↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/42

第三話 忘れていた温もり

今日、愛菜が向かうのは――

『ソンファ希望の家』だった。

ソウル芸術デザイン専門学校に通う傍ら、愛菜はここでアルバイトをしている。学費の足しにするためだった。

竹内家は決して裕福ではない。それでも、自分が夢見るインテリアデザインを学ぶことを、父である亮は一度だって反対しなかった。

「やりたいことをやればええ」

いつだって微笑みながら、自分の道を応援してくれた父。だからこそ――少しでも父さんの助けになりたい。愛菜は心の底からそう思っていた。

そして何より、愛菜はこの場所が大好きだった。

施設には、それぞれ違った事情を抱えた子どもたちが暮らしている。

親を失った子。親と暮らせない子。幼い胸に深い傷を抱えた子――。

愛菜は、そんな子どもたち一人ひとりに優しく寄り添う。時には、自分自身の姿と重なってしまうこともあった。

自分にも、母親がいない。

だからこそ――この子たちには、自分ができる限りの温かい愛情を注いであげたかった。

「大丈夫だよ」

「一緒にやろうか?」

「ほら、遊ぼっか」

子どもたちに向ける愛菜の笑顔には、打算など一切なかった。その屈託のない優しさは、傷ついた幼い心をつなぎとめる確かな光となっていた。

一方――

『ソンファ希望の家』へと向かう一台の黒塗りセダン。

後部座席にはヨリが揺られ、その隣にはチェ秘書が静かに腰掛けていた。

ヨリにとって、この場所は特別だった。

大好きだった父と母が――何よりも大切にしていた場所。

両親が生きていた頃から続く、ソンファ・グループの慈善事業だった。

採算など、ほとんど考えられていない。株主や役員たちから、

「いつまでこのような無利益な事業を続けるのですか」

「費用対効果を見直すべきではありませんか」

そう言われたことも一度や二度ではない。それでもヨリは、周囲の反対を押し切ってこの場所を守り続けてきた。

ここだけは、絶対に失いたくなかった。両親の温もりが残る、最後の場所だからだ。

だが、代表としての業務は苛烈を極める。来たいと思いながらもなかなか時間を作れず、今日――ようやく訪問する時間ができたのだった。

車が静かに停車した。

「到着いたしました、代表」

「ええ」

ヨリがゆっくりと車を降りる。

目の前に広がっていたのは、ソウルの中心部の狂騒から切り離されたかのような、緑の多い穏やかな景色だった。

ヨリはゆっくりと足を踏み出し、ふと立ち止まった。

まぶたを閉じ、大きく息を吸い込む。

すぅ……。

胸いっぱいに広がる、深い緑の匂い。風にそよぐ木々の葉音と、遠くで聞こえる鳥のさえずり。

まるで――父と母の懐かしく優しい匂いを、胸いっぱいに吸い込むかのように。

「……お父さん……お母さん……」

ぽつりと漏れた小さな呟き。

その顔には、会社を背負う冷徹な代表としての強さではなく、幼い頃のヨリの顔が戻っていた。

隣に立つチェ秘書は何も言わず、ただそっとヨリを見守る。

この場所だけは――ヨリにとって、両親と繋がるかけがえのない聖域なのだと知っていたから。

施設内を一通り見学したヨリたちは、食堂へと向かった。ちょうど昼食の時間帯だった。

食堂には、子どもたちの賑やかで楽しそうな声が響き渡っている。

「おいしい!」

「ねえ、これおかわりある?」

弾むような笑い声と温かな熱気。ヨリは少し離れた場所から、そんな子どもたちの姿を柔らかく優しい眼差しで見つめていた。

だがその中に――箸がなかなか進まず、所在なさげにぽつんと座っている子が一人いた。

ヨリの表情が少し曇る。

「……あの子、大丈夫かしら」

「少し様子を見てみましょう」

チェ秘書の言葉にヨリが頷き、歩き出したその時だった。

廊下の角から、小さな女の子が突然走ってきた。

「待ってー!」

「こら! 走ったら危ないよ!」

後ろから焦ったような愛菜の声が追いかけてくる。

――ドンッ!

曲がり角の先で、女の子とヨリの身体が激しくぶつかった。

「きゃっ!」

勢いを殺しきれず、女の子の身体が大きくよろめく。倒れ込むその先にあるのは、硬いフローリングの床だった。

「危ない!」

愛菜の叫び声が廊下に響き渡る。

次の瞬間――

ズサッ!

まるで野球のヘッドスライディングのような音を立て、愛菜が床を滑りながら両手を必死に伸ばした。

女の子の後頭部が床に叩きつけられる、ほんのわずか手前――愛菜の温かい両手が、その小さな頭を滑り込みセーフで受け止めた。

「……っ!」

静まり返る廊下。愛菜は床にべったりと寝そべった体勢のまま、女の子の頭を両手でしっかりと支え続けている。

「……よかった……」

愛菜は胸を撫で下ろし、小さく安堵の息を吐いた。女の子の身体に怪我がないことを確かめ、ほっと表情を緩める。

一方、ヨリは――目を丸くしたまま、目の前で起きたあまりに破天荒で必死な光景を見つめていた。

「……」

一瞬、何が起きたのか頭が追いつかない。

やがて我に返ったヨリは、素早く女の子を抱き起こした。

「大丈夫? 痛いところはない?」

身体をさすりながら確認すると、女の子はキョトンとした顔で首を横に振った。

その横では、愛菜がまだ床に転がったままだ。

「……大丈夫?」

愛菜は自分の体勢も気にせず、真っ先に女の子の顔を覗き込んで心配している。ヨリは思わず愛菜に視線を向けた。

「あなたも……大丈夫なの?」

問いかけられた愛菜は、困ったように苦笑いを浮かべた。

「私は……大丈夫、です」

そう言いながら立ち上がろうとするが、勢いよく滑り込んだ反動で身体が思うように動かず、うぐっと声を漏らす。

ヨリは女の子をチェ秘書に預けると、迷いなく愛菜の前にしゃがみ込んだ。

「ちょっと待って」

ヨリは愛菜に向かって、すっと細く美しい手を差し出した。

「手を貸すわ」

「あ……ありがとうございます」

愛菜は少し戸惑いながらも、その手を握り返した。

――その瞬間。

ヨリの表情が一変した。

「……え?」

ほんの一瞬。言葉では説明のつかない強い何かが、胸の奥を激しく突き抜けた。

懐かしい。温かくて、切なくて、どうしても愛おしい――そんな記憶の破片のような感覚。

けれど、なぜ見ず知らずの少女の手からそう感じるのか、ヨリ自身にも全く分からなかった。

愛菜もまた、握られたヨリの手を見つめ、不思議な温もりを感じていた。

「ありがとうございます……」

ヨリは言葉を返せず、ただ目の前の少女を強く見つめ返すことしかできなかった。

この時はまだ――二人とも知る由もなかった。

この手が、17年前のあの冷たく暗い海の中で、確かに繋がっていた手だということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。