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第六話 繋がらないピース

 ある日の昼下がり。亮の営む小さな小料理店。

ランチのピークを過ぎ、落ち着きを取り戻した店内で、カウンターの端に座る常連客がスマホのニュース画面を見つめながらぽつりと呟いた。

「しかし……ソンファ・グループも最近は大変だなあ」

「ん?」

仕込みの手を動かしていた亮が、ゆっくりと顔を上げた。

「ソンファ……?」

「亮さん、また知らないの?」

「何をですか?」

常連客は呆れたように笑いながら、手元のグラスを軽く揺らす。

「本当に世間のニュースに興味ないんだから、相変わらず」

「自分に関係ないことまで覚えていられませんからね。頭の容量が足りなくなりますよ」

「はは、まあ亮さんらしいけどね」

常連客は可笑しそうに笑うと、少しだけ声を潜めてカウンター越しに身を乗り出した。

「今ね、ソンファの社内、かなり揉めているらしいよ」

「へえ」

亮はトントンと包丁の規則正しい音を響かせながら、聞き流すように耳を傾けている。

「若くしてグループのトップに立った、かなりのやり手がいるんだけどね」

「……」

「パク・ヨリという女性代表だ」

「……へえ」

相変わらず亮の表情に大きな変化はない。常連客はそのまま話を続けた。

「ただ、今はグループ内でかなり熾烈な権力争いが起きているって噂でね」

「そうなんですか」

「副社長がかなり力を持っていて、裏で幅を利かせているらしいんだ」

「副社長?」

「昔ながらの権力主義で、かなり強引なやり方をする男だと聞くよ」

「……」

「最近ソンファの評判がガタ落ちしているのも、実はあの副社長が裏で色々黒い噂の手回しをしているからじゃないかって言われていてね」

その言葉に、亮の手がふっと止まった。

「例えば……どんなことです?」

「ほら、うちの近くでやっている、あのホテル建設事業の件とかさ」

亮の目つきが変わった。

「ああ……あの現場ですか」

脳裏に、あの日の光景が鮮明に浮かび上がる。

怒号を上げる住民たち。力で押し通そうとする乱暴な男たち。

「俺もこの前、あの近くを通りかかった時にちょっと揉め事に巻き込まれましてね」

「そうなの? 災難だったね」

「ええ。ソンファの現場の人間、すごく感じ悪かったですよ」

常連客が苦笑しながら頷く。

「でしょう? でもね、亮さん」

「ん?」

「結局、世間から真っ先に叩かれるのは誰だと思う?」

亮は少し思案するように、手元の包丁を見つめた。

「……そりゃ、会社のトップでしょうね」

「その通り」

常連客は指を立てて大きく頷いた。

「現場で何が起きていようが、副社長が裏でどんな汚い手を使ってようが、世間から『ソンファは最低だ』って言われたら終わり。で、そのすべての責任を泥をかぶらされるのは――」

「……代表の、パク・ヨリ」

「そういうこと」

亮は静かに息を吐いた。

「大変な立場ですね……」

「まあね」

「お若いのに」

「まあ、相当なやり手らしいけどね」

亮は再び包丁を握り直し、規則正しい音を響かせ始めた。

けれど、胸の奥には――

あの現場の騒動の最中、車の中から冷ややかな、けれどどこか戸惑いを孕んだような瞳で群衆を見つめていた、あの女性の顔が確かに焼き付いていた。

(……大変やな、あの若さで……)

心の中でぽつりと呟く。

ただし。

亮はまだ、何ひとつ気づいていなかった。

あの現場で見た『冷酷そうな女』と、常連客の語る『苦境に立たされた代表パク・ヨリ』が同一人物だということを。

そして同時に。

愛菜が親しげに話していた『ヨリさん』が、あの女性だということも。

亮の中では――まだ何一つ、繋がっていなかった。


 ――数日後・愛菜の部屋

ソンファ希望の家でヨリと出会ってから、数日が経っていた。

愛菜はベッドの上に座り、スマホを見つめていた。

画面に表示されている名前。

パク・ヨリ

「……」

ホテルを見学してみない?

ヨリは確かにそう言ってくれた。

「愛菜さんだからいいのよ」

その言葉も、何度も思い出していた。

けれど。

「……電話なんか、していいのかな」

愛菜はスマホを置いた。

「相手は大企業の代表だよ?」

また手に取る。

「忙しいに決まってるし……」

また置く。

「でも、せっかく誘ってくれたんだし……」

また手に取る。

そんなことを、この数日間ずっと繰り返していた。

「……私、何やってるんだろ」

愛菜は小さく笑う。

電話をかけるだけ。

ただ、それだけのことなのに。

相手がヨリだと思うと、どうしても勇気が出ない。

今日こそ連絡しよう。

そう決めて。

スマホを手に取った。

しかし。

「いや……やっぱり忙しいかな」

愛菜はスマホをベッドの上に置いた。

そしてまた。

「でも、私から連絡しないと……」

手に取る。

「……あ」

その瞬間だった。

指先が画面に触れる。

プルルルル……

「…………」

愛菜は固まった。

ゆっくりとスマホの画面を見る。

パク・ヨリ 発信中

「……え?」

一瞬。

意味が分からなかった。

「……えっ?」

そして、数秒後。

「えええっ!?」

愛菜の顔から血の気が引いた。

「うそ! うそ、うそ、うそ!」

慌てて電話を切ろうとする。

「ど、どこ!? 切るって、どこ!?」

焦れば焦るほど、指が震える。

「お願い、切れて!」

しかし。

カチッ。

『……愛菜さん?』

「…………!」

愛菜は固まった。


 ――同じ頃・ソンファグループ代表室

「室長」

ヨリの声が、静かに響く。

「この数字、先月の報告と違うわよね?」

「……はい」

「理由は?」

「取引先との交渉が――」

「難航していることは分かっています」

ヨリは資料を見たまま言った。

「私が聞いているのは、なぜ当初の予測とこれほど差が出ているのかです」

「……申し訳ありません」

「謝罪が欲しいわけではありません」

ヨリが顔を上げる。

「原因を聞いています」

室長の背筋が伸びる。

決して怒鳴っているわけではない。

ただ。

ヨリの問いには一切の妥協がなかった。

秘書もすぐに資料を開く。

「代表、こちらをご覧ください」

「……」

ヨリの質問は続く。

一つ一つ。

曖昧な答えは許さない。

それは誰かを責めるためではない。

ソンファグループを。

そして。

そこで働く多くの人々を守るため。

ヨリは必死だった。

その時。

ブブッ――

テーブルの上に置かれていたスマホが震えた。

ヨリは何気なく画面を見る。

そして。

表情が変わった。

竹内愛菜

「……」

張り詰めていた表情が。

ふっと柔らかくなる。

室長と秘書が顔を見合わせる。

ヨリは迷うことなく電話を取った。

「少し失礼するわ」

そして。

『……愛菜さん?』


 ――愛菜の部屋

「……」

愛菜は完全に固まっていた。

電話の向こうから聞こえる、ヨリの優しい声。

「……あ」

頭の中が真っ白になる。

「……こ、こんばんは!」


 ――ソンファグループ代表室

ヨリの表情は、驚くほど柔らかかった。

室長が秘書へ顔を近づける。

「……誰からだ?」

秘書は小声で答える。

「数日前、ソンファ希望の家で代表がお会いになった……竹内愛菜さんです」

「希望の家?」

「はい」

「……」

室長は少し驚いた。

「代表が直接、連絡先を?」

秘書は静かに頷く。

「はい。私も、その時は驚きました」

電話の向こうから。

『……その、私……』

ヨリは優しく微笑んでいる。

『……間違えました!』

「……」

室長と秘書がヨリを見る。

一瞬の沈黙。

そして。

「ふふっ……」

ヨリが小さく笑った。

室長と秘書は、思わず顔を見合わせる。

ヨリが会議中に。

こんな風に笑うことなど、ほとんどなかった。

『あ……いや! 違います!』

愛菜の慌てた声。

ヨリは優しく言った。

『愛菜さん』

「……はい!」

『落ち着いて』

その声は。

ほんの数分前まで、仕事の進捗について容赦なく質問を続けていた人物と同じとは思えないほど優しかった。

室長と秘書は、静かにヨリを見つめる。

一体。

竹内愛菜とは、何者なのだろう。


 ――愛菜の部屋

「は、はい! 落ち着いてます! めっちゃ落ち着いてます!」

電話の向こうで語尾をひっくり返し、必死に深呼吸をする愛菜の様子が、手にとるように伝わってくる。

愛菜はベッドの上で正座をし直し、スマホを両手で強く握りしめた。

「あの……ヨリさん、本当にすみません! 間違えてボタンを押してしまって……! お忙しい時間ですよね!? すぐ切ります、ごめんなさい……!」

『切らなくていいのよ』

「え……?」

『ちょうど、少し休憩しようと思っていたところだから』

そう言って柔らかく微笑むヨリの言葉に、室長と秘書は思わず目を丸くした。

さきほどまで寸分の妥協も許さず詰め寄っていた代表が、自ら書類を伏せ、心底愛おしそうに目を細めている。

(……代表が、会議を途中で中断されるなんて……)

秘書は静かに手帳を閉じ、室長は言葉を失っていた。

電話の向こうで、愛菜が小さく安堵の息を吐くのが聞こえる。

『……愛菜さん?』

「は、はいっ!」

『電話をくれて、とても嬉しかったわ』

その静かで温かな一言に、愛菜の胸がどきりと跳ねた。

「……あの、私……ここ数日、ずっと迷っていて。ヨリさんにお電話してもいいのかなって。お忙しいだろうし、ご迷惑じゃないかなって……」

小さな声で打ち明ける愛菜に、ヨリの優しい声が届く。

『迷惑なわけないでしょう? 私はずっと、愛菜さんからの連絡を待っていたのよ』

「……え」

『希望の家で話したこと、覚えているかしら? ホテルの見学のこと』

「はい! もちろん覚えています……!」

『もし良かったら……今週末、時間はあるかしら?』

愛菜は思わずベッドから立ち上がりそうになった。

「えっ……! 今週末ですか!?」

『ええ。私が直接、案内したいの。愛菜さんに見てもらいたい場所があるのよ』

「私なんかで……本当にいいんですか……?」

『愛菜さんだから、見せたいのよ』

施設で言われた言葉と同じ。けれど、その声に含まれる温もりは、電話越しであっても愛菜の胸を強く打った。

「……行きたいです! ぜひ、行かせてください!」

『ふふ、良かった。詳しい時間は、後でメッセージで送るわね』

「はい! ありがとうございます……! あの、お仕事中にお邪魔してしまって、本当にすみませんでした……!」

『いいえ。とても良い気分転換になったわ。……じゃあ、週末にね、愛菜さん』

「はい! お仕事、頑張ってください! 失礼します!」

電話が切れると、愛菜はそのままベッドの上にバタリと倒れ込んだ。

「あ~~~っ! 緊張した……! 死ぬかと思った……!」

スマホを胸に抱きしめながら、愛菜の顔に自然と笑みがこぼれる。

「今週末……ヨリさんと、ホテル……」

胸の中にぽっと灯りがともったような、温かな高鳴りが広がっていった。

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