第二場:看板娘のスープと、契約の配役。
神の前で結ぶ契約とは、本来、何人たりとも歪めることのできぬ絶対の天秤でございます。舞台は下町の寂れた酒場。すべての歯車は、一杯の温かな煮込みと、一枚の羊皮紙から回り始めるのでございます。
――刻は、遡る。
頭上に生えた、"白銀の角"。
すべての、始まり。
農村に生まれたユラは、幼くして教会に買い取られ、辺境神殿の奥深くへと幽閉されていた。
神殿の床は、冷たかった。
毎朝、毎昼、毎晩。
祭壇の前へと引きずり出され、石床に両膝をつかされる。
黒衣の司祭たちが幾重にも取り囲み、張り詰めた沈黙を切り裂くように"聖句"を詠唱した。
彼らは正規の司祭ではない。
白銀の角を持つ存在への畏怖から逃れるため、司祭の皮をかぶせた偽物。
『光れ』
そう命じられるたび。
ユラの頭上の角は、ただ冷たく、沈黙を保った。
何も起きない。それだけで、鋭い革の鞭が唸りを上げて幼い背中へと振り下ろされた。
「出来損ないめ」
「神を欺く偽物め」
石造りの丸天井に反響する罵声。皮膚が裂ける、鈍い音。
与えられた食事は、黴びた黒パンの欠片と、濁った水だけ。
光らぬ角を詰られ、暗闇の地下室へと閉じ込められる日々。
祈りではない。ただの、暴力だった。
幼い身体と精神が耐えられるはずもない。
けれど、ユラは耐えた。ただの一度も、涙を零さなかった。
背中に走る熱病のような激痛を噛み殺し、暗い床を睨みつけ、生き延びた。
――今は、耐えなさい。
頭の奥で、その"声"が響くたび。
裂けた背中に、そっと柔らかな掌が重ねられたような温もりがあった。
不思議と、痛みが引いていく。冷え切った胸の底に、小さな熱が戻る。
「いつまで、こんなことをさせるの」
――今では、ない。
「転生なんてさせておいて、これ? 話が違うじゃない」
――今は、耐えなさい。
「……そればかり」
姿も見えぬ"声"の主へと悪態を吐きながら、ユラは暗闇の中で爪を立てた。
数ヶ月に及ぶ過酷な責め苦が過ぎ、やがて教会は"光らぬ偽物"だと見切りをつけた。
神殿の重い鉄扉が開かれ、ユラは外へと放り出される。
行き先は、教会の厳重な監視下にある辺境の貧村。
訳ありの信徒や、世を捨てた者たちが身を寄せる隠れ里だった。
自給自足の、貧しい日々。
深い影を宿した村人たちとの暮らしは、温もりとは程遠い軟禁生活だったけれど。
幼くして教会に買い取られてから、この隠れ里で息を潜めて過ごした日々を含め、気づけば十五年もの歳月が流れていた。
学べるものは、すべて貪り食った。
かつて王宮の厨房を預かっていたという、年老いた元料理長から料理の手ほどきを受けた。
教会の密命を受けて幼き王太子の毒殺を図ったものの、直前で良心が咎めて毒を盛ることができず、暗殺に失敗したと見なされてこの隠れ里へ追放されてきた男だった。
『あの尊き若は、無事に生き延びておられるだろうか……』
老人は毎晩のように祈るように竈の火を見つめる。
――幾度目かの冬。
灰色の外套を纏った、痩身の男が村へとやってきた。
教会の裏側で、血と泥に塗れた汚れ仕事を請け負う特務機関の工作員。
丸眼鏡の奥の冷え切った眼窩で、男はユラの頭上を値踏みするように見下ろした。
「お前に、ようやく使い道ができた。感謝しろ、出来損ない」
男が突きつけてきたのは、一枚の命令書だった。
王都の下町にある酒場へ、住み込みの店員として潜り込め、と。
「角は隠すな。むしろ堂々と晒し、聖句でも光らぬ"滑稽な自称・聖女"として下町に顔を売れ」
工作の全貌は、明かされなかった。
逃亡を防ぐための冷徹な監視。定期的な報告の義務。
ユラは、ただ静かに頷いてみせた。
*
酒場の夜は、濁っている。
木の卓を叩く音。ぶつかり合うジョッキの鈍い重低音。
焦げた獣脂の煙と、発酵した安エールの酸っぱい匂いが、天井の低い店内に充満している。
「ユラ、エール二つ! ついでに聖女様のありがたい笑顔も添えてくれ!」
怒号のような注文に、ユラは足を止めることなく応じる。
「笑顔は別料金。銅貨三枚」
「強欲な聖女様だ!」
ドッと、店内に野太い笑いが弾ける。
ユラは両手に三つずつ木のジョッキを抱え、ひしめき合う酔客の背の間を滑るように抜けていく。
長い栗色の髪を項で一つに束ね、洗い晒しのエプロンの紐をきつく結んでいた。
その頭上には、白銀の角。
この酒場の看板娘には、角が生えている。
下町の誰もが知る、見慣れた日常。
客に「その角はなんだ」と問われれば――。
ユラはいつも同じように、澄ました顔で唇の端を吊り上げる。
「聖女だからよ」
そう、告げる。
誰も、信じない。
信じないまま、下町の男たちはこの小さな看板娘を愛した。
「おいおいユラちゃん、そろそろ光ってくれよ。ランプの油代が高くてかなわねえ」
赤ら顔の大工が、卓から身を乗り出して絡んでくる。
ユラは空いたジョッキを素早く回収しながら、冷ややかに見下ろした。
「自分の額でも磨けばいいじゃない。立派に光りそうよ」
「違いねえ!」
またしても、爆笑の渦が起きる。
ユラは大工の禿頭を無遠慮に撫で、そのまま振り返ることもなく次の卓へと足を運ぶ。
――聖女の証たる角は、聖句に応えて光る。
王国中の誰もが知る、あまりに有名な言い伝え。
酒の席の戯れとして、酔客たちが祈りを捧げるのはこの店の日常茶飯事だった。
若い職人は知る限りの聖句を喚き散らし、信心深い老人は真面目な顔で胸の前で手を組む。
巡礼者が立ち寄った日には、本職の司祭顔負けの恭しさで膝をつく者さえいた。
そして、一度たりとも。
角が輝くことは、なかった。
そのたび、店内には歓声と野次が満ちる。
ほら見ろ偽物だ、やっぱり出来損ないだと、誰もが腹を抱えて笑った。
「はい、今夜のお祈りはおしまい」
ユラは手を叩き、すべてを笑い話の底へと沈めてしまう。
聖女だからと驕ることもない。
偽物と罵られて眉をひそめることもない。
陽気で、手際がよく、人の愚痴を黙って聞く、気丈な看板娘。
そういう完璧な仮面を、ユラは世界中の誰よりも美しく被ることができた。
隠そうとするから、暴かれる。
最初から滑稽な道化として晒しておけば、誰もその裏を疑おうとはしない。
それは教会から強いられた『偽聖女としての周知』であり。
同時に、この泥濘のような下町でユラが身を守るための盾だった。
――そして、運命が交差する。
酒場の片隅に"彼"が姿を現すようになっていた。
深いフードを目深に被った青年。
頼むのは、決まって一番安価なエールを一杯だけ。
閉店の間際まで、言葉を発することもなく、彫像のように座っている。
手が、綺麗すぎた。
背筋が、美しすぎた。
下町の酒場には、あまりにも不釣り合いな気品。
青年が三度目の夜を迎えたとき。
その向かいの席に、粗末な作業着を着た下町の職人が腰を下ろした。
二人は額を寄せ合い、押し殺した低い声で言葉を交わしていた。
酒場の喧噪に紛れ、だが隣の卓には決して届かぬ絶妙な声量。
一見すれば、ただの客同士の他愛のない密談。
けれど、ユラは聞き逃さなかった。
ジョッキを回収するために背後を通り抜けた、その一瞬。
――殿下、と。
低く、だが確かな敬意を込めて呼ばれた、その響きを。
この国で、殿下と呼ばれる男は一人しかいない。
病に伏す国王メルヒオーロの、唯一の血脈。
その夜を境に。
青年は、時に一人で、時に街の者たちと言葉を交わすために訪れるようになった。
王宮の冷たい壁の中では口にできぬ真実を、下町の澱んだ空気の中で交わし合う。
ここは、彼にとっての密かな拠点なのだ。
ユラは、青年が一人でいる夜を狙って声をかけるようになった。
最初は、ただの愛想の良い看板娘として。
やがて、少しばかり世話焼きな店員として。
「それだけじゃ、身体が冷えちゃうよ。これ、焼きすぎちゃったから。おまけ」
エールの脇に、焦げ目のついた黒パンと、脂の乗った端肉をそっと置く。
最初は警戒に強張っていた青年の肩も、ユラがすぐに背を向け、小走りで厨房へと去っていく姿を見送るうちに、わずかずつ強張りを解いていった。
次は、名だけを知る顔なじみとして。
「いつもありがとう。私、ユラ。お兄さんは?」
「……フィニーだ」
短い、掠れたような声。
ユラはそれ以上、踏み込まなかった。
詮索されない安らぎを撒き餌にして、ユラは青年の警戒の隙間へと、静かに滑り込んでいく。
いつしか、身分を隠して息を潜める彼のための、ささやかな"共犯者"となっていた。
「フィニー、奥の席が空いてる。あそこなら、隙間風も来ないから」
すべてを悟りながら、何も知らぬ顔で死角の卓へと導く。
注文されてもいない温かい野菜のスープを、「試作品だから」と悪戯っぽく差し出す夜もあった。
毒見役を通し、すっかり冷え切った食事ばかりを口にしている青年は。
湯気の立つ温もりに、涙していた。
ただの"フィニー"として息をつける時間を、はじめて感じていた。
互いに意識しあう二人の男女に、十分な時間が流れたころ。
青年が軋んだ扉を押し開ければ、ユラが自然と駆け寄り。
言葉を交わす関係がそこに出来上がっていた。
ユラが卓に皿を置く、その一瞬。
フードの奥で、青年の強張った眉間がふっと緩むのが見えた。
冷たい氷の仮面に、微かなひびが入るように。
「……ありがとう、ユラ。君の作るものは、いつも温かいな」
消え入りそうな、けれど胸の奥へと染み渡る声。
白く綺麗な指先が、黒パンを大切そうに千切るその仕草を見るたび。
ユラの胸の奥で、計算にはなかった小さな軋み音が響いていた。
*
夜が、深くなる。
客が一人、また一人と重い足取りで闇へと消えていく。
最後の酔客を店の外へ送り出し、樫の木の扉に重い閂を降ろす。
ガチャン、と重い鉄の音が響いたところで、ユラは長く、細い息を吐き出した。
「お疲れさま、ユラ。余った材料は好きに使っていいからね。先に上がらせてもらうよ」
「ええ。おやすみなさい、女将さん」
家路につく女将の背を見送る。
静まり返った店内に、自分の靴音だけが響く。
ユラは小さく息を吸い、袖をまくり上げた。
愛想よく笑っていた看板娘の顔は、もうどこにもない。
残されたのは、無駄のない、研ぎ澄まされた静かな身のこなしだけだ。
残っていたのは、骨付きの鶏肉が数本。萎びかけた根菜。それに、一握りの白い乾燥豆。
ユラは迷いなく包丁を手に取った。
トントン、と小気味のよい乾いた音が、薄暗い厨房に反響する。
芋と人参を瞬く間に刻み、余熱の残る竈の鉄鍋へと滑り込ませた。
それにセロリを少々拝借。
ジッと油が跳ね、香味野菜が焦げる甘やかな匂いが立ち昇る。
別の鍋では、粗塩と黒胡椒を擦り込んだ鶏の皮目を、じっくりと焼き付ける。
パチパチと脂が弾け、黄金色の焼き色がついたところで野菜の鍋へと合わせ。
白ワインの残りと鶏ガラの出汁を注ぎ入れ。
水で戻した白豆と、香草をひと束。
あとは蓋をして、細い弱火に委ねるだけ。
流れるように、手際よく調理は進む。
かつて隠れ里で仕込まれた技術は、目を閉じていても、自然と手が動く。
煮込んでいる間に、ユラは手早く厨房の石床を磨き、調理台を拭き清めた。
鶏肉が骨からほろりと解ける頃には、ピカピカに磨き上げられた。
素朴な木の皿に、湯気を吹き上げる煮込みを盛る。
厨房の隅、小さな卓に盆を置き、ユラは静かに手を合わせた。
「……いただきます」
じんわりと舌を包む塩気と、鶏の深い滋味。
スプーンで崩した肉の繊維と、出汁を吸い尽くした豆の柔らかな甘み。
張り詰めていた喉の奥が、温かく解けていく。
温かいものを作り、腹を満たす。
この静寂の時間だけが、自分がただの人間であることを思い出させてくれた。
今日も、確かな収穫があった。
煮込みを静かに咀嚼しながら、ユラは頭の中で今夜の客たちの言葉を反芻する。
伯爵家による教会への大規模な領地寄進。
王宮の厨房で働く下働きの、不自然な総入れ替え。
半年以上も公の場に姿を見せない、病床の国王。部屋にこもって神に祈り続けているとも。
不穏な空気を割くように、いつしか町民たちが口にし始めた、"聖女"という言葉の頻度。
そして、殿下と呼ばれる青年。
定期報告として教会へ差し出すための分析は、高く評価されていた。
けれど、ユラが集めていたのは、教会を満足させるための情報ではない。
教会の暗躍の証拠を握り、いつかその喉元を掻き切るための、研ぎ澄まされた刃。
――コン、コン。
静まり返った空間に、乾いたノックの音が落ちた。
閂を下ろした、重い扉の向こうから。
「看板よ。今夜は、もうおしまい」
ユラは立ち上がることなく、声だけで応じた。
返答はない。
代わりに、規則正しく刻まれる、二度のノック音。
コン、コン。
ユラは静かにスプーンを置き、音もなく立ち上がった。
覗き窓から、外の闇を窺う。
灰色の外套。丸眼鏡。冷たく引き結ばれた薄い唇。
左手の薬指には、外套の袖口から覗く銀の指輪――教会の刻印。
特務機関の工作員だった。
連絡員を通さず、男が直接足を運んでくるのは稀なことだった。
ユラは閂を外し、無防備な看板娘の顔を作って扉を引いた。
「ごめんなさい、もう火を落としちゃったんだけど。まかないでよければ、食べる?」
男は忌々しそうに眉をひそめ、ユラの肩を払うようにして店内へと踏み込んできた。
だが、敷居を跨いだのは彼一人ではなかった。
工作員のすぐ背後。
夜の闇から滲み出るようにして、もう一人の男が音もなく店内へと足を踏み入れる。
墨黒色の端正な詰襟服に、銀灰色の撫でつけ髪。
銀縁の片眼鏡の奥にある琥珀色の瞳には、感情の一片すら宿っていない。
脇には分厚い革の書類鞄を抱え、その胸元には"星天秤と羽ペン"の銀細工が鈍く光っていた。
(……どうして、ここに?)
ユラは思わず息を呑み、わずかに目を見張った。
聖録公証官。
いかなる権力の干渉も許さず、己の羽ペンと法にのみ従う、不可侵の記録官。
まるで"書類を作るための備品"を持ち込んだだけとでも言うように。
工作員は、ぎろりとした濁った目で薄暗い店内を見回した。
「下らん軽口を叩くな。お前と無駄話をしに来たのではない」
吐き捨てるような声に、ユラは瞬き一つで胸中の驚きを引っ込めた。
静かに扉を閉め、目の前の工作員へと向き直る。
「――計画の、最終段階だ」
男の言葉に、ユラはいつもの無邪気な顔を貼り直し、首をかしげてみせた。
「最終段階?」
「そうだ。お前を王都に引っ張り出した、本当の目的だ」
男は椅子を引き、傲慢に腰を下ろした。
ユラは自分の席へと戻り、食べかけの皿の前に座って男を見据える。
聖録公証官は、座りもせず、静かに佇んでいる。そこに存在することが当然であるように。
「明朝、迎えを寄越す。身辺を整理しておけ」
「ここを、出るの?」
「ああ。教会が買い取った子爵家の養女として籍を入れ、貴族の礼法を叩き込む。そして、聖女と偽り、王家に接触させる」
「私、聖女よ」
ユラはパンを千切る手を止めず、平然と口にした。
「ふん。勝手にほざいていろ。そのように振る舞えと言っているのだ」
男の唇が、冷酷な嘲笑の形に歪む。
光らぬ偽物だからこそ、王家を破滅へと誘う撒き餌として都合がよい。
その瞳が語っていた。
工作員が視線をやると、聖録公証官は革の書類鞄を開く。
そして、金の縁取りが施された真っ白な羊皮紙を取り出した。
卓の上に、滑り込ませる。
「お前はこれより、我らの監視を離れて動くことになる。万が一にも逃亡や裏切り、勝手な真似ができぬよう、その首に絶対の鎖を巻かせてもらう」
羊皮紙の表面に、かすかな魔力の光が揺らめいている。
神前契約。
神の御名を証人として結ばれる、絶対の盟約。
署名が成された瞬間、その条文は天の記録となり、違背した者には容赦のない神罰が下る。
教会が飼い慣らした駒を縛るための、呪われた鎖だった。
「拒否権はない。いつものように、大人しく従え」
「いいわよ」
ユラは、躊躇いもなく頷いた。
「……物分かりがいいな。王家を直接欺くのだぞ。少しは怯えるかと思ったが」
男は鼻を鳴らし、羽根ペンをインクに浸す。
羊皮紙の冒頭へ猛然と当事者の定義を走らせ始めた。
『本契約において乙とは、神聖教会首長カスパーロ・エル・クルーツォ大司教の全権委任を受けたる正規代理人を指すものとする。甲とは、教会が所有権を持つ白銀の角を持つ娘を指す。』
『第一条。甲は、本契約の存在、乙からの指示内容、および本計画のいかなる詳細についても、乙が指定した刻限が到来するまで、対象を含むいかなる第三者にも一切口外・漏洩してはならない。また、自らの意思で任務を放棄、あるいは対象に本計画の全貌を開示して通謀してはならない』
「いかに道具とはいえ、一方的な命令だけでは神前契約は成立せん。神というのは、存外に公平でな。お前のような出来損ないにも、相応の"対価"を明記せねばならんのだ」
「対価? 金貨でもくれるの?」
「まさか。お前にくれてやるのは、自由だ」
男は冷ややかに笑い、ペン先を滑らせる。
『第二条。甲が前条までの義務を完全に果たし、乙の目的が完遂された暁には、乙は甲を教会の管理下より永久に解放し、完全なる自由を与える。同時に、乙はいかなる罪状においても甲を追及せず、安全な逃走経路の確保と、生涯にわたる身の安全を、神に誓って保証する』
「すべてが終われば、お前の籍を教会から抜いてやる。完全なる放免だ。お前には、身に余る褒美だろう」
「本当? 嬉しいわ」
ユラは目を細め、あどけない調子で小さく息を弾ませてみせた。
文字が淡い金色に瞬き、紙の繊維の奥へと沈んでいく。
男は満足げに頷き、何百遍と書き連ねてきた定型句を書き殴り始めた。
『第三条。甲あるいは乙が、本契約の条項に違背した場合、または本契約の締結において神を欺く重大な虚偽があった場合、何人の赦しも得られず、直ちに峻烈なる神罰が下るものとする』
カリカリと、インクの乾く音だけが響く。
「ねえ。一つだけ、聞いていい?」
男が苛立ちを露わにして顔を上げた。
「なんだ」
ユラはスプーンを置き、無垢な瞳で男を見つめた。
「そこに書いた、神を欺く重大な虚偽、という条文のこと。この角をつけた私を、教会が聖女として王家に差し出すのよね? それは、大丈夫なの?」
「何が言いたい」
「だって。角を持つ私を教会が聖女として差し出したなら、この契約の上で教会が本物だと認めたことにならないかしら。いいの? これ、本物と認めてしまっても?」
散々、穢れた偽物だと踏みつけてきたくせに。
男の手が、止まった。
丸眼鏡の奥の濁った瞳が、眇められる。
重苦しい沈黙が、卓の上に落ちた。
やがて、男の喉から低く引きつった笑いが漏れた。
「……ふん。やはり、そこに気づくか」
男の顔に、忌々しさと、歪んだ感嘆が交錯する。
「お前の小賢しさは、大司教猊下すら一目置かれるところだ。……いいだろう。お前の指摘を取り入れてやる」
この男には、染み付いた習性があった。
神前契約を、神聖な誓いなどとは思っていない。
抜け穴だらけの、ただの便利な法体系に過ぎない。
男は再びペンをインクに浸し、狂ったように書き殴る。
『第四条。双方は本契約の履行にあたり、甲の有する角を【 神より賜わりし真の聖証 】と擬制して取り扱うものとする。ただし、真贋の確認はこれを見送り、乙ならびに乙の委任者は、改めてその真偽を確かめる権利を留保する』
聖証としての擬制。
そして、事後における真偽確認の留保。
男はペンを置き、勝ち誇った笑みを唇に刻んだ。
「ほら、署名しろ」
「ええ」
ユラが頷き、差し出された羽ペンへ手を伸ばしかけた、その時だった。
「――お待ちを」
低く平坦な声が落ちた。
工作員の肩がピクリと跳ね、ぎろりと背後を振り返る。
「……なんだ?」
工作員が忌々しげに低く唸る。
連れてきた"備品"が勝手に動き出したと言わんばかりの、露骨な苛立ち。
銀縁の片眼鏡の奥にある琥珀色の瞳は、男の威圧になど微塵も揺らがなかった。
靴音すら立てずに歩み寄ると、卓上の羊皮紙へ無機質な視線を落とした。
「看過できぬ不備があります」
「不備だと? ふざけるな、どこにそんなものが――」
「第四条です」
工作員の怒声を、感情の乗らない静かな声で淡々と遮った。
「『双方は本契約の履行にあたり』と定義しておきながら、真偽を確かめる権利を『乙ならびに乙の委任者』のみに留保している。これでは権利の天秤が著しく一方へ傾いており、契約としての正当な要件を満たしません」
それは、ユラを庇うわけでも、工作員に敵意を向けるわけでもない。
ただ"契約の欠陥"を指摘するだけの、徹底して事務的な口調だった。
「契約を成立させるのであれば、対等でなければならない」
言い切るなり、自らの胸ポケットから銀軸の羽ペンを抜き取った。
工作員が制止する間も与えず、卓上の羊皮紙を引き寄せ、既存の第四条に迷いなく二重線を引く。
不思議と、その羽ペンからは自然にインクが滲み出てくる。
カリ、カリ、と。
静まり返った店内に、正確無比な速度で文字を刻む音だけが響く。
さらさらと条文を書き改めると、羽ペンを収める。
何事もなかったかのように二人の前へ羊皮紙を押し戻した。
『第四条。双方は本契約の履行にあたり、相互の立場および資格を【 真正なるもの 】と擬制して取り扱う。ただし、契約時に真偽の確認はこれを見送り、甲および乙(乙の委任者を含む)は、事後において改めて、本契約の履行中および履行完了後を問わず、その真偽を問う同等の権利を留保する』
「――以上をもって、法的な均衡は保たれました。ご確認を」
工作員は眉間に深い皺を刻み、書き改められた条文を睨みつけた。
しかし、忌々しげに舌打ちを漏らすのみ。
公証官の印がなければ『神前契約』としての絶対的な拘束力は生まれない。
男の濁った瞳が、修正された文字列をざっと撫でる。
「まあいい。教会に真偽を問われる不都合などない。実質は何も変わらん」
工作員は、自らの名と教会の代行印を叩きつけるように記した。
「ほら、今度こそお前の番だ。さっさと書け」
投げ出された羽ペンを、ユラは静かに拾い上げ、視線を落とす。
美しい筆跡で刻まれた『相互の立場および資格』、そして『甲および乙』の文字。
(……何か、意味があるのね?)
羊皮紙へさらさらと自らの名を走らせた。
聖録公証官が取り出したのは、星天秤が彫り込まれた白銀の公証印。
一切の躊躇なく、羊皮紙の中央へその印を垂直に押し当てた。
その印章が刻まれた瞬間。
黄金の光が強く爆ぜ、羊皮紙は二枚へと複製された。
神前契約が、天の記録として完璧に受理されたのだ。
眩い光の粒子が薄暗い店内に舞い散り、やがて吸い込まれるように消えていく。
卓の上には、寸分違わぬ二枚の契約書が静かに残されていた。
いかなる権力をもってしても改竄も破棄も許されない、絶対の証文。
「――これにて」
光が完全に収まるよりも早く、淡々と告げた。
公証印を手際よく懐へ収め、分厚い書類鞄を脇に抱えると。
聖録公証官は、風のように去っていった。
工作員は、残された空間をにらんでいたが、ユラは気にせずに告げる。
「控えは、私が持っておくわね。大事な、自由の証だもの」
「好きにしろ。第一条の守秘義務がある以上、お前はそれを誰にも見せられん」
男は侮蔑を込めて鼻を鳴らした。
ユラは何食わぬ顔で頷き、羊皮紙を折り畳んでエプロンの胸元へと滑り込ませた。
「第一条の、刻限を教えて」
「婚礼の儀の当日、大司教猊下がお前を偽りの聖女と断ずる。その瞬間だ。それまで、決して口を滑らせるな。終われば約束通り解放してやる。どこへなりと野垂れ死ぬがいい」
「了解。断罪されるまで、黙っていればいいのね」
「そうだ。明日、迎えを寄越す」
男は扉へと足を向けたが、立ち止まり、背を向けたままつぶやく。
「一つだけ、聞いておくが」
「なあに?」
「怖くはないのか。公然と、偽物と断罪される。国家を揺るがす大舞台の真ん中で」
ユラは、首を小さく傾げた。
「私は聖女よ?」
男は気味悪そうに身震いし、逃げるように夜の闇へと消えていった。
扉を閉め、重い閂を降ろす。
ガチャン、と冷たい音が響いた。
厨房の卓へ戻る。
煮込みは、すっかり冷え切っていた。
ユラはスプーンを手に取り、一口ずつ、静かに噛み締めるように皿を空にした。
胸元に収まった羊皮紙が、重い。
心地よい、復讐の重さ。
「さあ」
ぽつりと、呟く。
「復讐の、始まり」
白銀の角が、ほんの一瞬だけ、淡く青白く揺らめいた。
欲深い人間ほど、自らの都合のよい条項に目を奪われ、足元の落とし穴を見落とすのであります。かくして、神をも巻き込んだ乾坤一擲の契約は成立いたしました。愚かな者たちの命運は、すでに定まったのでございます。




