第三話 忘れていた温もり
今日、愛菜が向かうのは――
『ソンファ希望の家』だった。
ソウル芸術デザイン専門学校に通う傍ら、愛菜はここでアルバイトをしている。学費の足しにするためだった。
竹内家は決して裕福ではない。それでも、自分が夢見るインテリアデザインを学ぶことを、父である亮は一度だって反対しなかった。
「やりたいことをやればええ」
いつだって微笑みながら、自分の道を応援してくれた父。だからこそ――少しでも父さんの助けになりたい。愛菜は心の底からそう思っていた。
そして何より、愛菜はこの場所が大好きだった。
施設には、それぞれ違った事情を抱えた子どもたちが暮らしている。
親を失った子。親と暮らせない子。幼い胸に深い傷を抱えた子――。
愛菜は、そんな子どもたち一人ひとりに優しく寄り添う。時には、自分自身の姿と重なってしまうこともあった。
自分にも、母親がいない。
だからこそ――この子たちには、自分ができる限りの温かい愛情を注いであげたかった。
「大丈夫だよ」
「一緒にやろうか?」
「ほら、遊ぼっか」
子どもたちに向ける愛菜の笑顔には、打算など一切なかった。その屈託のない優しさは、傷ついた幼い心をつなぎとめる確かな光となっていた。
一方――
『ソンファ希望の家』へと向かう一台の黒塗りセダン。
後部座席にはヨリが揺られ、その隣にはチェ秘書が静かに腰掛けていた。
ヨリにとって、この場所は特別だった。
大好きだった父と母が――何よりも大切にしていた場所。
両親が生きていた頃から続く、ソンファ・グループの慈善事業だった。
採算など、ほとんど考えられていない。株主や役員たちから、
「いつまでこのような無利益な事業を続けるのですか」
「費用対効果を見直すべきではありませんか」
そう言われたことも一度や二度ではない。それでもヨリは、周囲の反対を押し切ってこの場所を守り続けてきた。
ここだけは、絶対に失いたくなかった。両親の温もりが残る、最後の場所だからだ。
だが、代表としての業務は苛烈を極める。来たいと思いながらもなかなか時間を作れず、今日――ようやく訪問する時間ができたのだった。
車が静かに停車した。
「到着いたしました、代表」
「ええ」
ヨリがゆっくりと車を降りる。
目の前に広がっていたのは、ソウルの中心部の狂騒から切り離されたかのような、緑の多い穏やかな景色だった。
ヨリはゆっくりと足を踏み出し、ふと立ち止まった。
まぶたを閉じ、大きく息を吸い込む。
すぅ……。
胸いっぱいに広がる、深い緑の匂い。風にそよぐ木々の葉音と、遠くで聞こえる鳥のさえずり。
まるで――父と母の懐かしく優しい匂いを、胸いっぱいに吸い込むかのように。
「……お父さん……お母さん……」
ぽつりと漏れた小さな呟き。
その顔には、会社を背負う冷徹な代表としての強さではなく、幼い頃のヨリの顔が戻っていた。
隣に立つチェ秘書は何も言わず、ただそっとヨリを見守る。
この場所だけは――ヨリにとって、両親と繋がるかけがえのない聖域なのだと知っていたから。
施設内を一通り見学したヨリたちは、食堂へと向かった。ちょうど昼食の時間帯だった。
食堂には、子どもたちの賑やかで楽しそうな声が響き渡っている。
「おいしい!」
「ねえ、これおかわりある?」
弾むような笑い声と温かな熱気。ヨリは少し離れた場所から、そんな子どもたちの姿を柔らかく優しい眼差しで見つめていた。
だがその中に――箸がなかなか進まず、所在なさげにぽつんと座っている子が一人いた。
ヨリの表情が少し曇る。
「……あの子、大丈夫かしら」
「少し様子を見てみましょう」
チェ秘書の言葉にヨリが頷き、歩き出したその時だった。
廊下の角から、小さな女の子が突然走ってきた。
「待ってー!」
「こら! 走ったら危ないよ!」
後ろから焦ったような愛菜の声が追いかけてくる。
――ドンッ!
曲がり角の先で、女の子とヨリの身体が激しくぶつかった。
「きゃっ!」
勢いを殺しきれず、女の子の身体が大きくよろめく。倒れ込むその先にあるのは、硬いフローリングの床だった。
「危ない!」
愛菜の叫び声が廊下に響き渡る。
次の瞬間――
ズサッ!
まるで野球のヘッドスライディングのような音を立て、愛菜が床を滑りながら両手を必死に伸ばした。
女の子の後頭部が床に叩きつけられる、ほんのわずか手前――愛菜の温かい両手が、その小さな頭を滑り込みセーフで受け止めた。
「……っ!」
静まり返る廊下。愛菜は床にべったりと寝そべった体勢のまま、女の子の頭を両手でしっかりと支え続けている。
「……よかった……」
愛菜は胸を撫で下ろし、小さく安堵の息を吐いた。女の子の身体に怪我がないことを確かめ、ほっと表情を緩める。
一方、ヨリは――目を丸くしたまま、目の前で起きたあまりに破天荒で必死な光景を見つめていた。
「……」
一瞬、何が起きたのか頭が追いつかない。
やがて我に返ったヨリは、素早く女の子を抱き起こした。
「大丈夫? 痛いところはない?」
身体をさすりながら確認すると、女の子はキョトンとした顔で首を横に振った。
その横では、愛菜がまだ床に転がったままだ。
「……大丈夫?」
愛菜は自分の体勢も気にせず、真っ先に女の子の顔を覗き込んで心配している。ヨリは思わず愛菜に視線を向けた。
「あなたも……大丈夫なの?」
問いかけられた愛菜は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「私は……大丈夫、です」
そう言いながら立ち上がろうとするが、勢いよく滑り込んだ反動で身体が思うように動かず、うぐっと声を漏らす。
ヨリは女の子をチェ秘書に預けると、迷いなく愛菜の前にしゃがみ込んだ。
「ちょっと待って」
ヨリは愛菜に向かって、すっと細く美しい手を差し出した。
「手を貸すわ」
「あ……ありがとうございます」
愛菜は少し戸惑いながらも、その手を握り返した。
――その瞬間。
ヨリの表情が一変した。
「……え?」
ほんの一瞬。言葉では説明のつかない強い何かが、胸の奥を激しく突き抜けた。
懐かしい。温かくて、切なくて、どうしても愛おしい――そんな記憶の破片のような感覚。
けれど、なぜ見ず知らずの少女の手からそう感じるのか、ヨリ自身にも全く分からなかった。
愛菜もまた、握られたヨリの手を見つめ、不思議な温もりを感じていた。
「ありがとうございます……」
ヨリは言葉を返せず、ただ目の前の少女を強く見つめ返すことしかできなかった。
この時はまだ――二人とも知る由もなかった。
この手が、17年前のあの冷たく暗い海の中で、確かに繋がっていた手だということを。




