↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/44

第四話 届かない記憶の扉

ヨリの差し出した手を借り、愛菜がゆっくりと立ち上がる。

「本当に申し訳ありません」

愛菜は深々と頭を下げる。

「お客様は、お怪我はありま……ございませんか?」

言葉の途中でぎこちなく丁寧語に直す愛菜の様子に、ヨリの口元に思わず小さな笑みがこぼれた。

その時、横に控えていたチェ秘書が静かに声をかける。

「こちらは、ソンファ・グループ代表のパク・ヨリ様です」

「……え?」

愛菜の瞳が大きく見開かれる。

「パク……代表……?」

事態の大きさに気づき、愛菜は慌てて引きつりながらもう一度頭を下げた。

「本当に、本当に申し訳ありません! この子は何も悪くないんです! 目を離してしまった私の責任で――」

「いいのよ」

ヨリが優しくその言葉を遮る。愛菜が恐る恐る顔を上げた。

「それより……」

ヨリの視線が、愛菜の足元へと向けられる。

「あなた、膝を擦りむいているじゃない」

「え?」

指摘されて初めて、愛菜は自分のスカートの裾から覗く膝に擦り傷ができていることに気づいた。

「医務室へ行きましょう」

「いえっ、大丈夫です! パク代表、そんなお気遣いは必要ありま――」

「必要あります」

迷いのない即答だった。愛菜がパチパチと目を瞬かせる。

ヨリは少しだけ目元を緩めると、拒否権を与えない柔らかい声で促した。

「さあ、医務室へ向かいましょう」

「……はい」

静かな医務室。

ヨリは職員から救急箱を受け取ると、迷うことなく愛菜の前にしゃがみ込んだ。

「ちょっと染みるわよ」

「はい……」

消毒液を含ませたガーゼが、そっと愛菜の傷口に触れる。

「……っ」

愛菜が小さく顔をしかめた。

「痛い?」

「ちょっとだけ……」

「我慢してね」

ヨリの応急処置の手つきは、驚くほど手慣れていて優しかった。傷口を丁寧に消毒し、大きめの絆創膏を上からそっと貼る。

その真剣な横顔を、愛菜はじっと見つめていた。

さっきまでテレビやニュースの中でしか見たことがなかった大企業のトップが、今、自分の足元にしゃがみ込んで傷の手当てをしてくれている。夢でも見ているような感覚だった。

「あなた、お名前は?」

傷口から手を離し、ヨリが顔を上げて尋ねる。

「竹内愛菜です」

答えながら、愛菜はすぐに言葉を付け加えた。

「……パク代表」

その呼び名を聞いた瞬間、ヨリの動作がふっと止まった。

「ヨリでいいわよ」

ヨリは立ち上がりながら、妹を慈しむような優しい笑みを浮かべた。

傍らで控えていたチェ秘書は、そのやり取りを目にして息を呑んだ。

(……ヨリ様が、初対面の人間に自分を名前で呼ばせるなんて……)

両親を亡くして以来、他人が自分に立ち入ることを拒み、完璧な壁を築いてきたヨリ。その彼女が、出会ったばかりのその娘に対して見せる嘘のような柔らかさと温かさ。チェ秘書にとって、それは何年ぶりかに見る、昔の『ヨリ様』の素顔そのものだった。

「え……」

「私も、あなたを愛菜さんって呼ぶから」

愛菜は驚きつつも、どこか誇らしそうに照れ笑いを浮かべた。

「あ……ヨリさん」

初めてその名前を口にする。胸の奥が少しだけ温かくなった。

「……本当に、自分でできますので」

恐縮する愛菜の姿に、ヨリはまた微笑んだ。

「そう?」

「はい!」

「じゃあ次からは、自分でちゃんと消毒すること」

「はいっ!」

愛菜が元気よく満面の笑みを弾けさせる。

その屈託のない笑顔を目にした瞬間――ヨリの胸の奥で、またしても何かが強く引っかかった。

初めて会ったはずなのに。

なぜだろう。

この眩しい笑顔を――どこかで、昔から知っていたような気がする。

けれど、その愛おしい記憶の破片は、まだ暗い水底に眠ったまま、芽吹く時を待っていた。

 

「愛菜さんは、いつからここで働いているの?」

ヨリが尋ねる。

「1年ほど前からお世話になっています」

「……そう」

ヨリは少しだけ施設の中に視線を巡らせた。

(……もう一年も、ここに来ていなかったのね……)

胸の奥に、じんわりとした痛みが走る。

父が何よりも大切にしていた場所。母もまた、この施設の子どもたちのことをいつも自分の家族のように気にかけていた。

「……お父さん、ごめんね」

誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。

ヨリは気持ちを切り替えるように顔を上げた。

「愛菜さんは、日本の方なの?」

「はい。父が日本人で、母が韓国人です」

「……日本」

その言葉を聞いた瞬間――ヨリの脳裏に、昼間の建設現場で出会ったあの男の顔が、嫌でも浮かび上がってきた。

あの強い瞳。一切怯まずに自分を真っ直ぐに見つめてきた姿。

「……本当に頭にくる男だったわ」

思わず眉間に深いシワが寄る。

「あー……もう」

小さく吐き捨てるように呟いた。

「……虫唾が走る」

「え?」

愛菜が心配そうにヨリの顔を覗き込んだ。

「どうかされましたか? ヨリさん?」

「えっ?」

ヨリはハッと我に返った。

「い、いえ。何でもないのよ、気にしないで」

「そうですか……?」

「ええ」

取り繕うように、ヨリは優しく微笑んで誤魔化した。

そして――なぜか自分でも不思議なほど、再び愛菜に向かって問いかけていた。

「……愛菜さんは、どうしてここで働こうと思ったの?」

 いつもなら他人のプライベートに深く踏み込むことなどしない。それなのに、どうしてこの若い娘のことがこれほどまでに気になってしまうのか、ヨリ自身にも分からなかった。

愛菜は少し首をひねり、思いを巡らせてから答えた。

「私……母に憧れていて」

「お母さんに?」

「はい」

愛菜の瞳が輝いた。

「母がインテリアに興味があったと聞いて、それで私もインテリアの道に進みたいと思うようになって……今、ソウル芸術デザイン専門学校に通っているんです」

「そうなの」

「父はいつも『やりたいことをやれ』って応援してくれるんですけど、決して裕福なわけじゃないので……少しでも学費の負担を減らしたくて。それに何より、ここには色んな事情を抱えた子どもたちがたくさんいるので、少しでもその子たちの心に寄り添えたらいいなって思ったんです」

愛菜の言葉には、打算も偽りも一切なかった。ただ父への深い感謝と、子どもたちへのどこまでも純粋な愛が溢れていた。

「そう……」

ヨリの口元に、自然と嬉しそうな笑みが浮かぶ。

「お母さんも、お父さんも大好きなのね、愛菜さんは」

「はい!」

愛菜は迷うことなく頷いた。その表情には、家族への純粋な愛着が満ち溢れていた。

しかし次の瞬間――愛菜は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「……本当は、母のこと、よく知らないんですけどね」

「え?」

ヨリの表情が止まった。

「どういうこと?」

愛菜は少し照れくさそうに言葉を重ねる。

「私、母が亡くなった時、まだ小さかったので……」

「……」

「父から聞いた話でしか、お母さんのことを知らなくて」

その瞬間、ヨリの胸が強く締め付けられた。

小さかった――。

その言葉の裏にある何かに、理由の分からない切なさと違和感が込み上げてくる。

「……そう」

ヨリはそれ以上、深く尋ねることができなかった。

けれど心の中には、ふつふつと一つの問いが芽生えていた。

(この子のお母さんは……一体、どんな人だったのだろう)

 遠い記憶の扉を叩くような不思議な愛おしさを胸に残したまま、ヨリは静かに愛菜を見つめ続けていた。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。