第四場:玉座の即興劇、婚約の大権。
国を治める王という生き物は、時に神よりも冷酷な計算をするものでございます。玉座の前に呼び出された二人の前に立ちはだかるのは、王国の支配者メルヒオーロ。果たして、敵か、味方か――。
頭上の、白銀の角。
誰もが無言で、誰もが冷徹に注視している。
謁見の間で。深紅の絨毯の上に両膝をつき、ユラは、頭を垂れて控えている。
両脇には、王国の高官たちがずらりと居並んでいた。
宰相。貴族院の重鎮たち。無表情な衛兵。
夜会のような、門閥貴族による柔らかな壁はもうない。
ここは王家の直轄領域。剥き出しの緊張感だけが空間を支配していた。
ユラは従順な令嬢の仮面を被り、胸の鼓動だけを静かに数える。
テラスでの密談から三日後、王宮から正式な使者が遣わされた。"謁見を許す"、と。
重々しい軋み音を立て、巨大な扉が左右へと開かれた。
衛兵の杖が、ゴン、と石床を打つ。
高官たちが、一斉に深々と頭を垂れた。
玉座の奥から、ひとつの人影がゆっくりと歩み出てくる。
ユラは伏せた視界の端で、その姿を捉えた。
国王メルヒオーロ・エル・アルクルーモ。
国家の主は、痛々しいほどに痩せ細っていた。
肩に羽織った緋色の豪奢なマントが、まるで枯れ木に引っかかった布のようだ。
力なく垂れ下がっている。
伸び放題の髪には白いものが混じり、顎の無精髭も何日も放置されたままだろう。
頬はこけ、眼窩は深く落ち窪み、その奥には光がほとんど見えない。
半年以上も政務を放棄し、病と狂気に侵されたと囁かれる。
だが、異様なのは玉座の主だけではなかった。
壇上の左右。玉座を挟むようにして、二つの巨大な影が進み出てくる。
右手には、白金の豪奢な法衣を纏った男。
神聖教会の頂点にして、"財の象徴"――大司教カスパーロ・エル・クルーツォ。
左手には、黒鉄の胸当てを着けた偉丈夫。
十万の軍を掌握する、"力の象徴"――筆頭公爵バルタザーロ・エル・フェーロ。
国を二分する二大巨頭が、揃って玉座の脇に控えている。
この謁見が尋常ならざる場であることは明白だった。
高官たちが、一斉に息を詰めた。
王が、玉座の前で足を止めない。
階段を一段、また一段と降りてくる。
衛兵が狼狽し、思わず歩み出ようとしたが、じっと見守る宰相の制止に遭って押し留まった。
王の靴音が、ユラのすぐ目の前で止まる。
衣擦れの音。
膝が床につく、乾いた音。
ユラは、思わず顔を上げた。
この国の頂点に君臨する国王が、下級貴族の令嬢を前にして、跪いている。
「聖女様」
掠れた、しゃがれた声だった。
「よく、見せていただいても宜しいか」
ユラは、反射的に漏れそうになった声を喉の奥で押し留めた。
「……どうぞ」
わずかに掠れた返答。儀も礼もない。
だが、王はそれを咎めようとはしなかった。
ただ、じっと、ユラの顔を見つめている。
てっきり、角を検分するのかと思った。誰もがそうするように。
それは聖女の証。最も分かりやすい目印。
だが、王は角を見なかった。
ユラの瞳の、その奥底を、真っ直ぐに覗き込んでいる。
深く落ち窪んだ眼窩の奥、疲弊しきった灰色の瞳が、徐々に澄んだ光を帯びていく。
視線を逸らすことなど、できなかった。
時が、粉のように静かに落ちていく。
やがて、王の乾いた唇が微かに震えた。
「聖女様」
一度、静かに目を閉じる。
そして、ゆっくりと、深々と頭を垂れた。
「こうして、お目にかかれたこと。身に余る光栄に存じます」
臣下が主君に捧げる、至高の礼。
ユラの喉が、息を吸い込んだまま凍りついた。
聖女、様。
偽物と罵られ、鞭打たれ、暗闇に閉じ込められ、生きてきた。
敬意を込めて聖女と呼ばれたことなど、生まれてから一度たりともなかった。
嘲笑でも、皮肉でもなく。
ただ、純粋な祈りのように。
ユラは、笑った。
酒場で何百回と練習し、客を安心させてきた、あの無敵の笑顔で。
「頭をお上げください、陛下。私のような者には、勿体ないお言葉です」
王の肩が、微かに揺れた。
顔をあげた王は、ちらりと玉座の脇で立ち尽くすフィニードを一瞥し。
「フィニードから伺いました。聖女様が、我が王家と結ばれても良いと、そうおっしゃってくださったと」
ユラは、静かに頷いた。
「はい。そのように申し上げました」
「ありがたいことです。これ以上の名誉はありません。直ちに、婚約の手続きを進めさせていただきます。――今、この場で」
謁見の間が、凍りついた。
「陛下!」
声を上げたのは、左手に立つバルタザーロだった。
腰の佩刀に手をかけ、彫像のような顔に侮蔑の念を滲ませて歩み出てくる。
「正気とは思えませぬな。貴族院の家系精査も経ておらぬ、下級貴族の養女。斯様な者を王太子妃に迎えるなど、王家の血統規定に反します」
バルタザーロの鋭い眼光が、跪くユラを値踏みするように射抜いた。
「国軍十万の剣は、不可侵たる王統の純血にのみ捧げられるもの。身元も知れぬ小娘に王家の未来を委ねるなど、軍閥諸侯は到底承服いたしかねます」
背後の諸侯たちが、公爵の言葉に賛同するようにざわめいた。
そこへ、今度は右手の白金が滑り出た。
カスパーロが、慈悲深い笑みを湛えながら歩み寄ってくる。
「公爵閣下の申される通り。教会法に定められし洗礼台帳の精査には、最低でも半年の審問期間を要します」
二人の言葉は、極めて正当な手続き論に聞こえた。
だが。
「承服しかねる、だと?」
低く、掠れた呟き。
それは、嵐の前の地鳴りのように静かだった。
王が、ゆっくりと立ち上がった。
その立ち姿から、先ほどまでの弱々しい老人の気配が、霧散するように消え去っていた。
「陛下……?」
バルタザーロが眉をひそめる。
王の背筋が、音を立てるように伸びた。
深く窪んでいた灰色の瞳の奥に、青白い鋼の光が宿る。
研ぎ澄まされた、絶対者の光。
「思い上がるな」
王の声は、空間そのものを震わすように、響く。
諸侯のざわめきが、水をかけられたかのように、途絶えた。
「貴族院の審議? 教会の審査? ――貴様らはいつから、王の上に立つ神になったのだ」
王は玉座の肘掛けへと歩み寄り、そこに置かれていた一冊の重厚な書物を掴み取った。
金箔で縁取られた、古びた羊皮紙の法典。
ドォン!
王はそれを、バルタザーロとカスパーロの足元へ力任せに叩きつけた。
重々しい破壊音が、静寂を粉砕する。
「読め。我がアルクルーモ王国の、建国基本法第七条を」
王の指先が、床の法典を指し示す。
「『国王は一切の諮問を経ず、単独にして至高の大権を発動し得る』」
王は両手を広げ、壇上の二人を見下ろした。
「朕は神より冠を授かりし、この国の唯一の至高主権者。貴族院の審議も、教会の事前審査も、王の絶対権の前にはただの戯言に過ぎぬ」
「な……何を」
武威を誇るバルタザーロをして、気圧される、王の覇気。
王が、右手を高く掲げる。
「抜刀」
短く、冷徹な号令。
次の瞬間、壇上を取り囲むように配備されていた白銀の衛兵たちが、一斉に鞘を払った。
澄んだ金属音が重なり合い、百条の白刃が謁見の間の光を反射する。
その切先が、寸分の狂いもなく、バルタザーロとカスパーロの喉元へ向けられる。
「ひっ……!」
カスパーロの背後にいた若い司教が、悲鳴を上げて腰を抜かした。
バルタザーロの頬の肉が、ピクリと跳ねる。
あたかも首筋に白刃の冷たさが触れているかのように。
公爵の瞳に本物の戦慄が走った。
「陛下! 正気か! 我ら二人に刃を向けるというのか!」
バルタザーロが怒鳴る。
だが、王は眉ひとつ動かさなかった。
冷え切った瞳で、軍閥の巨頭を見下ろす。
「正気だとも。朕は王だ。この国で最も神に近く、最も法を統べる者だ」
王は壇上を一段降り、二人の目の前へと立った。
「今この場で、朕の勅命に異を唱える者は、王権に対する反逆者とみなす。――今ここでその首を刎ねられたいか?」
息が詰まるほどの、剥き出しの殺気。
王は狂気など侵されていない。
ここで逆らえば、大義名分のもとに即座に斬られる。
バルタザーロは奥歯をギリと噛み締め、佩刀からゆっくりと手を離した。
カスパーロもまた、額に脂汗を滲ませ、震える息を吐き出した。
二人は、屈辱に顔を歪めながら、深々と頭を垂れた。
「……異存、ございませぬ」
絞り出すような、カスパーロの声。
「よろしい」
王は背を向け、淡々と命じた。
「直ちに、婚約の儀を執り行う。必要なものはすべて揃っている」
王の合図とともに、書記官たちが震える手で長机を運び込み、羊皮紙を広げた。
王は細い金の鎖で繋がれた一対の玉杖を掲げ、儀式を怒涛の勢いで進めていく。
当事者の合意。
国王の勅許。
立会人としての諸侯の承認。
王の圧倒的な威光にねじ伏せられ、誰一人として口を挟むことすらできない。
略式と称しながらも、そこには法的な不備など一片たりとも存在しなかった。
そして、最後に残されたのが神前契約による"婚前協定"の締結だった。
カスパーロは、先ほどまでの屈辱を押し殺しながら進み出た。
その瞳の奥には、再び爬虫類めいた狡猾な光が宿っている。
音もなく現れた聖録公証官が、一通の協定書を取り出した。
それは、先ほど書記官たちが広げた通常の羊皮紙とは、明確に一線を画していた。
純潔と神聖の象徴とされる、極めて希少な『白牝鹿の皮紙』。
深い森の奥にのみ棲息する傷ひとつない白鹿。
その皮を、絹のように滑らかに鞣し上げた最高峰の契約紙だ。
協定書を受け取ったカスパーロは、当然のように署名席へと腰を下ろした。
本来、これは王家と花嫁の生家たるクランベル子爵家との協定であり、その席に着くべきは子爵自身のはずだ。
だが、当のウヌコルノ子爵はカスパーロの背後に控え、蒼白な顔で小さく肩をすぼめている。
教会系の高利貸しによって借金漬けにされ、形式上の養父として担ぎ出された、哀れな傀儡に過ぎなかった。
「陛下。慣例に基づく基本条項は、すでにこちらへ記載してございます。しかしながら、この度の婚姻は前例なき異例の措置。ゆえに、万が一に備えた『違約条項』を定めておく必要がございます」
「……申してみよ」
カスパーロは薄い唇の端を吊り上げ、冷徹な声で読み上げた。
「『本婚姻が、不貞、欺瞞、悪意ある破棄、あるいは不当なる断罪の企てによって破綻に至った場合――王家はウヌコルノ子爵家に対し、違約金として金貨百万枚を支払うものとする』」
謁見の間が、大きく波打つようにざわめいた。
金貨、百万枚。優に国家予算の数倍に匹敵する、天文学的な額だ。
「さらに、もう一項」
カスパーロは周囲の動揺を意にも介さず、氷のような声で言葉を重ねた。
「『支払いが不能なる場合、これに代わる王室全財産の徴収、ならびに統治権限の全面的な放棄をもって、これに充当するものとする』」
「――貴様。言わせておけば、度し難き不敬を……!」
王の双眸から、射殺さんばかりの鋭い眼光が放たれる。
あまりにも露骨な挑発に、怒りで声が震えていた。
無理もない。
王家への敬意など微塵も感じさせない、追い剥ぎにも等しい暴論だ。
このような条項を呑めば、王家の威信は地に落ちる。
そもそも金貨百万枚など、支払えるはずがない。
つまりカスパーロは、公衆の面前で突きつけているのだ。
『違約の折にはただちに王位を明け渡せ』と。
カスパーロには確信があった。王はこの毒杯を拒めない、と。
なぜなら、ようやく見出した"奇跡"たる聖女との婚姻を。
今誰よりも渇望し、急いでいるのは他ならぬ王家自身だからだ。
ここで異を唱えるのなら。
今すぐ後ろのウヌコルノ子爵に首を横に振らせても構わないのだぞ――。
という、無言の脅迫。
「正規の身元精査を省き、素性の定かならぬ令嬢を迎え入れよと仰せられたのは、他ならぬ陛下ご自身にございます。ならば、相応の担保をお立ていただくのは当然の道理かと」
カスパーロは恭しく頭を垂れながら、猛毒を含んだ言葉を紡ぐ。
「形式上はウヌコルノ子爵家が受け皿となりましょうが、この違約金も統治権も、すべては万が一の破綻が生じた折、国と民の動揺を鎮めるために不可欠な備え。……混乱を招いた当事者が手綱を握り続けたままでは、暴れ狂う馬が静まる道理もございませんからな」
「……先ほどの意趣返し、のつもりか」
低く唸るような王の声に、カスパーロは今度こそ王の喉元を押さえたと確信し、深く、粘りつくような笑みを浮かべた。
「あの」
ユラが、控えめに、だが澄んだ声で手を挙げた。
「私も、その条件に賛成いたします」
カスパーロが、怪訝そうに眉をひそめる。
ユラは何食わぬ顔で、愛らしい微笑を浮かべていた。
「破棄など起こり得ません。皆様にご安心いただくためになら、その条項を記載すべきです」
――どういうつもりだ、小娘。ワシに恩を売ろうとでも?
カスパーロは心の中で困惑した。
この婚約は破棄される。それは、この小娘にも理解出来ているはずだ。
カスパーロも、部下からの報告のなかで、この小娘には、賢しさがあることは認めていた。
そのうえでも、この場で、わざわざする発言する意味が、理解できない。
しかし、追い風には違いない、頭の硬い王も、"聖女"の言うことは聞く。
「陛下、いかがでございましょう」
カスパーロが促す。
王は何も言わなかった。
ただ、静かにユラを見つめている。
深く窪んだ瞳の奥底で、底知れぬ炎が静かに揺らめいていた。
やがて、王は静かに命じた。
「公証官。すべて、記載せよ」
指示を受けた聖録公証官は、筆を走らせた。
寸分の淀みもなく、羊皮紙の上に文字が刻まれていく。
国王メルヒオーロが、署名した。
教会の威圧に怯えるウヌコルノ子爵が、震える手で署名した。
立会人として、カスパーロ、バルタザーロが、署名した。
フィニードが、覚悟を込めて署名した。
そして最後に、ユラが滑らかな筆跡でサインを刻む。
全員の署名が揃ったのち、聖録公証官が星天秤が彫り込まれた白銀の公証印を押す。
公証印が刻まれたその刹那、白牝鹿の皮紙が淡い黄金の光を放った。
不可侵の公証官により、婚前協定書が天と地の記録として完璧に認証されたのだ。
もはや、後戻りはできない。
儀が終わり、圧倒的な王権の余韻に怯える諸侯たちが、静かに王の退出を待つが。
王は、再び、ユラの元へと歩み寄る。
「聖女様」
誰の耳にも届かない、極小の囁き。
「我が祈りをお聞き届けくださり、深く感謝いたします」
「陛下、どういう……」
ユラは困惑した。王の言う意味は理解しても、それはユラに向けた言葉ではない。
「毎晩、祈り、この国と民を救いたまえと乞い願ってまいりました。気が触れたと思われようとも、繰り返してきました」
王の疲弊した顔に、確信に満ちた穏やかな笑みが浮かんでいた。
「――聖女様。我が祈りは、無駄ではなかった。神は応えてくださったのだ。……今は感謝の言葉しかありませぬが、この大恩には必ずや報います」
ユラは何も答えなかった。答える術を持たなかった。
王は小さく一礼し、威厳に満ちた足取りで去っていった。
神への祈り。
頭上の白銀の角の根元が、ほんのわずかだけ、ぽっと温かくなった気がした。
神への祈りは、奇跡をねだるためのものではなく、己の覚悟を天に告げるためのもの。王の真意に触れ、二人の角と心に、またひとつ小さな熱が灯ったようでございます。




