第九話 温かな嘘と眠れぬ夜
崩落事故後―亮の小料理屋
夕方。
ガタゴトと音を立てて、愛菜が慌ただしく店の扉を開けた。
「父さん!」
カウンターとテーブル席が二つ。
決して大きくはない、亮の小さな小料理屋。
その奥の厨房では。
「おう、おかえり」
何事もなかったかのように、亮がいつもの仕込みの場所に立っていた。
「……」
愛菜はしばらくの間、動かずに父の顔をじっと見つめた。
「……父さん」
「ん?」
「大丈夫なの?」
包丁を動かしていた亮の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「何が?」
「何がって……」
愛菜は少し声を荒らげる。
「近所のおじさんから聞いたんやけど!」
「……」
「父さん、公園で倒れてたって!」
亮は困ったように、へらりと笑ってみせた。
「あぁ、それ?」
「『それ?』じゃないでしょ!」
愛菜の表情はどこまでも真剣だった。
「だから、倒れてたんちゃうねん」
「は?」
「ちょっと寝落ちしてもうただけや」
「……」
愛菜は、もう一度亮の顔を覗き込む。
その顔色は、明らかにいつもの元気な父のものではなかった。
「そんな訳ないやん!」
思わず声が大きくなる。
「そんな訳があんねん」
「父さん!」
「ほんまやって」
亮は平然を装いながら言った。
「昨日の晩な」
「……」
「ネトフリで韓ドラ観てたら止まらんようになってな」
愛菜がじっと見つめる。
「……」
「気がついたら外が明るくなってた」
「……」
「年甲斐もなく無茶したらあかんなぁって」
亮は少し遠い目をする。
「勉強になりました」
「……」
「……」
愛菜はしばらく無言だった。
そして。
「父さん」
「はい」
「昨日もいびきかいて寝てたからね(怒)」
「……」
「近所のおじさんが見つけてくれたんでしょ!?」
「そうみたい」
「『そうみたい』じゃない!」
愛菜の怒りが爆発する。
「もう、こっちは真剣に心配してるのに!」
亮は完全にタジタジだった。
「ほんまに反省してます」
「……」
「はい」
「反省してる顔ちゃうやん!」
「いや、してます」
「どこが!?」
「心の中では、ものすごく」
「(怒)」
亮は慌てて話を変えた。
「……まあ、何もなかったんやし」
「……」
「愛菜も何か食べて行き」
「話そらした!」
「腹減ってるやろ?」
「……」
「ほら」
亮は小さな皿を愛菜の前に置いた。
「今日のまかない」
「……」
「食べへんの?」
愛菜はまだ少し不機嫌な顔のまま、料理を見る。
「……何これ?」
「新作」
「また?」
「韓国風肉じゃが」
「……肉じゃが?」
「そう」
「それが韓国風なん?」
亮は少し得意そうに笑った。
「まあ、食べてみ」
愛菜は箸を手に取る。一口。
「……」
「どう?」
愛菜はもう一口食べる。
「……美味しい」
「やろ?」
「でも、ちょっと甘辛いな」
「そこが韓国風」
「へぇ」
愛菜は笑いそうになるのを堪えながら、もう一口口に運ぶ。
「……また適当に誤魔化そうとしてる」
「誤魔化してません」
「絶対してる」
「……」
「……」
愛菜は小さくため息をついた。
そして。
「いただきます」
「最初から食べてるやん」
「うるさい」
「はい」
亮は笑った。
その笑顔の裏で。
誰にも見えないように、そっと胸元を押さえる。
――ズキッ。
一瞬、胸の奥を突き刺すような鈍い痛みが走った。
けれど、亮の表情は一切崩れない。
愛菜には、絶対に気づかせない。
「……父さん?」
「ん?」
「……いや」
愛菜は少し不思議そうな顔で亮を見る。
「何でもない」
亮はいつものように優しく笑った。
「ほら、冷めるで」
愛菜はもう一度料理を見つめた。
そして。
「……うん」
そう答えた。
父の笑顔の裏に隠された苦しみを、愛菜はまだ知らないまま――。
――事故の夜。ヨリの自宅。
静まり返った広いリビング。
ヨリは素足でフローリングを踏みしめながら、ゆっくりと歩いていた。
この家は――ヨリが幼い頃、両親とともに過ごした思い出の詰まった家だった。
広すぎる庭、夜の静寂を映す大きな窓。そして、邸宅のあちこちに今も色濃く残る父と母の温かな面影。
――もう、二人はいない。
けれど、どれだけ寂しくともヨリはこの家を手放すことができなかった。
自分が一人きりではないと確かめられる場所は、世界でここにしかないから。
「……」
深いソファに、ぽつんと体を沈める。
あまりにも静かすぎる夜だった。
いつもなら、多忙な公務を終えて帰宅すれば、疲弊した頭を休めるために何も考えずベッドへ潜り込むだけだった。
けれど――今夜は違った。
気がつけば、ひとりの男の顔ばかりが頭から離れないでいた。
「……」
――謝ろうとしていた?
昼間、建設現場で交わした亮の言葉が脳裏に蘇る。
『この前は、少し言い過ぎたかと思いまして……謝ろうと思ったんですけど、もう結構です』
「あ……」
ヨリは思わず、小さく唇を噛んだ。
自分はあの時、彼の顔すらまともに見ようとしなかった。
また何か難癖をつけに来たのだろうと決めつけ、話も聞かずに冷たく追い返そうとしたのだ。
「……」
そして、その直後に起きた出来事。
気がついた時には――彼の顔が、息が触れ合うほどの至近距離にあった。
――あの瞳。
引き込まれてしまいそうなほど、まっすぐで、どこか切ないほどに優しい瞳。
「……」
ヨリは思わず、服の上から自分の胸元をぎゅっと掴みしめた。
トクン、トクンと、早い鼓動が手のひらに伝わってくる。
――そして、直後のけたたましい轟音。
地面を抉った、あまりにも巨大な鉄骨の資材。
「……っ!」
その光景を思い出し、ヨリの肩が微かに震えた。
もし、あのままあそこに立っていたら――自分は今、ここにはいなかった。
「……私」
自分のか細い両手を見つめる。
「……私は」
小さく呟く。
「どうやって……助かったの?」
あの時。確かに、自分は鉄骨が落下する場所にいた。
亮は、なぜ分かったの?
なぜ、あんな速さで自分のところまで来られたの?
なぜ、あんなにも迷うことなく自分を抱きしめたの?
「……」
しばらく真剣な表情で考える。
そして――ヨリの頭の中に、あり得ない答えが浮かんだ。
「……まさか」
ヨリは眉をひそめる。
「宇宙人?」
「……」
自分で言っておいて、少し考える。
「……」
「……そんなわけないでしょ」
思わず一人でツッコミを入れる。
「私、何を考えてるのよ……」
ヨリは小さくため息をついた。
でも、他に説明がつかない。
「……」
「普通の人間に……あんなことできる?」
再び、真剣に考え始める。
「……」
「やっぱり宇宙人?」
「……違うわよ!」
今度は、少し強めに自分へツッコミを入れた。
「……あー、もう」
ヨリは両手で顔を覆う。
「今日は寝よう」
――寝室
ベッドに入る。
「……」
目を閉じる。
しかし、眠れない。
「……」
亮の顔が浮かぶ。
「……宇宙人」
ヨリは、ハッと目を開けた。
「違うって!」
一人、暗い部屋でまた自分にツッコミを入れた。
「……もう寝る」
そう呟き、布団を頭まで被る。
しかし、数秒後。
布団の中から、小さな声が聞こえた。
「……でも、普通の人間じゃないような……」
そして、また。
あの優しい瞳が浮かぶ。
「……」
ヨリは目を閉じた。
「……あの男のせいね」
その夜、ヨリはなかなか眠ることができなかった。
まだヨリは知らない。
その「宇宙人かもしれない男」が、これから自分の人生を大きく変えることになることを――。




