第七話 運命の数秒前
――ホテル建設現場付近
小料理店の仕込みに必要な食材を買い出しに行くため、亮は街へ向かって歩いていた。
いつもの見慣れた道。その先には、あのソンファ・グループのホテル建設現場があった。
「今日も朝からえらい動いとるなぁ」
重機が忙しなく唸りを上げ、クレーンが巨大な資材を吊り上げている。作業員たちの威勢のいい声が飛び交っていた。
前回通りかかった時のように、建設反対派の住民と揉める混乱もない。どこか静けさすら漂う朝だった。
その時――一台の黒塗りの高級セダンがスーッと現場の敷地内に入ってきた。
「……ん?」
亮がふと足を止める。
後部座席のドアが開き、降りてきた人物の顔を見て、亮は目を見開いた。
「……あ」
見覚えのある、あの冷徹そうな美しい女性。そして、その後ろから慌ただしく降りてくるチェ秘書。
「あの時の……」
ソンファ・グループの代表、パク・ヨリだった。
亮は少し離れた道路沿いから、その様子を静かに眺めた。
ヨリと秘書は図面らしき書類を広げ、ヘルメット姿の現場責任者と真剣な表情で言葉を交わしている。
「……」
亮はヨリの横顔を見つめた。
まだ若い。それなのに、あれだけ巨大な企業の重責を、たった一人で背負っている。
(あんな若いのに……大変な立場なんやろな)
心の中でぽつりと呟く。
この前は事情も知らず、感情に任せて彼女を責めてしまった。もちろん、あの横暴な現場の対応に腹が立った気持ちに嘘はないし、自分が言ったことが間違っていたとは思っていない。
だが、あの激しい泥沼の責任をすべて彼女一人の肩に押し付けるような言い方をしたのは、少し言い過ぎだったかもしれない。
(……)
亮は少し思案した。
(まあ……挨拶がてら、一言謝っとくかな)
ちょうどその時、チェ秘書のスマホが甲高い着信音を鳴らした。秘書は深々と頭を下げながら電話に出て、ヨリから少し離れた場所へと歩いていく。
亮はもう一度、一人佇むヨリを見つめた。
(……よし)
亮は意を決して、ヨリの方へと歩み寄った。
その足音と気配に、ヨリが不意に気づく。
「……」
(また……あの男)
ヨリの表情が、わずかに硬くこわばった。
(――また何か不満でも言いに来たのかしら)
自分でも分かっていた。普段の自分なら、こんな見知らぬ街の男一人に動揺することなどない。それなのに、なぜかこの男の真っ直ぐな瞳に見つめられると、胸の奥がざわついて冷静でいられなくなるのだ。
近づいてくる亮に対し、ヨリは警戒を込めて先に口を開いた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
亮がピタリと足を止める。
「危険ですので、お引き取りください」
素っ気なく、冷ややかに告げると、ヨリはそれ以上関わりを拒むように背を向けた。
「……」
亮は一瞬、呆気に取られて目を丸くした。
(……やっぱり感じの悪いやつやなぁ)
思わず、口の中で小さく呟く。
「何か言いましたか?」
ヨリが振り返りもせずに冷たく問う。
「いえ」
亮は苦笑いを浮かべ、丁寧な標準語に切り替えて静かに答えた。
「すみません」
「……」
「この前は、少し言い過ぎたかと思いまして」
ヨリの背中が、ピクッと固まった。
「謝ろうと思ったのですが……」
亮は現場の出口の方へゆっくりと向きを変えた。
「……もう、結構です。失礼しました」
去っていく亮の背中を見つめながら、ヨリの瞳が激しく動揺に揺れた。
(謝ろうとした……? あの男が?)
あれほど冷徹に自分を一方的に責め立ててきた男が、自分に頭を下げに来ただなんて。
ヨリは思わず言葉を失い、亮の背中を見つめ返した。
「……」
その時だった――。
キー――ン……!
突然、亮の脳天を鋭い金属音のような耳鳴りが突き抜けた。
「……っ!」
亮の足が突如として止まる。
ヨリが眉をひそめた。
「……?」
亮の視界がグラリと大きく歪む。
(……またか!)
次の瞬間、現実の景色が掻き消え、亮の脳裏に【数秒先の未来】が鮮明に映し出された。
――ギシギシと悲鳴を上げる頭上のクレーン。
吊り上げられていた巨大な鋼鉄の資材が、固定を失ってゆっくりと傾き――次の瞬間、激しい重力とともに一気に落下する!
「……っ!?」
落下の直線上にいるのは――。
(あいつ……!?)
ヨリだった。
彼女はまだ、上空の異変に何も気づいていない。
(……間に合うか!?)
ドクン、ドクンと激しい心臓の鼓動。
耳鳴りと、未来の光景が現実とオーバーラップしていく。
あと二秒。
現実の時間が、未来の映像へと追いつく――!
亮の喉から、裂けるような叫びが飛び出した。
「危ないっ!!」
ヨリが驚いて振り返る。
「え?」
その瞬間――!
ガンッ――!!
轟音とともに、上空から巨大な鉄骨が重力に従って落下してきた――。




