第一場:開演、仕組まれた断罪の台本。
人は誰しも、誓いを立てる生き物でございます。神の前で愛を誓う者、心の中で復讐を誓う者――。さて、この婚礼、一体どちらの誓いが勝るのでありましょうか。我は契約の神。事の始まりを、静かに見届けることといたしましょう。
ウェディングドレスは、重い。
純白の絹の重さではない。
胸元から裾まで縫い込まれた真珠と銀糸と――。
この日のために"教会"が注ぎ込んだ莫大な金貨の、重さ。
そのすべてを引きずるようにして、花嫁のユラは。
大聖堂の主祭壇へ向かう中央の広々とした通路を、歩く。
通路の左右に、規則正しく並べられた長椅子。
王国中の貴族が詰めかけている。
扇の陰で、囁き合う貴婦人たち。
腕を組み、冷徹な目で花嫁を値踏みする諸侯ら。
厳かなる誓いの鐘が響かんとする今。
集う者たちの胸中には、冷徹な覇権争いが渦巻いていた。
最前列には筆頭公爵バルタザーロ・エル・フェーロが座っていた。
国家の全軍事力を統括する【 玉座すら脅かす鉄血の支配者 】。
口元の笑みが、隠せていない。もう勝った気でいる顔だ。
ユラは、横目にちらりと見て、ヴェールの下で静かに口元を緩める。
――いい顔。そのままよ。そのままでいてね。
王は、そこに座っていた。
祭壇の右手、この日のために運び込まれた玉座に。
国王メルヒオーロ・エル・アルクルーモ。
揺らぐ国にあって【 不可侵の血統と伝統を背負い立つ王 】。
両手を膝に置き、背筋を伸ばす。彫像のように、微動だにしない。
あの"やつれた姿"はもうどこにもない。ただ、真っ直ぐな瞳が見つめている。
――貴方の祈りが、今日、結実するのかな。
その王座から、距離を置いた席。
隣国から嫁いできた王妃グウェンドリンが座っていた。
金糸の髪を高く結い上げ、深紅のベルベットのドレスに身を包んでいる。
王妃は、白い扇を胸元で静かに開いていた。
その冷え切った視線は、夫にも、祭壇の前に立つ実の息子にも、温もりを向けることはない。
ただ、すべてを値踏みし、己の欲望の成就を待ちわびる――残酷な"観客"の目をしていた。
ユラは、その冷酷な横顔を一瞥し、そっと胸の奥へ意識を戻した。今は、まだ。
祭壇の前。
ユラの到着を待つのは、この国の尊き血筋の、最後の一滴のような青年。
王太子フィニード・エル・アルクルーモ。
金色の髪。澄んだ青い瞳。仕立ての良い白い礼装が、これ以上ないほど似合っている。
どこから見ても"完全無欠"の王子様。非の打ちどころがない佇まいだ。
ただ一点。握りしめた拳が、白くなるほど強張っていることを除けば――。
ユラは、彼の隣に並んで、前を向いたまま、唇の動きだけで囁く。
「フィニー、顔、固いよ」
彼の視線は、正面の祭壇を射抜いたまま、ユラの声に応えた。
「――君の美しさに、息を呑んでいただけさ」
その声は、いつも通りの涼やかで端正な王子のものだった。
けれど、わずかに掠れた語尾に、ユラは彼が抱えているものの重さを敏感に嗅ぎ取る。
ユラが隣に並んだ瞬間、彼が喉の奥で小さく息を詰めたのが分かった。
暗闇の底で溺れかけていた者が、差し伸べられたひとすじの光を掴むような、すがるような安堵。
隣に立った。それだけで、フィニードの強張った全身にわずかな温もりが戻っていた。
(……そんな顔しないでよ、もう)
ユラもまた、胸の鼓動が耳の奥にまで響いてくるほど緊張していた。
だから、場違いだと分かっていても、言わずにいられなかった。
「終わったら、何が食べたい?」
「……なんだって?」
くだらない、ありふれた会話をして。
二人でこの押し潰されそうな空気を笑い飛ばしてしまいたかった。
ユラは前を向いたまま、澄ました顔で唇だけを動かす。
「このあとの、さ。晩餐会の料理。豪華だと思うけど、絶対に味がしないと思うの」
「ああ」
「だから、全部終わって、二人きりになったら、厨房に忍び込んで何か作ってあげる。何がいい?」
「ユラ、君……今、自分が"どこに"立っているのか分かっているのかい?」
「大聖堂のど真ん中。国中の嫌な奴らに囲まれて、人生で一番重いドレスを着せられている」
「……まったく、その通りだな」
口元から、ふっと漏れるような吐息がこぼれた。
フィニードが一番怖れていた"未来"に、ユラはあまりにも当たり前のように"日常"を投げいれた。
思い詰めていた胸の奥に、ユラの他愛のない言葉が、あたたかい風のように吹き込んでいく。
「……温かいスープがいい」
「スープだけでいいの?」
「冷めてないスープは、君が作ってくれなきゃ飲めないんだ」
「いつも毒見のあとだからね。……わかった、スープね。一緒に飲もうね」
「ああ。楽しみにしてる」
「うん」
二人は、湧き上がった熱を、再び、精巧な"仮面"の下へ押し込む。
――そう。すべてを終わらせよう。
パイプオルガンが、最後の和音を残して止んで、深い静寂が、大聖堂を満たす。
祭壇の奥から、大司教カスパーロ・エル・クルーツォが姿を現した。
信仰を盾に国庫をも凌ぐ【 莫大な財産を牛耳る教会の頂点 】。
この国を動かす大きな3つの力。
武威、血脈、そして、財貨。
三つの覇権が一堂に会した瞬間、大聖堂の静寂は鋭利な緊張へと変質した。
色鮮やかなステンドグラスに、今にもひびが入りそうなほどの重苦しさが場を支配する。
白金の法衣の裾を引き、歩みを進める大司教は、祭壇の中央に立ち、両手を、静かに広げる。
「神の御前にお集まりの皆様」
よく通る重厚な声に、誰もが呼吸を止め、続きを待つ。
神官たちの列から、一人の男が静かに歩み出てきて、書台の前に立つ。
墨黒色の端正な詰襟服に、銀灰色の撫でつけ髪。
銀縁の片眼鏡の奥にある琥珀色の瞳は、感情の一片すら宿していない。
胸元には、水平な天秤の中央に一本の羽ペンが突き刺さり、天頂に星を戴いた――"星天秤と羽ペン"の銀細工ピンブローチ。
聖録公証官。
あらゆる歴史の現場に立ち会い、ただ事実のみを羊皮紙に刻む終身中立の記録官。
「本日、この光輝ある大聖堂にて、アルクルーモ王家の正統なる継嗣、フィニード・エル・アルクルーモ殿下と、ウヌコルノ子爵家の令嬢にして神の寵愛を受けし『聖女』、ユリシア・エル・ウヌコルノの婚礼の儀を執り行う運びとなりました」
大司教カスパーロの重厚な声が、高い天井に反響する。
それと同時に、書台の前に立つ聖録公証官の羽ペンが、静かに、しかし正確無比な速度で羊皮紙の上を滑り始めた。
カリ、カリ、と。
静まり返った聖堂に、事実を刻む乾いた音だけが微かに混じる。
「王国の礎たる尊き血脈と、迷える民を導く聖なる光。この二つの魂が結ばれることは、我が国に新たな繁栄と安寧をもたらす天の思し召しに他なりません」
慈愛に満ちた聖職者の微笑み。
カスパーロは一度言葉を切り、祭壇の前に並ぶ二人へと視線を落とす。
「それでは、全知全能なる神の御名の下に。永遠の誓いを――」
大司教が儀式の核心へと入ろうと、白金の法衣の袖を掲げた、まさにその瞬間だった。
「――待たれよ、大司教!」
パイプオルガンの重低音すら凌駕するような、猛々しく、威圧的な声が大聖堂の空気をビリビリと引き裂いた。
最前列。バルタザーロが、ゆっくりと立ち上がる。
その巨躯が立ち上がっただけで、周囲の貴族たちが息を呑み、一歩後ずさったかのような錯覚すら覚えるほどの覇気。
バルタザーロは、祭壇のユラを射抜くように睨み据え、朗々と声を張り上げた。
「公爵家の名と我が名誉を賭し、この婚礼に『婚姻障害の告発』を宣言する! その花嫁は聖女を偽っている疑いがある。教会法に則り、真の素性を確かめる義務が猊下にはあるはずだ!」
瞬間、騒然とした空気に包まれた。
ささやきは、隠そうともしない動揺の波となって長椅子の列を駆け巡る。
隣に立つフィニードの肩が、わずかに揺れる。
握りしめられた拳に、再びギリ、と強い力が込められたのが分かった。
(……始まった)
ユラは、白いヴェールの下で、冷ややかに公爵の姿をねめつける。
驚くには値しない。あの勝ち誇った笑みを見た時から、彼がただ指をくわえて祝辞を述べるはずがないことなど、分かりきっていたのだから。
祭壇の上では、カスパーロが大袈裟に眉をひそめ、さも嘆かわしいと言わんばかりに首を振ってみせていた。
「なんということを仰るのです、フェ―ロ公。ここは神の御前であり、何より陛下の御前でもありますぞ」
カスパーロは、困惑と苦言を綯い交ぜにしたような、非の打ちどころのない高僧の声色で応じる。
「国を挙げての慶事、しかも神聖なる誓いの場において、そのような不敬、かつ不適切な発言は慎まれよ」
国王の手前、そして神前という絶対の場において、強引な横槍を窘める――見事なまでの「渋り顔」だった。
だが、ユラには分かる。これは予定調和。
「不敬を承知の上での進言だ!」
バルタザーロは一歩も引かず、大司教の言葉を強い語気で遮った。
「その頭に張り付いた"角"だけで聖女と信じるのは早計。もし偽りの聖女が、神の祝福を受ければどうなる! それこそ王家の威信を泥に塗り、神への最大の冒涜となろう! 疑念がある以上、婚礼の前に白黒つけるのが筋というもの。違うか、大司教!」
ユラのヴェールは、頭上でかき分けられて、冠のように、"白銀の角"を縁取っていた。
これこそが"聖女"の証。
かつて偉大なる奇跡をもって世界を救いし、初代聖女は。
神の代行者として人々を幸福へと導いた。
彼女の頭上にその角が輝いていたことから、後の世でも同じ角を持って生まれた者は、神の遣いたる聖女として崇められてきた。
尊いものとして崇め奉る言葉の裏には、都合のいい奇跡を強請る身勝手な祈りがある。
異形として唾棄する視線の裏には、人ならざる美しさを前にした怯えがある。
「これまでの歴史の中にもいたはずだ、角を持ちながら、聖女としての資質を持たない者は!」
武威を誇る公爵と、財貨と信仰を牛耳る大司教。
互いに牽制し合うはずの二人が、まるで事前に筋書きを合わせていたかのように、見事な呼吸で場を支配していく。
カスパーロは、玉座の国王へと一瞥を送り、やがて苦渋の決断を下すかのように、深く、重々しい溜息を吐いてみせた。
「……そこまで仰るのであれば、致し方ありますまい」
大司教の顔から、慈悲深い微笑みがスッと消え失せる。
代わりに浮かび上がったのは、異端を裁く審問官のような、冷徹で傲岸な相貌だった。
「筆頭公爵が自らの名誉を賭して『婚姻障害の告発』をなされた以上、教会法に照らし、これを黙殺することは私とて許されません。陛下、どうかこの無礼をご寛恕いただきたい」
カスパーロは恭しく玉座へ一礼する。
正面を向き、大聖堂の隅々にまで届く声で高らかに宣言した。
「王家の潔白と、神聖なる教会の威信を守るため――この場にて、真の『聖女』であるか否か、神の御前で確かめることといたします!」
どよめきが、さらなるうねりとなって大聖堂を揺らす。
無責任な恐怖と好奇心が、一気に悪意へと形を変えてユラへと突き刺さる。
――来た。
ユラは、ヴェールの下でゆっくりと瞬きをして、口から長く息を吐き出した。
会衆の視線は今、彼女の頭の"白銀の角"に集中しているが、それを悟った者がいたかどうか。
「皆様もご存じのとおり――」
カスパーロは、一段と声を張り上げた。
「聖女の証たる角は、聖句を唱えることで、強く優しい光を放つ。邪を祓い、周囲を清める。これは、建国以来、我らが教会が守り伝えてきた聖なる言い伝えです」
大司教は、慈悲深い笑みを湛えながら、両手を広げてみせた。
「もちろん、聖女の御前において、みだりに聖句を唱え試すなど、信仰篤き者にとっては無礼の極みでありましょう。ですが――」
大司教カスパーロは、手をおろし、ゆっくりとユラに近づいていく。
「それも、真の聖女であられればこそ。今、唱えよう――」
大司教カスパーロが、片手を高く掲げた。
「神の名において。古き言葉をもって、真実を問う」
低く、長い詠唱が始まった。
それは古代の言葉。意味を正確に理解する者は、ここにはいない。いるはずもない。
ただ音の連なりが、高い石の天井に反響しながら降ってくる。
大聖堂の空気が、じりじりと重くなっていく。
ユラは微動だにしなかった。
聖句の響き。
幼い頃、毎朝、毎昼、毎晩、執拗に聞かされた。
祭壇の前に膝をつかされ、角に手をかざされた。
黒い司祭が詠唱し、光れ、と命じる。
何も起こらないたびに、鋭い鞭が背中に振り下ろされた。
十回、二十回――。数えるのをやめたのは、いつだったか。
――けれど、何も響かない。ただの、偽りの言葉。
頭上の"白銀の角"は、沈黙を保ったまま。
最後の音が石壁に吸い込まれたとき、落ちた針の音すら聞こえそうな静寂に支配されていた。
「……見ろ、何も起こらない。起こらないではないか!」
バルタザーロの声は、静かな勝利の陶酔に満ちていた。
騒然となる大聖堂。祝福すべき日が、断罪の瞬間へと変わったのだから。
参列した貴族たちの間から「やはり魔女だ」「王家を謀ったか!」と、保身と悪意に満ちた怒号が嵐のように巻き起こる。
「――驚きを隠しきれません。光らない。つまり、偽物です」
カスパーロは、やりきった表情で、ゆっくり後退しながら。
視線と手振りで神殿騎士たちに合図する。
「歴史上、このような偽りの聖女は、何度も世に現れ、人々を惑わしてきました。そのたびに、我ら教会は罰を与えてまいりました。この娘も、また然り」
祭壇の両脇から、神殿騎士たちが一斉に歩み出た。鎧が硬質な金属音を立てる。
あっという間に、ユラの周囲を取り囲んだ。
フィニードが悲痛に顔を歪ませ、槍衾の前に立ち塞がるようにしてユラの華奢な肩を抱き寄せた。
「待て! この場で最も重い罪を負うべき者は、その娘ではない!」
バルタザーロの咆哮が、再び大聖堂の空気を激しく震わせた。
「その娘が偽物であることを知りながら、あたかも本物の聖女であるかのように振る舞えと指示し、王家と神を欺いた黒幕がいる!」
バルタザーロの太い指が、ユラの隣――祭壇の前に立つ青年へと真っ直ぐに突きつけられた。
「王太子フィニード! すべては貴様の策略であろう! 偽りの聖女を仕立て上げ、神聖なる婚姻を利用して己の権威を高めんとした。その大罪、言い逃れはさせぬぞ!」
貴族たちの間から、悲鳴にも似たどよめきが上がる。
一介の花嫁の素性問題ではない。
次期国王たる王太子への、真正面からの反逆にも等しい弾劾だった。
しかし、何より異常だったのは、その直後の大司教の反応だった。
「――いかにも。フェ―ロ公の仰る通りです」
まるでその言葉が放たれる瞬間を今や遅しと待ち構えていたかのように。
カスパーロは、一片の躊躇も、事実を精査する素振りすら見せず。
不自然なほど滑らかに公爵の糾弾へと声を重ねた。
「一介の娘が、独力で聖女を騙り、この大聖堂の祭壇に立つことなど到底不可能。背後で糸を引き、神聖なる儀式を穢すよう命じた者がいることは明白です」
先ほどまでの"渋り顔"など、存在しなかったかのように。
カスパーロの瞳が冷酷な光を帯びる。
武威の公爵が振り上げた"刃"に、教会の頂点が即座に"神の正義"という毒を塗る。
――あまりにもあからさまで、息の合った連携だった。
大司教は白金の法衣を翻し、祭壇の上からフィニードを冷ややかに見下ろした。
「フィニード殿下。あなたは、神を冒涜した。神罰を代行する教会の名において、直ちにその身を拘束し、死をもって罪を購っていただく!」
「……っ、な、にを……!」
フィニードの息が詰まる。ユラを抱き寄せていた彼の腕に、ギリ、と痛々しいほどの力がこもった。
神殿騎士たちの槍先が、一斉に向きを変える。
狙うのは、偽りの魔女とされた娘ではない。
この国の未来であったはずの、若き王太子の喉元だ。
「待て! 彼女は何も知らなかった! すべて私の一存で――」
必死に声を張り上げ、己一人が泥を被ろうとするフィニード。
その背中に触れながら、ユラはヴェールの奥で、冷え切った瞳を細めた。
(ああ、やっぱり。そういう顔をするんだね、フィニード)
どこまでも高潔で、どこまでもお人好しで、どこまでも――脆い。
自分の命すら投げ出して、自らを贄と差し出す、愛する女を守ろうとする、悲劇の王子様。
「捕らえよ! 神の御前である、抵抗すればこの場で討ち果たしても構わん!」
カスパーロの号令とともに、鉄の匂いを纏った騎士たちが踏み込む。
――場違いにも、喜びを感じていた。
胸の奥で暗い炎が静かに、けれど激しく燃え上がるのを感じる。
これは復讐だ。今、それが果たされようとしてる。
悪企みがうまくいったと信じ込んでいる時ほど、人は油断するものでございます。哀れな男たちは、自ら破滅の契約書に署名したことに、まだ気づいておりません。刻は、半年ほど遡るのでございます。




