第三場:月明かりのテラス、ふたりの素顔。
華やかな夜会の裏側には、いつの世も毒と謀略が渦巻くものでございます。周囲すべてが敵に見える孤独な王子と、身分を偽り王宮へ潜り込んだ娘。欺瞞に満ちた喧騒を抜け出し、月明かりのテラスで仮面を脱いだ二人が交わしたのは、打算を超えた、たったひとつの温かな約束でございました。
教会の莫大な財は、すべてを迅速に進めた。
没落寸前のウヌコルノ子爵家から買い取った貴族籍。
借金に塗れた老子爵との、書類上の養子縁組の手続き。
最高級の絹のドレス。宝石商が三日三晩かけて磨き上げた、豪奢な首飾り。
作法は、教会が手配した冷徹な礼法教師に叩き込ませた。
膝を折る角度。扇の持ち方。視線を伏せる、溜めの長さ。笑い声の高さ。
わずか、二ヶ月。
ユラはそのすべてを、完璧に身に着けた。
役に入り込むのは、得意だった。
酒場の看板娘になりきれるのと同様、求められる"役"の中へ、体ごと滑り込ませることができる。
前世で板の上に立ち続けた、唯一の財産。
令嬢にも。聖女にも。
そして、稀代の悪女にさえも。
今夜の役は、田舎から上がったばかりの、初々しい子爵令嬢ユリシア・エル・ウヌコルノ。
目は大きく。足取りは小さく。けれど、怯えすぎない。
育ちの良さは、堂々とした佇まいにこそ宿るものだから。
ユラは、王宮の大広間の入口で、わずかに立ち止まってみせた。
シャンデリアの眩い光が、天井から降り注いでいる。
楽団が奏でる軽やかなワルツ。鏡のように磨き上げられた大理石の床。
きらびやかな扇と、宝石と、濃密な香水の渦。
一見すれば、誰もが憧れる華麗な社交界。
だが、その実態は権謀術数が渦巻く冷酷な戦場だ。
その渦中へ、白銀の"角"を頭に戴いた令嬢が、静かに足を踏み入れた。
誰も、何も言わない。
白銀の角は、どう見ても異様だ。目立ちすぎるほどに異彩を放っている。
すれ違う貴族たちは、一瞬だけ鋭い視線を向け、すぐに逸らした。何食わぬ顔で歓談に戻る。
教会が金をばら撒き、門閥貴族の一派に話を通していた。
彼らは、この巨大な陰謀に乗った。
大広間には、"白銀の角について口に出してはならない"という見えない掟が敷かれている。
隙なく並んだ門閥貴族の夫人たちは、おしゃべりに興じるふりをしながら。
ユラの周囲に柔らかな"壁"を作っていた。
王家に近しい実務貴族派の若い男爵が近づこうとすれば。
笑顔の夫人がひらりと割って入り、巧みに話題を逸らす。
王家側の人間は、ユラの素性を誰一人として知らない。知らされていない。
この娘が何者で、なぜ今夜ここに立っているのかを。
広間の中央では、今夜の主役が、令嬢たちの輪に幾重にも取り囲まれていた。
王太子フィニード・エル・アルクルーモ。
金糸の髪。彫刻のように整った顔立ち。しなやかで長身のシルエット。
豪奢なシャンデリアの下、彼は確かに"完全無欠"の王子様そのものだった。
だが、その表情は暗く沈んでいた。
せっかくの美貌が、まるで重い霧の底に閉ざされているかのようだ。
貴族令嬢たちが、我先にと群がっていく。
「殿下、よろしければ一曲」
「殿下、わたくしと」
「あら、わたくしが先ですわ」
フィニードは、そのどの手も取らなかった。
丁寧に、静かに、全員の誘いを拒絶していく。
無理もない、とユラは冷ややかに観察した。
王家は、完全に落ち目だ。
権力は門閥貴族が牛耳り、財政は教会が握っている。
王家に残されているのは、ただ"尊き血筋"だけ。
そして、その血筋だけが、飢えた獣たちに狙われているのだ。
うっかり誰かの手を取れば、その夜のうちに既成事実を作られ、婚約を迫られる。
差し出される白い指先を、フィニードは触れさせまいと背後へ引いていた。
握りしめた拳が、白くなるほど強張っている。
誰も、フィニードの心など見ていない。
彼らが見ているのは、青年の背後にある"空の玉座"だけだ。
今夜も、王は不在。
フィニードは孤軍奮闘、断り続けた。
拒絶を重ねるたび、その仮面の笑顔が少しずつ削られていく。
教会から叩き込まれた情報によれば、"王太子は幼い頃から身体が弱い"はず。
人生の大半を寝具にくるまって過ごしていると聞いている。
追い打ちをかけるように、彼への攻めは途切れない。
老貴族たちが、入れ替わり立ち替わり、挨拶にかこつけて彼の前に立ちはだかる。
「殿下、いつまでもお独りでは、国の行く末が案じられますな」
「早く婚約者をお決めにならなくては。王家の安泰のためですぞ」
「陛下のご体調も優れぬ今、殿下がしっかりなさらねば」
物言いは慇懃無礼。
だが、その一言一言は、容赦なく投げつけられる鋭利な礫そのものだった。
フィニードは、喉の奥で息を押し殺し、深く息を吸い込んだ。
「失礼。少し、風に当たってまいります」
誰とも視線を合わせず、大広間を足早に横切る。
そして、テラスへと続く硝子扉の向こう側へと姿を消した。
しばし時を置いてから、ユラは音もなく歩き出した。
テラスへと続く重厚な硝子扉を押し、冷たい夜気の中へと抜け出る。
冷涼な夜風が、火照った頬を撫でた。
テラスの片隅。大理石の手すりに両肘をもたれさせ、一人、佇んでいた。
大広間の眩い喧騒から逃れてきた若き王太子。
その横顔は、深い孤独と疲労の色を滲ませている。
夜風に乱れる金糸の髪。青い瞳は、闇をただ見つめていた。
ユラは、足音を忍ばせ、彼の背後へと近づいた。
礼法教師に叩き込まれた通り、ドレスの裾を優雅に持ち上げ、完璧な角度で膝を折る。
「お寛ぎのところを恐れ入ります、王太子殿下」
鈴を転がすような、よそ行きの澄んだ声。
フィニードが、弾かれたように振り返った。
「夜風が心地よくて、つい足を踏み入れてしまいましたわ」
フィニードの青い瞳が、大きく見開かれる。
ユラの顔を見て、それから頭上の"白銀の角"を見て――呼吸を忘れたように固まった。
当然だ。何ヶ月も、あの狭い酒場で顔を合わせていたのだ。
いくら豪奢なドレスで着飾って、上品な化粧を施していても。
見間違えるはずがない。間違えようのない、確かな目印。
テラスに、二人きりの張り詰めた静寂が落ちる。
フィニードは、まだユラを凝視していた。
ユラは彼の視線を受け止めながら、あえて扇で口元を隠し、小首を傾げてみせる。
「わたくし、ウヌコルノ子爵家のユリシアと申します。以後、お見知りおきを、殿下」
フィニードは一瞬、喉の奥で息を詰まらせた。
だが、ユラが"初対面の令嬢"として振る舞い続けるつもりだと悟る。
すっと背筋を伸ばし、冷ややかな"王太子"の仮面を被り直した。
「これはご丁寧に、ウヌコルノ令嬢。せっかくの夜会だというのに、私のような無粋な男が風雅を乱してしまいましたか?」
「まあ、滅相もございませんわ。殿下のお姿があまりに気高く、まるで月光のようでしたので、わたくし、見惚れてしまいまして」
「光栄です。ですが、月光というのは存外に冷たいものですよ。あなたのような可憐な花が当たれば、凍えてしまうやもしれない」
「ふふ、殿下ったら、お戯れを……」
扇の陰で目を細め、しおらしく微笑むユラ。
完璧な角度で顎を引き、優雅に応じるフィニード。
一秒。二秒。三秒。
張り詰めた空気の中、視線が絡み合う。
いつもは木のジョッキを片手に「おまけだよ」と黒パンを差し出していた娘が、絹のドレスで澄まし顔をしている。
いつもはフードを目深にかぶり、隅の席で黙々とスープを啜っていた青年が、キザな台詞を吐いている。
フィニードの眉間が、かすかに震えた。
ユラの肩が、微かに揺れた。
「……っ、ふ」
「……っ」
どちらからともなく、限界が訪れた。
ユラは、喉の奥で笑いを噛み殺す。
フィニードもまた、片手で口元を押さえ、肩を震わせて静かに笑っていた。
張り詰めていた重苦しい空気が、夜風にさらわれて消えていく。
ユラは目尻に浮かんだ微かな涙を指先で拭い。
「フィニー、"可憐な花"はないんじゃない? 自分で言ってて笑ってなかった?」
「君の"月光のよう"に比べれば、いくらかマシだったと思うけれど」
ユラは笑いの余韻を瞳に残したまま、フィニードの隣に並んだ。
「それで……ユラ。どうして?」
当然の問いだった。何を問うものか、詳しく言うまでもない。
何から何まで、どうして?、の一言だろう。
なぜ、下町の酒場の看板娘が、子爵令嬢として、豪奢なドレスを纏って、王宮の夜会にいるのか。
その背後にどんな暗雲が渦巻いているのか、その最前線にいる王太子が、気づかないはずがない。
ユラは、笑みを収め、人差し指を自分の唇にそっと当てた。
「聞かないで」
静かな、けれど芯のある声。
「言えないの。今は、何も」
フィニードは小さく息を呑んだ。
ユラの瞳の奥にある、揺るぎない覚悟。
そして、言えないという言葉の裏に横たわる、巨大な闇の質量。
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「お願い?」
「婚約者にしてほしい」
理由も明かさない。背後に誰がいるのかも告げられない。
客観的に見れば、あまりに危険で、毒を孕んだ申し出だった。
それでも、ユラは真っ直ぐにフィニードの青い瞳を見上げた。
「どうかしら。駄目?」
フィニードは、瞬きもせずにユラを見つめていた。
やがて、張り詰めていた彼の肩から、すっと力が抜けた。
「いいよ」
ユラの指先が、ぴたりと止まった。
「本当に、いいの? 私、何も言えないのよ?」
フィニードは困ったように、けれどひどく柔らかく微笑んだ。
「笑った顔も知らない令嬢たちより、ずっといい」
フィニードは視線を落とし、ユラの手元――いつも温かい料理を差し出してくれたその手を、静かに見つめた。
「どうせ誰かと婚約しなければならないのなら……君ならいい。いや、君がいいんだ、ユラ」
静かで、一点の曇りもない言葉。
ユラの胸の奥が、強く跳ねた。
冷徹に計算し尽くしていたはずの胸の奥で、微かな軋み音が鳴る。
ユラは熱くなった頬を隠すように、夜風の吹く方角へ視線を逸らした。
「僕にも言えないことはある。僕にしか出来ないことを、するつもりだ」
その言葉の意味を、今はまだわからない。
けれど、尋ねるわけにもいかない。お互い様だから。
「決まりね。あとで後悔しても、知らないから」
「後悔なんてしないさ。父上に話を通しておく」
「ええ。ありがとう。陛下は病床に在られるとお聞きしているけれど……」
「ああ、部屋にこもり、ずっと神に祈っている。この国を、この国の民を、救ってくれと。だから――。君の存在、さぞ待ち望んだ奇跡に映るだろう」
「そう……」
ユラは小さく息を吸い込み、今度は自然で美しいカーテシーをしてみせた。
「じゃあ、またね」
「ああ。また」
硝子扉の向こう、光の満ちる大広間へと歩き出す。
背中に、今までとは違う、確かな熱を持った視線を感じていた。
計画は順調だ。すべて、筋書き通りに進んでいる。
なのに、胸の奥に灯ってしまった小さな温もりだけが、どうしても冷えてくれなかった。
理性では復讐のための駒と割り切ろうとしても、胸の温もりまでは偽れないのが、人の心の厄介で、いとおしいところでございます。神といたしましても、この二人の行く末は、少々気になるところでありました。




