


昼の仮面。フィニードの前でだけ見せる、日向のような柔らかで暖かな顔。


薄暗い厨房の片隅にある、小さな木製の卓。

石床は冷たく、天井は低く、竈の火だけが静かに爆ぜている。


そんな場所に、フィニードは窮屈そうに腰を下ろす。

だが、肩の力を抜き、その表情にも寛ぎの色が滲んでいた。


「今日は、豪華だよ。鴨を手に入れたからね!」


ユラが卓にコトッと置いたのは、鴨で出汁をとった雑炊。

木の器から、温かな湯気と、豊かな香りがふわりと立ちのぼった。


厨房の影に控えていた警護が、青ざめた顔で身を乗り出してくる。


「殿下、お待ちください。毒見役を呼んでまいりますので――」


「いい」


フィニードは、静かに手を上げて制した。


「下がってくれ」


警護は驚愕に目を見張り、石のように硬直する。

フィニードは迷うことなくスプーンを手に取り、煮込みを口へと運んだ。


ユラは、呼吸を止めた。


この王宮に来て、すぐに知った冷酷な事実がある。

フィニードには、常に毒の影がつきまとっていた。


王宮で知らぬ者がいない、毒殺未遂事件。

幼いフィニードが毒を盛られ、寝室から出られなくなった。

命こそ繋いだが、あまりに強い毒は、彼をベッドに縛り付けた。


部屋から出てきたフィニードは、別人のように骨と皮だけのやつれた姿になっていた。

フィニードは、それからというもの、公務の場であっても、食事をとらない。

飲み物でさえ、口をつけるふりをするだけだ。


食べ物を口することへの、強い恐怖。

たとえ、毒見された食べ物であっても、安全とは言えない。

その毒見役さえ買収され、犠牲を厭わず、毒に犯されながらも、任務を遂行するかもしれない。


次こそ死ぬかも知れないのだから、彼が強く警戒するのは、必然。

意思でねじ伏せ、何事もないように演じられることでもない。本能が避けようとする。


そんな彼であるのに。


フィニードの手は止まらない。震えていない。

二口目を食べ、三口目を咀嚼する。そして、ふっと肩の力を抜いた。


「うまい」


「……本当?」


「ああ。うまいよ。君の料理を食べるときだけ、生きている心地がする」


ユラの胸の奥で、何かがチリッと音を立てて軋んだ。

彼の、ユラに対する絶対的な信頼を感じる。"聖女"が毒を盛るはずがないと。


――王家を罠に嵌めるために差し向けられた女だ、と知りながら。


「……おかわり、あるから」


掠れた声で、それだけを告げる。


「もらうよ」


フィニードは静かに、空になった器を差し出した。


ユラは視線を逸らし、大鍋へと向かう。

頬が熱いのは、竈の猛火のせいだと自分に言い聞かせながら。


*


季節が巡る。


王宮の会議の間において、臨時の御前会議が召集された。

上段には、久しく姿を現した国王メルヒオーロ。

その傍らにフィニード。そして末席には、ユラが静かに控えている。


今回の主題は、活発化する隣国の軍事行動に対する牽制だった。


国境付近に隣国の重装歩兵が集結しつつあるという急報。

緊迫する会議を、完全に支配していたのは一人の男だった。


筆頭公爵バルタザーロ・エル・フェーロ。


国家の全軍事力を統括するその男は、長机の中央に傲然と腕を組み、鋭い眼光で諸侯を睨み据えていた。


「――では、国境の物見より届いた最新の詳報を読み上げよ」


バルタザーロの重苦しい声に促され、国境付近の領地を預かる諸侯の一人が、震える手で羊皮紙の報告書を広げた。


「はっ。第一報では隣国の重装歩兵が集結しつつあるとのことでしたが、その後の精密な偵察により、展開している軍勢の規模が判明いたしました。現在、国境の向こう側に確認されている兵の総数は、およそ八千にございます」


「八千、だと?」


諸侯たちの間から、困惑したようなざわめきが漏れる。

一国の侵攻軍としては、あまりにも中途半端で少ない数字だった。


報告役の諸侯は、額の汗を拭いながら言葉を続ける。


「は、はい。いずれも訓練の行き届いた常備の精鋭ではありますが、その大半は街道の高速移動に特化した『軽騎兵』と、軽装の歩兵部隊で構成されております。なお、その装備の内訳や後方部隊の編成に――」


「――もうよい! そこまで聞けば十分だ!」


諸侯が羊皮紙の次の行へ目を落としかけた瞬間、バルタザーロの雷のような怒声が報告を強引に遮った。

ビクリと肩を跳ねさせた報告役が、おずおずと顔を上げる。


「で、ですが公爵閣下。まだ後方部隊や随行者の報告が……」


「枝葉末節をだらだらと読み上げるなと言っているのだ!」


バルタザーロは拳で机をドン、と激しく叩きつけ、立ち上がった。

その圧倒的な威圧感に、報告役の諸侯は喉を鳴らして言葉を飲み込む。


「貴様ら、惑わされるな! 軽騎兵を主体とした少数の精鋭――機動力を活かして我が国の国境関所を電撃的に強襲・占拠するための『奇襲先遣隊』に決まっておろうが!」


バルタザーロは広間に響き渡る大声で、自らの推測を絶対の事実であるかのように断じた。


「最初に重装歩兵の噂を流したのは、こちらの目を眩ませるための陽動よ! 敵の狙いは、我々が軍を整える前に先遣隊で国境の門をこじ開け、さらに後方に控えているであろう数万の『侵攻本隊』を一気に雪崩れ込ませることにある!」


一度そう思い込めば、他の可能性など一顧だにしない。


戦場での武力衝突を本領とするこの鉄血の公爵にとって、国境に並ぶ軽騎兵は「侵略の先触れ」以外の何物でもなかった。


なにより、この危機を自らの圧倒的な采配でねじ伏せることは、王家に対する公爵家の絶対的な優位をさらに強固にする絶好の機会でもある。


「敵が小賢しい奇襲を狙っているのならば、その鼻っ柱を国境で完膚なきまでにへし折ってくれるわ!」


バルタザーロは上段の王へ形式ばかりの一瞥を投げると、まるで自分がこの国の最高権力者であるかのように諸侯を見渡して号令を下した。


「これより我が軍の方針を定める! 王都および近隣に駐屯する重装歩兵団、ならびに主力騎士団の過半を直ちに動員し、国境要塞へと前進配置する! 敵の先遣隊が一歩でも国境線を越えれば、圧倒的な兵力差をもって即座に包囲殲滅し、後続の本隊に我が国の武威を見せつけてやるのだ。――異論はないな!」


有無を言わせぬ覇気に呑まれ、諸侯たちが「おお……」「さすがはフェ―ロ公だ」と次々に頷きかける。


有無を言わせぬ覇気に呑まれ、諸侯たちが次々に頷きかけた、その時だった。


「……あの、ひとつだけよろしいでしょうか」


ピリピリと張り詰めた会議の間に、場違いなほど澄んだ声が落ちた。

視線が一斉に集まる先――末席に控えていたユラが、控えめに手を挙げていた。


バルタザーロの眉間が険しく歪む。


「なんだ、小娘。ここは国家の命運を決する軍議の場だぞ。口を挟むことなど許されん!」


怒声に肩をすくめながらも、ユラは視線を逸らさず、報告書を手にしたまま立ち尽くしている諸侯へと向き直った。


「軍の難しいことは分かりません。ただ、少し不思議に思ったのです。……いまご報告くださったモルガン伯爵様の領地は、これまで一度たりとも隣国の兵が迫ったことなどない、南の緩衝地帯に面した土地のはずです」


ユラは首をわずかに傾げ、素朴な疑問を投げかけるように言葉を続けた。


「険しい岩山と荒野ばかりで、王都へ続く大街道からも遠く外れた場所だと伺っております。もし隣国が本気で我が国へ攻め込むつもりなら、なぜそんな『何もない場所』に、わざわざ八千もの精鋭を並べるのでしょうか?」


広間の空気が、ピタリと凍りついた。


バルタザーロの怒号と『八千の精鋭』という数字に眩惑されていたが。

言われてみればあまりにも当然の疑問だった。


「た、確かに……。モルガン領の先は不毛の緩衝地帯。軍勢が抜けられるような道などない」

「国境の主城塞からも離れている。奇襲をかけようにも……」


ざわめきが急速に広がっていく。

ユラは静かにバルタザーロを見つめた。


「最初から、我が国へ『攻め込む気などない』のではありませんか?」


「な、なにを馬鹿なことを!」


バルタザーロは顔を朱に染め、机を睨みつけた。


「侵攻する気がないだと!? ならば、何のために八千もの常備軍が我が国の目と鼻の先に集結しているというのだ! 戦以外の目的などあるはずがなかろう!」


「――それを知るための『詳報』ではないのですか、公爵様」


低く、しかし凛と響く涼やかな声が、バルタザーロの咆哮を制した。

上段の席から静かに立ち上がったのは、フィニードだった。


フィニードの澄んだ青い瞳が、バルタザーロを真っ直ぐに射抜く。


「ユラの言う通りだ。進軍に不向きな緩衝地帯に、八千もの兵が駐留している。これを単なる『奇襲先遣隊』と決めつけて王都の主力を動かすのは、あまりに早計と言わざるを得ない」


フィニードは視線を転じ、汗を拭うモルガン伯爵へと顎を引いた。


「敵の真意を見極めるには、決定的に情報が不足している。モルガン伯、公爵が遮った報告の続きがあるはずだ。『枝葉末節』と切り捨てられた後半部分――その兵たちがどのような装備を持ち、後方に何を連れているのか。一言一句漏らさず、最後まで読み上げよ」


「は、はいっ……!」


王太子の凛とした命に背筋を正し、モルガン伯爵は再び羊皮紙へと目を落とした。

その横で、バルタザーロの太い眉がピクリと険しく跳ね上がる。


「読み上げます。……かの八千の軍勢には、我が国の城塞を破るための投石機や破城槌といった『攻城兵器』が、ただの一つも含まれておりません。また、長期の野戦に不可欠な輜重隊も最小限に留まっております」


「攻城兵器がない……? そもそも攻め落とすべき砦もないのだから、不要ではあるが」

「では、なんのために、ということになる」


諸侯たちが首をひねる中、モルガン伯爵はさらに声を潜め、困惑した様子で続きを読み上げた。


「そして何より奇妙なのが、軍の後方に控える随行者たちの内訳にございます。彼らが伴っているのは、境界の確定を担う法務官や外交官と思しき文官の一団……ならびに、大規模な『測量士』や『調査技師』の集団とのことで……」


「――モルガン伯! そのような不確かな物見の憶測など、この場には不要と言ったはずだ!」


バルタザーロが再び大声を張り上げ、報告をねじ伏せようとした。

だが、その声には先ほどまでの圧倒的な余裕ではなく、どこか棘のある焦燥が滲んでいた。


末席のユラは、そのわずかな変化を見逃さなかった。


(……ああ、そういうことか)


バルタザーロほどの武人が、なぜ報告を最後まで聞かずに『奇襲先遣隊だ』と強引に決めつけたのか。

気づいていなかったのではない。最初から、この『後半部分』を御前会議の場で読み上げさせたくなかったのだ。


「憶測かどうかは、他の事実と照らし合わせれば分かります」


静かな、しかし氷のように澄み切ったフィニードの声が、バルタザーロの怒声を遮った。


「測量士に調査技師、それに法務官の一団。……まるで戦をするためではなく、国境の未確定領域における『何らかの権利の検分』と、それを主張するための示威行動のようです」


フィニードはゆっくりと視線を巡らせ、立ったままのバルタザーロを真っ直ぐに見据えた。


「そういえば、フェ―ロ公。最近、王都の職人街や商会たちの間で、実に興味深い噂が流れているのをご存じですか?」


「……噂、だと? なんのことだ」


「あの草木も生えぬ南の緩衝地帯へ、ここ数週間のうちに、何者かの指示で、職人たちや大量の荷馬車が、人目を忍ぶようにして送り込まれているという話です」


ピシリ、と。

バルタザーロの巨躯が、目に見えて強張った。


フィニードは独自のルートで繋いでいる市井の職人や商人たちの情報網から、すでにその『不自然な人の流れ』を掴んでいたのだ。


それが具体的に何であるかまでは、まだ確証には至っていない。だが、王太子は涼やかな顔のまま、核心のすぐ隣へと一歩踏み込んだ。


「道すらなかったはずの不毛の岩山に、隣国がわざわざ八千の精鋭と調査団を並べて牽制し、密かに人と資材を送り込む。……これだけの動きが重なるからには、あの緩衝地帯で、王家にもまだ報告されていない『何か』が発見されたと見るべきでしょう。公爵、心当たりがおありではありませんか?」


会議の間に、緊張が走った。


フィニードの言葉は、まだ推測の域を出ないものだった。

だが、バルタザーロにとっては心臓を直接鷲掴みにされたも同然だった。


バルタザーロが王家に秘匿し、独り占めしようと画策していた緩衝地帯での『ある重大な発見』。


隣国がいち早くその兆候を嗅ぎつけて国境に兵を並べたため、バルタザーロは『隣国の軍事侵攻』という口実をでっち上げ、自らの息のかかった主力軍を緩衝地帯へ送り込んで、王家が気づく前に武力で一帯を封鎖・独占してしまおうと目論んでいたのである。


このままこの場で追及が続けば、まだ憶測に過ぎない王太子の目が、隠している『真実』そのものに辿り着いてしまうかもしれない。


バルタザーロの額に、じわりと脂汗が浮かんだ。


「……フン。市井の商人や職人どもの、根も葉もない世迷言などいちいち把握しておらんわ!」


公爵は吐き捨てるように言うと、それまでの強硬な主戦論が嘘であったかのように、あっさりと掌を返した。


「だが……まあよい。確かに攻城兵器を持たず、調査官や文官を連れているというのであれば、殿下の仰る通り、今すぐ我が国へ雪崩れ込む『侵攻軍』ではなさそうだ」


「公爵閣下? では、主力軍の動員は……」


戸惑う諸侯たちを、バルタザーロは鋭い眼光で黙らせた。


「敵に攻め込む気がないのなら、こちらから大軍を動かして無用に隣国を刺激するのも得策ではあるまい! 国境の兵には現状のまま警戒を続けさせ、今しばらくは敵の動向の『様子を見る』こととする!」


先ほどまで「鼻っ柱をへし折ってくれる」と息巻いていた男とは思えない、あまりにも急激で不自然な幕引きだった。


「さしあたっての危機がないと分かれば、これ以上論じることもあるまい。――陛下、本日の軍議、これにてお開きといたしますぞ!」


王の返答すら待たず、バルタザーロは荒々しく外套を翻し、逃げるように会議の間から退出しようと踵を返した。


その焦りに満ちた広い背中を、フィニードとユラの静かな瞳が、ただ冷ややかに見送っていた。


*


御前会議の直後。

初夏の風が吹き抜ける、王宮の中庭。


フィニードは、石畳の上に立ち尽くしていた。

隣を歩くユラの横顔を、盗み見る。


――底知れない。


背筋に、冷たい汗が流れていた。

あのフェ―ロ公爵を、一切の躊躇なく論破した知性と胆力。

優しい娘の裏に、どのような怪物が潜んでいるのか。


フィニードが、無意識に一歩、後退りしたその時だった。


「フィニー!」


ユラが、くるりと振り返った。


そこにあったのは、冷酷な軍略家の顔ではなかった。

花が咲きこぼれるような、満面の、愛らしい笑顔。


「ランチにしない? お弁当作ってきたの! 今日はとってもいい天気だし、外の芝生で食べよう!」


ユラは両手で抱えたバスケットを掲げ、悪戯っぽく首を傾げてみせた。


「……え?」


フィニードの喉から、間抜けな声が漏れた。


「ほら、早く早く。焼きたてのパンに、卵と燻製肉を挟んできたんだから。特製ソースは絶品よ!」


小走りに駆け寄ってきて、フィニードの手を引く。

無邪気で、温かで、どこまでも愛らしい少女の温もり。


先刻の冷徹な仮面との、あまりにも激しい落差。


「あ……、ああ……」


フィニードの顔が一気に耳まで赤く染まった。

胸の奥が、激しく跳ね上がる。恐れなど、一瞬で吹き飛んでいた。


芝生の上にシーツを広げ、手作りのサンドイッチを頬張る。


「口の端にソースがついてるわよ」


ユラに指先で拭われ、フィニードは激しくどぎまぎしながら俯いた。


「……君には、本当に敵わないな」


「ふふ、当たり前でしょう? 聖女ですもの」


木漏れ日の下、二人の笑い声が静かに溶け合っていった。


*


婚礼の儀を一ヶ月後に控えた、凍てつく冬の夜。


ユラは豪奢な深藍のドレスに身を包み、門閥貴族たちが集う秘密の夜会へと足を運んでいた。


夜の仮面。フィニードの前でだけ見せる柔らかな微笑みが虚構と錯覚する、感情の抜け落ちた顔。


煙草の紫煙と、むせ返るような香水の匂いが立ち込める広間。


ユラが足を踏み入れた瞬間。

グラスを傾けていた諸侯たちの談笑が、波が引くようにピタリと止んだ。


突き刺さるのは、露骨な警戒と敵意の視線。

ユラの周囲だけ、ぽっかりと無人島のような空白が生まれる。


無理もなかった。


招かれざる客。王太子に取り入った、得体の知れない小娘。

誰もが遠巻きに様子を窺い、冷ややかな視線を送るばかりだった。


けれど、ユラは気にも留めない。

彼女の視線が捉えていたのは、群がる小魚たちではなかった。


広間の最奥、豪奢な長椅子に深く腰を下ろすただ一人の人物。

深紅のベルベットを纏った、王妃グウェンドリンだった。


ユラはグラスを手に、静まり返った空間を真っ直ぐに横切った。

遠巻きにしていた貴族たちが"何をする気だ"と息を呑む気配が背中に伝わる。


王妃の目の前で足を止め、ユラは非の打ち所のないカーテシーを披露した。


「ご機嫌麗しゅうございます、王妃様。今宵はお招きいただき、光栄に存じます」


グウェンドリンは白い扇を胸元で揺らし、氷のような双眸でユラを見下ろした。


「あら、招いた覚えもない方に、歓迎の言葉を差し上げなければなりませんの?」


グウェンドリンは扇の向こうで、冷ややかに微笑んだ。


「聖女という肩書きは便利ですことね。礼儀を欠いても、恥を知らなくても、周囲が勝手に頭を下げてくださるのですから」


彼女はユラを一瞥し、最後にそっと付け加えた。


「もっとも、ここでは誰も、あなたに頭を下げるつもりはないようですけれど」


「味方は求めておりませんわ。聖女ですから」


ユラは顔を上げ、意味深に微笑んでみせた。


「……」


その言葉の意味を、グウェンドリンは理解出来ない。


――聖女だから、どうだというのだ?


しかし、それこそユラの常套句。相手を煙に巻くために。


「わたくしは、この国の『真の未来』を統べられるお方に、ご挨拶へ参ったのでございます」


王妃の眉が、わずかに動いた。


ユラは一歩近づき、王妃の耳へ心地よく届く――それでいて、周囲で聞き耳を立てている諸侯たちにもかろうじて拾える絶妙な声量で囁いた。


「王太子殿下は、相変わらずおいたわしいほどお体が弱く。明日をも知れぬお命。いずれこの国の実権を完全に握られるのは、王家を導く王妃様でございましょう?」


花がほころぶような微笑を浮かべた。けれど、その眼差しには少しの温もりもない。相手の反応を楽しむように、彼女はわずかに首を傾げた。


「教会とのご連携といい、諸侯の皆様や、門閥貴族の方々も。そして、フェーロ公爵様とは、ただならぬご縁がおありのようで。あれほどのお方を、すっかり意のままになさるとは――」


最後の一言を口にするとき、聖女の唇には、いっそう柔らかな笑みが浮かんでいた。


「すべて王妃様の描かれた筋書き通りに進んでいらっしゃいますものね」


グウェンドリンは、虚を突かれたように目を見開いた。

教会が送り込んだ"偽聖女"の駒、であったはずだ。この行動は教会の意思か?


驚きを呑み込むと、彼女はユラを見つめ直した。

その眼差しからは先ほどまでの余裕が消え、鋭い光が宿っていた。


いや、教会がグウェンドリンに黙って動くはずがない。

これは独断であると断言できる。

ならば、この小娘は、王太子の没落だけに満足せず。

次なる最高権力者たる自分に擦り寄ってきた。


――グウェンドリンはそう解釈したのだ。


誰に声をかけるべきか、正確に見抜いた観察眼。

御前会議でも垣間見せた、推測を裏付けるだけの情報を集める調査能力。


「ふふ……。見かけによらず、風向きを読む目だけは持っているようね」


機嫌を良くしたグウェンドリンが、鷹揚にグラスを傾ける。


「ただ、わたくし、少しばかり後悔しておりますの。先の御前会議……。出過ぎた真似をして、フェ―ロ公爵閣下の出兵を止めてしまいましたけれど」


ユラは小首を傾げ、さも残念そうに吐息を漏らした。


「本当は、"果実"を手にされるはずだった、のではありませんこと?」


「"果実"……?」


「ええ。二つの種を宿した、この国で最も硬い殻の実を」


グウェンドリンの微笑が、凍りついた。

眼差しに、もはや好奇心も、戯れめいた余裕もない。

目の前の少女が何を知り、どこまで知っているのか。

見極めるための、鋭く研ぎ澄まされた警戒だけがあった。


周囲の者たちは、二人の間に流れた変化に気づいていない。

果実をめぐる、いささか風変わりな会話。そのようにしか聞こえていないのだろう。


だが、グウェンドリンにはわかっていた。

ただ知っているのではない。こちらが隠した意味を、正確に読み取っている。


「……ずいぶんと、珍しい果実にお詳しいのですね」


王妃の声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。

ユラはその変化を前にしても、少しも怯む様子を見せなかった。

むしろ、相手の緊張を解きほぐすように、柔らかな微笑を深める。


「ご安心くださいませ、王妃様」


鈴を転がすような、澄んだ声だった。


「わたくしは、王妃様のお邪魔をしに参ったのではございません。――神に誓って」


最後の一言だけは、冗談めかすことも、曖昧に濁すこともしなかった。


ユラはまっすぐに王妃を見つめていた。

その瞳には、挑発の色も、媚びるような打算も見当たらない。


少なくとも、表面上は。


「まあ……」


グウェンドリンは、ふたたび微笑を浮かべた。

相手の言葉を受け入れたように見せながら、その奥にある真意を探ろうとする。


「それで? 何をお望みなの? 今の状況をわかってらっしゃるのかしら?」


問いかけは柔らかい。

けれど、その一言一言は、ユラの言葉に潜む矛盾を探るために置かれていた。


グウェンドリンは、相手に答えを急かさない。

ただ、微笑みながら待っていた。


「お望みの実を手にするのは、いささか難しくなってしまったようです。けれど、王妃様ほどのお方が、ひとつ実りを逃したくらいでお困りになるとも思えませんわ。この庭には、まだ摘み頃のものが残っているご様子ですもの」


ユラはグウェンドリンの目を見つめ、声をひそめるでもなく、ただ柔らかく言葉を添えた。


「風向きを変えるくらいでしたら、わたくしにもお手伝いできるかもしれませんわ」


グウェンドリンは、ふっと息を吐いた。

唇に浮かんだのは、苦笑とも嘲笑ともつかぬ、ひどく冷ややかな笑みだった。


「まったく」


吐き捨てるような口調には、失望よりも苛立ちが滲んでいた。


「せっかくの下準備が台無しよ。……あそこに眠るものが何なのか、王家に知られるのを恐れて日和るなんてね」


その言葉に、遠巻きにしていた諸侯たちの足が一歩、前へと出た。


ユラは目を丸くし、無垢な少女のように声を弾ませる。


「まあ……。あそこに眠るもの、でございますか?」


「ええ。教えてあげるわ。あの南の緩衝地帯で見つかった『何か』の正体――あれは、国庫を優に凌駕するほどの大銀鉱山なのよ」


ざわっ、と貴族たちの間に熱を帯びた動揺が広がった。


先の御前会議で王太子が指摘した『何か』。

その正体が莫大な富を生む銀山だと知り、諸侯たちの目の色が一変する。


グウェンドリンは誇らしげに顎を上げ、周囲の諸侯たちに聞こえよがしに言い放った。


「しかも、最初から隣国など恐れるに足りなかったの。この私が、親しい枢機卿を通じて、裏でしっかり“お話”をつけてあるのだから」


グウェンドリンは陶酔したように言葉を続ける。


「国境に並べた兵も調査団も、ただの体裁づくりの張り子の虎よ。こちらが軍を差し向けて占拠してしまえば、あちらは戦わずして引き下がり、すぐにでも自分たちのものにできる手筈になっていたのよ。すべて、私の顔を立ててね」


諸侯たちが、ごくりと唾を呑み込む音が聞こえた。

だが、微笑みを浮かべるユラの胸中を駆け巡っていたのは、呆れにも似た憐憫。


(……安易ね)


グウェンドリンの言葉はあまりにも都合が良すぎた。

一国の利権を揺るがすほどの大銀山を、『顔を立てる』程度の理由でむざむざ手放すはずがない。


ユラは、グウェンドリンの周囲を取り囲む諸侯たちの強欲な顔を見渡した。

ここに集まっているのは皆、フェ―ロ公爵の傘下に連なる武闘派の有力貴族たちだ。


王妃が何を企んでいようと、今この連中を王都から遠く離れた南の荒野へ放り出せるなら。


来るべき日に向けた最大の障害――。

フェ―ロ公爵の軍事力を、内側から大きく削いでおくことができる。


ならば、この茶番に、喜んで乗ってやろうではないか。


ユラは心中の不信を完璧な微笑みの下に隠す。

いかにも"今、気づいた"と言わんばかりに周囲を見回した。


「まあ! でしたら、御前会議ではああ申し上げましたけれど……。今はむしろ、絶好の『攻め時』なのではありませんこと?」


「な、なんだと……?」


諸侯の一人が、思わずといった様子で身を乗り出す。

ユラはドレスの裾を揺らし、甘い毒を振りまくように微笑んだ。


「だって、そうでしょう? 国境の兵などただの見せかけ。そこへ軍を差し向ければ、戦わずして銀鉱山が手に入るのですわ。ましてや、王妃様の手引きで事後の手打ちまで済んでいるというのなら、これほど確実なお話が他にございましょうか?」


グウェンドリンが、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。


「ええ、その通りよ。あなたもなかなか話が分かるじゃない。今動けば、一滴の血も流さずに銀鉱山は手に入るというのに、バルタザーロったら慎重すぎて困りものね」


「豊かな銀鉱山を、指を咥えて見ているのはあまりに惜しいですわ」


ユラは妖艶な笑みを深め、最後の薪をくべた。


「王家の目を気にして及び腰になっている公爵閣下に、いちいちお伺いを立てる必要などありません。閣下には『事後報告』でよろしいのです。……公爵閣下に内緒でいち早く軍を動かし、最初に旗を立てたお方が、あの銀鉱山の新たな主となりますね」


その一言で、諸侯たちの瞳に強欲の火が一気に燃え盛った。


先ほどまでの警戒など、跡形もなく吹き飛んでいる。


「おお……! 王妃殿下がそこまでお膳立てしてくださっているとは!」

「閣下に独り占めされてたまるか! 閣下の耳に入る前に、進発の準備を!」

「我が領の領地軍も全軍向かわせる!」


我先にと、諸侯たちが夜会の場を飛び出していく。


――愚かな羊たち。


呟く声に、答えるものはいない。



自分だけは他人を操っていると思い込む慢心こそが、最大の罠。破滅へのカウントダウンは、すでに始まっております。いよいよ運命の前夜が訪れるのでございます。

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