第八話 届いた手、重なる胸
――ホテル建設現場
キー――ン……!
激しい耳鳴りが頭の中を揺さぶる。
亮の目の前に投影された、わずか数秒先の未来。
落下の衝撃に歪む鉄骨。
その真下に立ち尽くす、ひとりの女性――パク・ヨリ。
「……っ!」
亮の意識が一気に現実へと引き戻された。
ヨリまでの距離、およそ五メートル。
(……間に合うか!?)
思考の余地すら許されない一瞬。
コンマ一秒でも迷えば、手遅れになる。
亮の瞳から躊躇が消えた。
(……助ける!)
次の瞬間――亮の姿が視界から消えた。
「……え?」
ヨリの瞳が驚きで見開かれた。
ついさっきまで数メートル離れた場所に立っていたはずの男が。
(……何……?)
何が起きたのか、脳の処理が追いつかない。
尋常ではない速度。
気がついた時には、ヨリの鼻先と亮の鼻先が触れ合うほど、目の前に男が迫っていた。
真剣な眼差し。
ヨリの瞳を、まっすぐに見つめ返している。
「……っ!」
ヨリの心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
(――何? なに……?)
(――そんなに怒ったの……? この人……)
しかし、亮の瞳に宿っていたのは怒りなどでは決してなかった。
ただただ、一途で必死な熱だった。
「……っ!」
次の瞬間、亮の力強い腕がヨリの華奢な身体を強く抱き寄せた。
「えっ!?」
勢いよく亮の胸の中へと引き寄せられる感覚。
そして――再び。
「……っ!」
亮が地を蹴った。
五メートルの距離を、一瞬の閃光のように跳び越える。
二人の身体が大きく空間を舞った。
「きゃっ!」
殺しきれなかった運動エネルギーのまま、二人は激しく地面へと倒れ込んだ。
その瞬間、亮はヨリの身体を何としても守り抜くように、その腕の中にしっかりと抱きしめた。
己の身体を、彼女を包み込む盾にして――。
倒れ伏した体勢のまま、亮はヨリの上に覆いかぶさっていた。
「……?」
ヨリには、自分がなぜ倒れているのかすら分からない。
ただ、力強く、温かい亮の腕の中に固く抱きしめられている。
亮はヨリの安全を確かめるように、じっと彼女の顔を見つめていた。
「……」
その瞳。
一瞬、世界の時間が完全に止まったような錯覚に襲われる。
ヨリの胸が、ぎゅっと強く締めつけられた。
(――この目……)
何?
なぜ……?
心の深い底で、何かが激しく揺れ動く。
記憶の暗闇から浮かび上がる、小さな欠片。
暗い海。
冷たい水。
そして――私を抱きしめてくれた、誰かの温もり。
『――大丈夫』
(……っ!)
けれど、まだその記憶の扉は開かない。
ガァァァンッ――!!
直後、鼓膜を裂くような巨大な破砕音が響き渡った。
ヨリが息を呑み、驚いて目を向けた。
ほんの数秒前まで、自分が無防備に立っていた場所。
そこへ、巨大な鋼鉄の資材が激しい土煙とともに突き刺さっていた。
「……」
ヨリの顔から、一気に血の気が引いていく。
「……え?」
亮は突き刺さった鉄骨を静かに見つめていた。
さっき自分が見た恐ろしい未来。あの下敷きになっていたのは、間違いなく彼女だった。
直撃していれば、命はなかったはずだ。
亮は腕の中のヨリを見つめ直し、静かに息を吐いた。
「……怪我はない?」
亮の言葉に、ヨリは息を詰まらせながら小さく頷いた。
その返答を聞き、亮の瞳に安堵の色が滲む。
「……間に合った」
ポツリと呟く亮。
ヨリは、目の前の状況が何も理解できないまま、亮の顔を見つめ続けていた。
「……あなた」
なぜ、分かったの?
なぜ、あんな速さで私のところへ――?
溢れ出す問いのどれもが言葉にならない。
ただ、目の前にいる男の瞳から目が離せなかった。
亮の瞳の中には――すべてを包み込むような、底知れぬ深さと優しさがあった。
「……」
ヨリの心の奥底で、また小さな記憶の欠片が静かに波紋を広げる。
けれど、まだ分からない。
この男が、一体何者なのか。
ただ――なぜか胸が苦しくなるほど痛む。
そして、なぜか愛おしいほどに懐かしかった。
――ホテル建設現場
巨大な鉄骨資材が地面に激突し、凄まじい轟音が響き渡っていた。
もうもうと立ち込める土煙の向こうに、刺さった鉄骨の先端が見える。
亮は地面の上にヨリを庇い抱きしめたまま、その惨状を静かに見つめていた。
「……」
予知の映像で見た光景。
もし、あと一秒でも対応が遅れていたら――ヨリは確実にあの下敷きになっていた。
「……間に合った」
亮は安堵の息とともに小さく呟いた。
しかし、その直後だった。
ドクンッ――!!
「……っ!?」
亮の顔色が劇的に変わった。
胸の奥底。心臓を直接握り潰されたかのような、経験したことのない激痛が全身を駆け巡る。
(……やばい……っ)
ヨリは腕の中で、息を弾ませながら亮を見つめた。
「あの……」
まだ何が起きたのか、頭の整理が追いつかない。
聞きたいこと、確かめたいことが山ほどあった。
なぜ、自分の危険を事前に察知できたのか。
なぜ、あんな常人離れした速度で自分のもとへ飛び込んでこられたのか。
そして何より――なぜ、あんなにも必死な顔をして、命がけで自分を庇ってくれたのか。
「事情を……」
亮は荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「聞きたいことが……!」
ヨリが言い終わるより早く、亮は拒むように背を向けた。亮にはもう、彼女の問いに答える余裕など微塵も残されていなかった。
(……早く……あれが来る前に……っ)
「……また、今度!」
「え?」
それだけを言い残すと、亮は足早に現場の出口に向かって歩き始めた。
しかし、その背中と足取りは明らかにおかしかった。
「……?」
ヨリが不審に思って眉をひそめた瞬間――亮の身体が大きく横にふらついた。
「ちょっと……! 大丈夫ですか!?」
ヨリが思わず声をかけ、立ち上がろうとする。
しかし、亮は一度も振り返らなかった。
「……」
ただ、この場所から一刻も早く姿を消そうとするかのように、乱れた足取りで建設現場を後にしていった。
――少し離れた公園
荒い息を吐きながら、亮はベンチを目指して必死に脚を動かしていた。
しかし、ベンチまであと数歩というところで、ついに膝が折れた。
「……あかん……っ」
ドクンッ――!!
「……っ……はぁっ、はぁっ……!」
胸を引き裂くような激痛。酸素が肺に入ってこない。
亮は苦しそうに胸元を強く掴みしめた。
今までにも、何度も経験してきたことだ。
未来を見ること。そして、確定した未来を力ずくで変えるために、常識ではあり得ない身体能力を発揮すること。
その反動――未来改変の代償。
(……今回は……ちょっと……無茶したかな……)
亮の口元に、自虐的な苦笑が浮かぶ。
けれど次の瞬間、視界が一気に暗転し、膝から完全に崩れ落ちた。
「……っ」
意識が薄れていく中で、脳裏に最後に浮かんだのは、無事だったあの女性の顔だった。
(……助かったんなら……それでええか……)
そう心の中で呟き、亮の意識は深い闇の中へと落ちていった。




