第五話 ふたつの顔を持つ人
「代表、そろそろお時間です」
静かに寄り添ってきたチェ秘書が、後ろから声をかける。
ヨリは手首の腕時計に目をやった。
「……分かりました」
短く答えると、ヨリは愛菜に向き直った。
「愛菜さん」
「はい?」
「インテリアを学んでいるのなら……」
ヨリはふっと何かを思いついたように、少し考えてから微笑みを浮かべた。
「うちのホテルも見学してみてはどうかしら?」
「ホテル……ですか?」
「ええ。建築やインテリアの装飾にはかなりこだわっているホテルなの。きっと勉強になると思うわ」
その提案に、愛菜の表情がぱっと明るく華やいだ。
「ありがとうございます! ぜひ見学させてください!」
そう答えつつも、愛菜は少し困ったように首を傾げる。
「でも……私のような一般の人が見学なんて、どうすれば……」
「そうね」
ヨリはあごに細い指先をあて、思案する。
「では、携帯で直接やり取りをしましょう」
「えっ?」
愛菜の目が驚きで見開かれる。
そして――その背後に控えていたチェ秘書もまた、思わず目を丸くしてヨリの横顔を見つめた。
こんなヨリの姿を見るのは、初めてだった。
普段のヨリなら、どんな要人相手であっても秘書を通して連絡させ、厳密にスケジューリングを組ませる。ましてや、慈善施設で出会ったばかりの一学生とプライベートで直接連絡を交わすなど、これまでの彼女からは到底考えられないことだった。
けれどヨリは、側近であるチェ秘書の困惑した視線にすら気づいていない。
ただ――愛菜だから。
自分でも理由は分からないが、ごく自然にそう思ったのだ。
愛菜はどこか恐縮しながら尋ねる。
「本当に……パク代表に直接お電話なんてさせていただいて、良いのでしょうか……?」
ヨリはまっすぐ愛菜を見つめ返した。
そして――今まで見たこともないような、どこまでも柔らかく優しい笑みを咲かせた。
「愛菜さんだから、いいのよ」
「……っ」
愛菜は一瞬息を呑み、それから本当に嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
「ありがとうございます、ヨリさん」
「こちらこそ」
二人は番号を交わすと、ヨリはチェ秘書を伴って静かに医務室を、そして施設をあとにした。
セダンが待つ玄関へと向かって廊下を歩く途中――チェ秘書がちらりとヨリの横顔を窺う。
「……代表」
「何?」
「いえ……」
チェ秘書は言葉を飲み込み、それ以上は何も言わなかった。
ただ、胸の奥で深く噛み締めていた。
(代表が……あのヨリ様が、あんな表情をなさるなんて……)
冷徹な城壁に閉ざされていたヨリの心が、ほんのわずかに解けていくのを感じていた。
そしてヨリ自身も、まだ知る由がなかった。
今日偶然出会ったこの一人の少女が――やがて自分にとって、かけがえのない大切な存在へとなっていき、運命の歯車を大きく動かしていくのだということを。
小料理店での仕事を終えた亮が、我が家の台所でトントンと包丁を響かせながら夕食の準備をしていた。
「父さん!」
玄関の開く音とともに帰宅した愛菜が、弾んだ楽しそうな声を上げた。
亮がまな板から顔を上げる。
「おかえり。どうした、そんな嬉しそうな顔して」
「今日ね、私すごく素敵な人と知り合いになれたの!」
愛菜は満面の笑みを浮かべ、カバンを置いて台所へ駆け寄ってくる。
「素敵な人?」
亮は包丁を動かす手を止め、少し首を傾げた。
「何それ。どこで出会ったん?」
「施設でね!」
愛菜は目を輝かせながら、嬉しそうに話し始める。
「ソンファ・グループの代表を務めている、パク・ヨリさんっていう女性!」
「……ソンファ・グループ?」
亮はぴたりと手を止めた。
しかし――それ以上の特別な反応はない。
亮は根っからの職人で、世間の情報にはめっぽう疎かった。日頃からテレビのニュースもロクに見なければ、大企業のトップの顔など知る由もない。
当然――ソンファ・グループの代表が誰で、どんな顔をした人物なのかなど、まったく知らなかった。
「ソンファ・グループ言うたら……」
亮は記憶を巻き戻すように少し首をひねる。
「あの、チョンウンドンで大きなホテル建てようとしてる、あの会社やろ?」
「そう!」
「昨日、ちょうどあの建設現場の近く通りかかったんやけどな……」
亮の脳裏に、あの緊迫した現場の光景と、冷たい目で立ち尽くしていたあの女の姿が蘇る。
「めちゃくちゃ感じの悪い連中がいてたよ」
「え?」
「住民と揉めてるのに、まともに話も聞こうとしない。挙げ句の果てに、ちょっとでも気に入らんかったら力で黙らせようとする。ほんま、あんな血も涙もない連中は嫌いやわ」
亮の表情が不機嫌そうに曇る。愛菜は少し驚いた顔を浮かべた。
「そんなことがあったんだ……」
「そうやねん」
亮はハァと溜め息をつき、再び包丁を握り直す。
「まあ、俺が首突っ込むような話でもないんやけどな」
「でも……」
愛菜はすぐに大きく首を横に振った。
「ヨリさんは絶対、そんなことに関係ないと思う!」
「なんでや?」
「今日お会いして、すぐに分かったもん!」
愛菜は熱を帯びた声で、今日施設で起きた出来事を一気に話し始めた。
廊下を走ってきた子どもとぶつかって倒れてしまったこと。
その現場に居合わせたヨリが、何よりも真っ先に子どもを心配してくれたこと。
そして――自分の膝の擦り傷に気づき、医務室で自ら優しく手当てをしてくれたこと。
「それでね、私の怪我のこともすごく心配してくれて……ホテルのインテリアの見学にまで誘ってくれたの!」
「へえ……」
「本当に、すごく温かくて素敵な人だったよ」
「ふーん……」
亮はどこか他人事のように頷きながら、鍋の様子を確かめている。
「父さんも一度会ったら絶対に分かると思う!」
「そうか?」
「うん!」
愛菜は一切の迷いなく力強く頷いた。
「ヨリさん、絶対に悪い人じゃないよ」
まっすぐな娘の瞳に、亮は思わず破顔した。
「愛菜がそこまで言うんやったら、ほんまにええ人なんやろな」
「うん!」
愛菜は満足そうにニコッと笑った。
二人はまだ、何も気づいていなかった。
今、この温かな食卓で話題に上っている人物が――まったく同じ一人の女性だということに。
亮にとっては。
『住民の悲痛な声に耳を傾けず、冷たく見下ろしていたソンファ・グループの女』
愛菜にとっては。
『見ず知らずの自分や子どもを心から心配し、優しく包んでくれたヨリさん』
そして――その対極にある二つの顔を持つ女性こそが。
パク・ヨリその人であった。




